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【ベルベット・ファシストの活動① 国士舘という名の客家人大学】

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ヤクザ暴力団魔フィアの血筋の小泉さんを絶賛する、名無し先生、マヨのぼやきブログの、S氏と、小泉さんを逆に、稀代の売国奴と罵倒する、尊王攘夷派?nueqさんの、情報源の、S氏は、別人だとは思いますが。

講演会参加者は、要確認ですね。

その名無し先生最新もまた、都知事選の背景、水面下の、裏社会バトルと合わせて、参考になりますね。Φ(^π^;)φ


【ベルベット・ファシストの活動① 国士舘という名の客家人大学】

http://jfcoach.blog49.fc2.com/blog-entry-242.html

こんにちは、客家人が日本をはじめとするアジアを支配している事は以前も書きました。

今回は第二次世界大戦後の日本に客家人がどうのような影響を与えたかについて書きます。

この具体例で、国士という言葉を使い、堂々と北朝鮮に資金を流している国士舘大学と国士舘大学乗っ取りに絡む、大塚製薬(ホールディングス)、松野頼三、蓮峯、宮脇磊三私学財団、文部省等の、やり口のお話しです。

先生のお仕事は、様々な情報を元に、ベルベット・ファシストの悪事を食い止める事ですが、その一環で、ある月刊誌を発行しています。

この月刊誌は毎号国会図書館で蔵書になってしまうし、大手企業の多く、公官庁も購読者ですから、問題が周知されてしまう訳です。

国士舘に関わる共産勢力=コミュニストの乗っ取り工作。

蓮舫

台湾・台南県白河鎮出身で、主に日本の企業との間で貿易業を営んでいた父・謝哲信と、「ミス・シセイドウ」だった日本人の母・斉藤桂子の長女として生まれた。父方の祖母である陳杏村は、「戦時中に上海で日本軍を相手として富を築き、戦闘機を日本軍に寄付するなどした。戦後は漢奸として起訴されたが、中国国民党の地下工作員であったので無罪となった[4]」と報じられているが、蓮舫事務所は否定している[5][出典無効]。

青山学院幼稚園、青山学院初等部、中等部・高等部、青山学院大学法学部公法学科卒業。1995年(平成7年)から1997年(平成9年)にかけては北京大学漢語中心に留学。

いきなりの展開ですが、蓮舫の祖母が陳杏村。
台湾バナナの利権の半分を持っていました。
その他日本との交易の権利を国家レベルの大きさで持っていた女傑です。

陳杏村( 置屋のママ)の孫が蓮舫です。
日本側のバナナの輸入組合を仕切っていたのが、砂田ファミリー。

ドールバナナのサイト http://www.dole.co.jp/banana_history/leader/shimizu.html

砂田氏は国士舘を交易財団法人・東京都私学財団が乗っ取った時の文部大臣。

その他北朝鮮がらみの人間が理事に全部入っています。

柔道界の重鎮も・・・

金正日の葬儀にアントニオ猪木だとかが出席していましたね。
猪木は力道山の弟子で、力道山は朝鮮人。
北朝鮮への金の流れで有名なパチンコ関係ですが、このパチンコの景品に多かったのが大塚食品の製品です。
大塚製薬、大正製薬など上にホールディング・カンパニーとして、大塚ホールディングスが浮上。
当時大塚ホールディングスは上場していなかったので、金の流れが不透明でした。

ここから北朝鮮に大量の金が流れていたのです。

そこで、国際秩序維持派は圧力をかけ、その年度内に上場しなければホールディング・カンパニーとしての認証を取り消す措置を取りました。

これを受け北朝鮮への送金ルートに、研究開発費を通して利用され始めたのが国士舘。
それで理事連中の背後調査を行いました。
国際秩序維持派 のターゲットは北朝鮮への送金ルート潰し。

当然、後ろに在ったのは客家人のネットワークです。

国士舘に限らず、鹿島建設、大塚製薬、花王、山王信金・・・様々な会社も客家人ネットワークなのです。

国士舘理事の宮脇磊介

宮脇 磊介(みやわき らいすけ、昭和7年(1932年)1月2日 - )は、日本の警察官僚。元皇宮警察本部長。元内閣広報官。中曽根内閣時代の1986年に、内閣官房再編により、新設された内閣官房内閣広報官室の初代内閣広報官(兼第13代内閣総理大臣官房広報室長)に就いた。

のちのバブル崩壊について、不良債権総額200兆円のうち60兆円がヤクザ絡みだと指摘し、「ヤクザ・リセッション」を造語した。

著書に『騙されやすい日本人』(新潮社、のち新潮文庫)、『サイバークライシス 「見えない敵」に侵される日本』(PHP研究所)。また朝日新聞大阪本社経済部編『なにわ金融事件簿』(かもがわ出版)に作家高村薫との対談がある。

父の宮脇倫は、埼玉県知事(官選)などを歴任した元内務官僚。
彼は元皇宮警察のトップで中曽根内閣時の内各参謀に入ってました。
九州の鉄道利権の家柄です。

国士舘大学は柴田徳次郎が渋沢栄一、頭山満の金でスタートし、更に私学財団に乗っ取られ、北への送金ルートと、パチンコ関係に乗っ取られた訳で、これが昭和ということです。

国士舘は柴田徳次郎が創設者となっていますが、渋沢と頭山がつくった大学です。

頭山 満(とうやま みつる、安政2年4月12日(1855年5月27日) - 昭和19年(1944年)10月5日、幼名:乙次郎)は、明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭。玄洋社の総帥。号は立雲。

玄洋社は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在であり、後の愛国主義団体や右翼団体に道を開いたとされる。また、教え子の内田良平の奨めで黒龍会顧問となると、大陸浪人にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・黒幕的存在と見られた。一方、中江兆民や吉野作造などの民権運動家や、アナキストの伊藤野枝や大杉栄とも交流があった。また、鳥尾小弥太・犬養毅・広田弘毅など政界にも広い人脈を持ち、実業家(鉱山経営者)や篤志家としての側面も持っていた。

条約改正交渉に関しては、一貫して強硬姿勢の主張をおこない、また、早い時期から日本の海外進出を訴え、対露同志会に加わって日露戦争開戦論を主張した。同時に、韓国の金玉均、中国の孫文や蒋介石、インドのラス・ビハリ・ボース、ベトナムのファン・ボイ・チャウなど、日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った。

アジア主義(アジアしゅぎ)、または汎アジア主義(はんアジアしゅぎ、英語: Pan-Asianism)とは、日本と他のアジア諸邦の関係や、アジアの在り方についての思想ないし運動の総称である。19世紀後半に活発となった欧米列強のアジア侵出に対抗する方策として展開された。

欧米列強の脅威の排除とアジアとの連帯を目指した主張で、明治中期までの日本ではもっぱら興亜会に代表される「興亜論」(こうあろん)の名称で呼ばれた。その内容は開国文明化、協同、合邦、新秩序構築など、論者の思想、立場によって異なり一義的な定義はない。また国際情勢の変化に伴って主張内容が変化する。

当初は日本と中国(支那)・朝鮮との対等提携指向を指すものであったが、江華島事件や壬午事変、甲申政変を経て起こった日清戦争で、元来のアジア主義の理念は一旦崩壊し、政府や国内の新聞も清や朝鮮への対外強硬論が主流となり、日清戦争以後の亜細亜主義の定義は、元来のアジアとの平和協調路線とは完全に正反対のものになった。

日露戦争以降のアジア主義の定義は、東アジアにおける日本の優位を前提にアジアの革命勢力を支援する思想に発展し、やがて日本を盟主としたアジアの新秩序構築(アジア・モンロー主義あるいは大アジア主義)、そして昭和研究会による「東亜協同体論」としての政策化、「大東亜共栄圏」構想へとつながっていく。1945年の日本の敗戦によって、近代アジア主義は終焉したとされる。

その後の国際的な地域統合の流れの中で生まれた「東アジア共同体」構想も、しばしば戦前・戦中アジア主義と関連付けて言及されることがある。

玄洋社(げんようしゃ、1881年 - 1946年)は、旧福岡藩(黒田藩)士が中心となって、1881年(明治14年)に結成されたアジア主義を抱く政治団体。

概要

当時の在野の多くの政治結社と同じく、欧米諸国の植民地主義に席捲された世界の中で、人民の権利を守るためには、まず国権の強化こそが必要であると主張した。また、対外的にはアジア各国の独立を支援し、それらの国々との同盟によって西洋列国と対抗する大アジア主義を構想した。明治から敗戦までの間、政財界に多大な影響力を持っていたとされる。日本の敗戦に伴い1946年(昭和21年)、GHQは「日本の国家主義と帝国主義のうちで最も気違いじみた一派」として解散を命令した。 実際は、解散されなかった。

主な活動

1881年(明治14年)、平岡浩太郎を社長として、旧福岡藩士らが中心となり、杉山茂丸、頭山満、箱田六輔、大原義剛、福本誠、内田良五郎(内田良平の父)、進藤喜平太(進藤一馬の父)、月成功太郎、末永純一郎、武井忍助、古賀壮兵衛、的野半介、月成勲、児玉音松らが創立に参画し、新聞「福陵新報」を創刊し、吉田磯吉といった侠客や、「二六新報」の主筆・鈴木天眼もしばしば関係した。

戦前、戦中期にかけて軍部・官僚・財閥、政界に強大な影響力を持ち、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦そして第二次世界大戦と日本の関わってきた数々の戦争において情報収集や裏工作に関係してきた。またアジア主義の下に、中国の孫文や李氏朝鮮の金玉均をはじめ、当時欧米諸国の植民地下にあったイスラム指導者などアジア各国の独立運動家を強力に支援した。

玄洋社の社則の条項は「皇室を敬戴すべし」、「本国を愛重すべし」、「人民の権利を固守すべし」というものであった。当時、薩長藩閥政府による有司専制を打破するために、議会の開設を要求した有力な政治勢力の一つは、今日「右翼」と称される玄洋社などの民間結社であった。しかし、これらの勢力が議会開設後に一転して政府と一体になって選挙干渉に転じた。その理由は、当時の議会が「民力休養」を掲げ、軍事予算の削減を要求しながら清国との戦争を躊躇していたためであった。玄洋社は、テロも含めた激しい選挙干渉を実行している。

他に玄洋社が関わった有名な事件としては、1889年(明治22年)の大隈重信爆殺未遂事件がある。当時外務大臣だった大隈は、日本が幕末に結んだ不平等条約の改正をはかったが、その改正案は関係各国に対しかなり妥協的であり、国民的反対運動がたちまち全国を覆った。しかし、剛毅な大隈は決して自案を曲げなかったため、玄洋社社員の来島恒喜が大隈に爆弾を投擲し、自身もその場で咽喉を斬って自決したのである。来島の投げた爆弾は過激自由民権運動家の大井憲太郎から提供されたものと言われている。事件で大隈は右足を失いながらも、尚自説を貫く決意であったが、政府は方針を急転し、大隈は辞職したため、この妥協的改正案は見送られることとなった。

玄洋社の社員らが掲げた有名なスローガンには「大アジア主義」(孫文の神戸演説に語源があるとされる)がある。彼らは、朝鮮の親日開花運動家金玉均や朴泳孝、インドの独立運動家ラース・ビハーリー・ボースらを庇護し、アメリカと独立戦争を戦うフィリピンのアギナルドへは武器と義兵を送ろうとした。

1901年(明治34年)に、内田良平らが黒龍会(玄洋社の海外工作を担う)を設立してからは、より多彩な活動が展開されるようになる。孫文らの辛亥革命を支援するために、多くの浪人たちが清朝政府軍やその後の軍閥政府軍と戦っている。

日露戦争中全般にわたり、ロシア国内の政情不安を画策してロシアの継戦を困難にし、日本の勝利に大きく貢献した明石元二郎も玄洋社の社中(社員)であった。陸軍参謀本部参謀次長長岡外史は、「明石の活躍は陸軍10個師団に相当する」と評した。また、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、「明石元二郎一人で、満州の日本軍20万人に匹敵する戦果を上げている。」といって称えた。

また、日韓問題については、内田良平は一進会の領袖李容九と、日本と大韓帝国(韓国)の対等な立場での合邦を希望し運動した。

昭和に入ると、玄洋社と関係の深かった中野正剛らは、大日本帝国憲法を朝鮮・台湾にも施行して、内地と朝鮮の法律上の平等の徹底(参政権は属地主義であったため、日本内地在住の朝鮮人、台湾人にのみ選挙権、被選挙権があった)をはかるべきと主張した。一方、頭山満と親交のあった葦津耕次郎らは、国家として独立できるだけの朝鮮のインフラ整備は既に完了したとして朝鮮独立を主張した。葦津は、満州帝国に対する関東軍の政治指導を終了すべきことも主張している。

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左から、出口王仁三郎、頭山、内田良平

また、最近人気の倉山満という、チャンネル桜等に出演している人物は国士舘大学体育学部・21 世紀アジア学部非常勤講師とという、乗っ取った後の側の傀儡ですから、北朝鮮寄りの人間です。

こういうところが研究開発費の名目で北朝鮮に金を送っています。

倉山1

なお、この記事は、殺人事件にまでつながるお話ですので、次回以降、続きを書きたいと思います。


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