長文過ぎて行間補正も大変ですが。参考になりますね。 親愛なる仲間達、皆さんが人々を判断することは、皆さんが新しい誰かと最初に出会う時に皆さんが行うまさに最初の物事のひとつですが、それはどれほど正しいものなのでしょうか? その見た目に基づいて誰かを判断することは、数多くの親愛なる魂達に悪い判断と偽りの前提に導くものです。 最初の出会いで、この個人が誰か、彼または彼女が信じる物事、あるいは彼らの価値観は何なのかを伝える、確実な情報はありません。 皆さんが皆さんの判断に基づいているすべては、皆さんが外部から確認することができるものです。 皆さんが新しい誰かと最初に出会い、交流する時、それはその人の服装、話し方、もしかすると歩き方、そして皆さんが目を向ける他の表面的な観察になります。 皆さんが交わっているその個人についてのその判断が正しいか正しくないかにかかわわらず、ひとつの観察は、皆さんがひとつの判断または意見を形成するために役立つことになるでしょう。 わたし達は何度も、傲慢で時に無礼だと考えられている寡黙な人々や、人々が望むことを行うために誰にでも優しく話す能力を持つある個人が良い人として考えられる状況を観察してきましたが、しかしこうした種類の判断は、その内面でその個人が誰なのかについては伝えません。 皆さんの時代で最も思いやりのある人々の一部は、羽振りの良いほど裕福ではありませんでした。 その人は、その人が奉仕する人々と同じのような衣服を着用していました。 ひとりの個人の外観は、内部から続いているものを伝えることはありません。 誰かをその見た目に基づいて判断することは、皆さん自身が事実通りこの新しい個人を認識することを許しません。 何故なら、皆さんは既に、その印象が正しいかどうかにかかわらず、その人々のひとつの印象を培っているからです。 親愛なる仲間達、誰かと数分会った直後にその人々を完全に理解することなど、事実通り不可能です。 その通り、皆さんは、彼らは身なりが良いまたは悪い、と伝えることができます。 その通り、彼は清潔か清潔ではないかもしれず、あるいは良い礼儀を持つか全く持たないかもしれません。 しかしこうした観察は、その個人の考え方を描写することはなく、その観察は必ずしもこの新しい個人の物語、耐えなければならなかった困難、苦悩したなんらかの喪失を伝える訳ではありません。 その見た目に基づいて誰かを判断することは、しばしば非常に人を惑わすものになります。 親愛なる皆さん、ここに皆さんが考えることが必要なひとつの質問があります。 皆さんが皆さんの側に立っているひとりの人間を確認する時、彼の年齢にもかかわらず、皆さんは、彼に話し掛けることなく、確かに彼の外見から、彼がひとりの紳士か、あるいはその特徴が人を騙すことである者かどうかを決めることができます。 皆さんは、特定の衣装を着用する点に対してひとりの紳士を把握しますが、しかし衣服だけでは、ひとりの人間からひとりの紳士を創り出すことはありません。 彼は一着のスーツを着用していて、礼儀正しく見えるかもしれませんが、しかしスーツの中のその男性は、もしかすると他の誰かを装って皆さんに偽りの印象を信じさようとしている、人を欺く者なのかもしれません。 ひとりの個人が自分自身を提示する方法は、その特徴になるもの、好きなもの嫌いなものに近い物事を、間接的に話しません。 実際に、外見的な見た目は、彼らの身体を覆っている衣服の下のその人柄について、皆さんにほとんど何も伝えません。 もしも皆さんが過去の何らかの理想主義的か浪漫的な人間関係ついて考えるなら、もしも皆さんがその個人が自分自身を提示する方法によってその個人を判断せずに最初にその個人についてより多くの物事を知ろうとする時間を取っていたとすれば、おそらくその考えは別のものに転じていたか、省かれていた可能性があります。 またこの考え方は、商取引、詐欺、そして他の否定的な態度にも適用することができます。 皆さんは、一度の単純な出会いまたは交流で、皆さんが出会うその個人が信頼できて正直かどうかを判断することはできません。 親愛なる仲間達、もしも皆さんが決してその見た目に基づいて他の人々を判断するこの組み込まれている本能を持たなかったとすれば、世界がどれほど沢山変わったものになっているか、皆さんはそれを思い描くことができますか? わたし達は皆さんに、これについて考えることを勧めます。 もしも皆さんが決していつも誰かを見た目によって判断することがなかったとすれば、世界がどうなっているか、それを考えてください。 その利点または欠点がどのようなものになり得るかを、考えてください。 皆さんは、欠点よりも利点の方が多くなるだろうと考えますか? ありがたいことに、皆さんは依然として誰かをその見た目によって判断しない力を持ち、そして皆さんは、皆さんに適切に判断して断定的な判断をしないという選択肢を選ぶ能力を与えた神に、感謝することができます。 わたし達は、既に皆さんが、特にもしも皆さんが別の個人を認識しないかその個人が今まで歩んできた度について知らないとすれば、その個人を断定的に判断することは悪いことだと伝えられていることを、認識しています。 皆さんがほぼ毎日断定的に判断する時に行っている間違った物事、あるいは害を与える物事になる可能性があるその理由について、皆さんは今までじっくりと考えたことがありますか? それはおそらくまさに誰かをただ単にその見た目に基づいて判断するというこの要求を終わりにすることだと、皆さんは考えますか? 人々を断定的に判断して数々の状況を断定的に判断することは、今まで非常に長い間そうされてきたことであり、ひとつの状況に関する皆さんの数々の判断は、ひとつの脅威を引き起こします。 何故なら、通常はそのほとんどの部分が正しいものになっているからです。 もしも皆さんが、怒るか飢えている一頭のライオンが皆さんに向かって突進してくるかある村を闊歩している姿を確認したとすれば、これはひとつの危険な状況だと、皆さんは瞬時に認識するでしょう。 皆さんが湧き上がる暗い雲を確認する時、これはこれから雨になると、皆さんは簡単に想定することができます。 こうして例のようにひとつの状況を判断することはとても簡単ですが、しかし皆さんが他の人々、神に属する皆さんの仲間の兄弟姉妹達を断定的に判断する時とは異なります。 数々の状況で、皆さんは皆さんの聴覚、皆さんの嗅覚、そして必ずしも慣れているとは限らない他の感覚に注意を払います。 そしてひとつの状況はさらに大きく、さらに明白になります。 何故ならその状況は、雷鳴を轟かせ地を揺らすような あるいは頻繁に晩夏に炎で覆い尽くされる森林のような、差し迫ったその気象災害のような姿または危害を装う姿にならないからです。 皆さんの現代という世界の中でさえ、皆さんは、慌しい車のクラクションから殺到する警官または救急車のサイレンまで、依然として皆さんの周りで続いている数々の状況を判断することができます。 そのため、もしも皆さんがこういったようなひとつの状況を判断することができるなら、それでは何故皆さんが別の個人をまさに正確に判断することがこれほど難しいのでしょうか? 親愛なる皆さん、今まで起っていることは、一定の服装の部類がその人々に特定の汚名を着せていた、ということです。 皆さんは、皆さんの市または地域社会でひとつのユニフォームを着用して奉仕している誰かを、無意識に親しみがあり、信頼でき、そして保護用で安全だと考えます。 しかしその一方で、もしも皆さんがひとりの地元の物乞いを確認すると、皆さんは無意識にその手の人を信頼できない、親しみが持てず、おそらく皆さんを傷付けるかもしれない者だと、断定します。; 皆さんは、皆さんの市に奉仕する人々は皆さんがそのように考えているような人々だと瞬時に想定するあらゆる権利を持ちますが、しかし、その人々のユニフォームに隠れている部分は、その人々の今の姿を意味している訳ではないことを、忘れないでください。 その見た目に基づいて他の人々を判断することに、ひとつの解決策あるいは理解はあるでしょうか? もしも皆さんが依然として断定的な判断を行うことに魅了されるなら、その代わりに敬意を持つことは不可能ではないでしょうか? 皆さんは、選択する能力を持ちます。 皆さんは、その見た目に基づいて誰かを判断することができ、あるいは皆さんは、皆さんが今まで理解する物事のためにその人々に敬意を払う選択をすることができます。 親愛なる仲間達、ひとりの個人がどのように見えるかということ、あるいは着飾った人々が自分自身を誰かにあるいは他の何事かに装おうと試みてきたことは、ほとんど違いはありません。 皆さんがちょうど誰かと最初に出会っている時、その人々の見た目の代わりに、その新しい個人の行動に向けて、行動してください。 皆さんが話し掛けているその新しい個人が可愛い、顔立ちが良い、背が高い、背が低い、痩せている、身嗜みが良い、あるいは汚らしい衣服を着用しているかどうかにかかわらず、その人々を平等に扱い、その人々の行動を観察して、その人々の見た目ではなく、その行動に語らせるようにしてください。 この方法は、人々を皆さんが共鳴する方向に導く際に役立つことになり、そして皆さんに皆さんが望む明晰さを与えることになるでしょう。 皆さんはこれからいつも、皆さんがほとんどそれを予期していな場所で叡智に気付くことに驚くことになるでしょう。 その物乞いは、おそらく皆さんが今まで出会った中で、最も賢明な人々のひとりになります。 その人々の行動、その人々のこころを動かして、その人々の魂を呼び覚ますものによって、その人々を判断してください。 そしてもしも皆さんがこれを学び終えたなら、次には単純にその人々にそれぞれの個人に相応しい皆さんの敬意を与えてください。 親愛なる仲間達、ひとりの個人がその見た目によって判断されることが皆さんまたは他の人々に何らかの肯定的な恩恵があるかどうかを考える時間を、皆さん自身に与えてください。 いつものように、すべての皆さんのために選ばれたこの導管を通して話をすることは、ひとつの楽しみです。 親愛なる仲間達、皆さんがどこにいようとも、わたしもまたそこにいることを、認識してください。 そのため、皆さんが行うべき物事に確信が持てない時、わたしのエネルギーに寄り掛かってください。 それでわたしは、皆さんの尊いこころを通して、皆さんを導くことになるでしょう。 皆さんがまさに今いる場所で、それが雨か、雪か、風か強いか、天気が良いかにかかわらず、わたしはひとりひとりの親愛なる魂にとって素晴らしく肯定的な一日になることを望みます。
サンダルフォン : 判断する、判断しない... 皆さんの選択
http://twinkle-star999.blog.so-net.ne.jp/2014-06-23
↧
サンダルフォン : 判断する、判断しない... 皆さんの選択
↧