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【世界史が教えてくれる広島・長崎原爆までのプレリュード】

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名無し先生関係の最新も参考になりますね。

【世界史が教えてくれる広島・長崎原爆までのプレリュード】
http://jfcoach.blog49.fc2.com/blog-entry-277.html
さて、日本が明治維新から軍国主義化し、第二次大戦で原爆を投下され軍国主義が終わるのですが、ここに至るまでの長い長い背景を書こうと思います。

ここに書くのは200年前に始まる話です。

しかし、本当はもっともっと昔から日本を利用しようとしていた歴史が有りますが、きりがないので、今回は200年前から書きます。

200年前です。まさか、そんな昔の事は関係無いだろうと思われるでしょうが、説明してみます。

時は1815年

ワーテルローの戦い

1815年6月18日にイギリス・オランダ連合軍およびプロイセン軍が、フランス皇帝ナポレオン1世率いるフランス軍を破った戦いである。ナポレオン最後の戦いとして知られる。

この戦いで、ナポレオンが負けるのですが、その敗因の一つに、部下であり、ワーテルローの戦いでも当然活躍を期待されていたニコラ=ジャン・ド・デュ・スールトがあります。

ニ コラ=ジャン・ド・デュ・スールト(Nicolas-Jean de Dieu Soult, 1769年3月29日 - 1851年11月26日)は、ナポレオン戦争期に活躍したフランスの軍人、元帥。史上6人しかいないフランス大元帥の1人。後には政治家となった。日本で は姓はスルトとも表記される。ダルマティア公爵。

ナポレオン麾下でも指折りの優秀な将軍であり、特に機動戦に優れた野戦指揮官 だった。しかし戦略的視野には欠け、また組織を管理統率する手腕にも問題があった。冷静沈着だが冷酷なまでに非情な人物でもあり、大変な俗物で地位、名 声、金銭など非常に貪欲だった。スペイン戦線での略奪、虐殺は後々まで語りぐさとなっており、ウェリントンも「スールトはマッセナ以下である」と断じてい る。しかしながら結局ナポレオンの麾下で最も功成り名を遂げたのは、スウェーデン王(カール14世ヨハン)となったベルナドットを除けば彼である。

ビスマルクは「スールトは私の母親の愛人で、300人委員会のメンバーであったスールトのおかげで私はドイツ内で偉大になれた」という発言を遺している。


こ の戦いの1年前の1814年のフランス戦役ではナポレオンは圧倒的に不利な状況の中、彼の最高傑作といわれる程の戦術的技量を示した。だが、この1815 年戦役では肉体的な衰えを見せており、何よりも時間を浪費しがちで戦機を幾度も失っている。長年、ナポレオンの参謀総長を務めたベルティエがナポレオンの 復位に馳せ参ぜずドイツで自殺しており、代わってスールト元帥が総参謀長に就任したことも打撃となった。スールトは優れた野戦指揮官であったが、参謀畑に は不慣れであり、ナポレオンの簡潔にすぎかつしばしば意味不明瞭な命令を適確に解釈して完璧な命令文書に仕上げるベルティエの特別な能力も持ち合わせてい なかった。この結果、スールトは幾度も不手際や意味不明瞭な命令文書伝達を繰り返し、その度にフランス軍の作戦行動を鈍らせている。戦後、ナポレオンは スールトを「よい参謀長ではなかった」と述懐している。

ルイ=アレクサンドル・ベルティエ

ナポレオンとの決別

ロ シア遠征は、ベルティエにとっても、ナポレオンにとっても転機となった。ボロジノの戦いにおける作戦会議で、両者の意見は食い違い衝突した。これ以降、ナ ポレオンは彼を遠ざけるようになった。それでもナポレオンに従い続け、帝国が崩壊していく中でも参謀総長としての義務を果たし続けた。

ナ ポレオンが退位すると、ベルティエは彼の元を辞した。その後、ルイ18世の下へ向かい、王制を支持して、パリ入城にも従った。ナポレオンがエルバ島に囚わ れの身となっている間、ベルティエの下に脱出計画を知らせる手紙が届き、旧主に対する忠誠と現在の立場の板ばさみとなって大いに悩んだ。エルバ島からナポ レオンが脱出すると、ベルティエは窓から身を投げて自殺した。ただし、事故死という説や暗殺されたという説もある。


要するに、ベルティエが暗殺され、スールトがナポレオンを欺いた為に負けた可能性が高いのです。
誰がベルティエを殺したのか?
ナポレオン・フランスが勝利するとマズかったのは誰だったのか?

ネイサン・メイアー・ロスチャイルド(Nathan Mayer Rothschild, 1777年9月16日 - 1836年7月28日)は、ドイツ出身のイギリスの銀行家。ドイツ語読みではナータン・マイアー・ロートシルトと読む。

マイアー・アムシェル・ロートシルトの三男であり、ロンドン・ロスチャイルド家の祖にあたる。

1815 年のワーテルローの戦いは、ナポレオンが勝てばイギリスのコンソル公債は暴落し、イギリスが勝てば逆に高騰するだろうと言われていた。ネイサンはロスチャ イルド家の素早い情報伝達体制を駆使して、いち早くイギリス勝利の情報を掴んだ。ロスチャイルド家の優れた情報収集体制は金融界に知れ渡っていたから、み なネイサンの同行を注視していた。そこでネイサンはまず公債を売った。それを見た他の投資家たちはイギリスの敗戦を確信し、一斉に売りに入った。公債が暴 落したところでネイサンは急遽莫大な量の買いに入った。イギリスの勝利の報告が入ると公債は急騰し、ネイサンは莫大な利益を上げることに成功した。これは 「ネイサンの逆売り」として伝説化した。

あまりにも有名なお話です。

このネイサン・ロスチャイルドの親父がマイアー・アムシェル・ロートシルト。

マイアー・アムシェル・ロートシルト(独: Mayer Amschel Rothschild、1744年2月23日 - 1812年9月19日)は、ドイツの銀行家。ヨーロッパの財閥ロートシルト家(英語読みでロスチャイルド家)の基礎を築いた。

フランクフルトで古銭商人としてスタートし、ヘッセン=カッセル方伯(ヘッセン選帝侯)家の御用商人の銀行家となったことで成功のきっかけを掴み、ナポレオン戦争で大きな財を成した。

ナポレオン戦争

1806 年10月にナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍がプロイセン王国侵攻のついでにヘッセン選帝侯国にも侵攻してきた(マイアーが暮らすフランクフルトも この侵攻の際にフランス軍によって占領された)。ヘッセン選帝侯ヴィルヘルム1世(ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム9世。1803年にヘッセン選帝侯 となっていた)は11月1日にもシュレースヴィヒ公国に国外亡命することを余儀なくされた。ナポレオンはヘッセン選帝侯家を君主の座から追う旨と、その財 産はフランス大蔵省が法的継承人になる旨を布告した。

選帝侯から財産管理の秘密代理人に指定されたのはビュデルスだったが、彼は大手銀行 に任せるとフランス当局に見つかる恐れが高いと考え、ロートシルト家に任せることを決めた。以降、マイアーと息子たちはフランス当局の目を盗んで各地を駆 け回り、選帝侯の諸侯への債権の回収し、選帝侯へ送り届けた。しかし送り届けるのは一部だけだった。マイアーが選帝侯のもとを訪れて「フランス当局の監視 を潜り抜けて殿下のもとまで送り届けるのはますます難しくなっている」と説得し、ロートシルト家に投資信託させたのである。

一方でロート シルト家はフランス側とのコネクションも深めていき、フランス当局やフランス傀儡国家ライン同盟盟主でフランクフルト大公であるカール・テオドール・フォ ン・ダールベルク、フランクフルトの郵便制度を独占しているカール・アレクサンダー・フォン・トゥーン・ウント・タクシス侯などと親密な関係を築いた。こ れによりヨーロッパ大陸に独自の通商路を確保し、また情報面で優位に立ち、大きな成功に繋げていった。

折しもナポレオンの大陸封鎖令のせ いで大陸諸国ではイギリスやその植民地からの輸入に頼っていた綿製品、毛糸、煙草、コーヒー、砂糖、染料などが品不足になっており、価格の高騰を招いてい た。他方イギリスではこれらの商品の価格が市場の喪失により暴落した。そこでロンドンのネイサンは選帝侯から預かっている巨額の資金を元手にこれらの品を 安く大量に買って大陸へ密輸し、マイアーと4人の息子が大陸内で確立しているロートシルト家の通商ルートを使って各地で売りさばくようになった。これに よってロートシルト家は莫大な利益を上げられた上、物資不足にあえいでいた現地民からも大変に感謝された。


ナポレオンが勝つと困ったのはヘッセン=カッセルだった。
ベルティエを殺し、スールトを指揮官に変え、ナポレオン・フランスを敗戦に陥れた。
ただ、それだけでは済ませないのがヘッセン。
タクシスの郵便制度を買い取り、イギリスとの貿易でも大儲けをした。

さて、上のスールトに関しての文章で、読み流しては行けない一行が有ります。

ビスマルクは「スールトは私の母親の愛人で、300人委員会のメンバーであったスールトのおかげで私はドイツ内で偉大になれた」という発言を遺している。

ビスマルクは1815年4月1日、プロイセン王国ブランデンブルク県に属するビスマルク家所有の土地シェーンハウゼンにおいて生まれた。父は地主貴族(ユンカー)フェルディナント・フォン・ビスマルク。母はその妻ヴィルヘルミーネ・フォン・ビスマルク(旧姓メンケン)。

このヴィルヘルミーネ・メンケンの愛人がスールト。

ビスマルクはスールトのおかげで偉大になったと発言。
普通、愛人の子供を嫌う事は有っても、かわいがる人はそういません。
ビスマルクは普通に考えて、スールトの子供であったと考えます。
ナポレオン・フランスを裏切った人間とその愛人の間に生まれたのがビスマルク。

そして、本当の父親であるスールトは300人委員会のメンバーであったと言っています。
ビスマルクがフリーメイソンのメンバーであったという事は有名。
そのビスマルクが普墺戦争でハノーファーに勝利しヴェルフ基金を手に入れます。

ハ ノーヴァー家(House of Hanover)は、ドイツのヴェルフ家(ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家)の流れを汲む神聖ローマ帝国の諸侯の家系で、1692年に成立したハ ノーファー公国(選帝侯国、後に王国)の君主の家系であったが、1714年にステュアート朝に代わってイギリスの王家となり、ハノーファーとイギリスの君 主を兼ねる同君連合体制をとった。ハノーファーではサリカ法を採り、女子の継承を認めていなかったため、1837年のヴィクトリア女王のイギリス王即位を もって同君連合を解消し、ハノーファー王家はイギリス王家から分枝した。

1901年のヴィクトリアの死後は、夫(王配)であったアルバー ト公の家名を取って、サクス=コバーグ=ゴータ朝と称される。第一次世界大戦中に、敵国ドイツ帝国の領邦ザクセン=コーブルク=ゴータ公国の名が冠されて いる家名を避け、1917年に王宮の所在地ウィンザーにちなみウィンザー家と家名を改称した。これらは別項で扱うが、ヴィクトリアの血統が断絶したわけで ないため、ハノーヴァー朝の継続と見なされることもある。


ヴェルフ基金とは、テンプル騎士団側の簿外資金の一部です。
テンプル騎士団が解散させられた後はいくつかのグループ、国に分散されました。
ポルトガルやスコットランドを経てロンバルディアを経由し、ロンドンのザ・シティーに集まった簿外資金。

ギリシアからドイツ騎士団側に奪われた簿外資金(オリンピックの裏資金も含む)。
カスティーリャ、アラゴン側に流れた簿外資金。

メディチを通って、ヴェルフ、ハノーファーへと流れドイツ騎士団側に奪われた簿外資金・・・・様々なルートを辿りました。

こうした中で現在のベルベットファシズムの裏資金として動いているのが、第一次世界大戦後に国際機構側の凍結を免れ彼らに残った簿外資金です。

プロイセン王国は、ハノーファー王国その他に対する補償金ならびに個人資産を押収し、それを国庫には入れずに、いわば受託資産として受け入れ、この受託資産から揚がる収益を『ヴェルフ資金』と称して任意に使った。

『ヴェルフ資金』の一部はハノーファー、カッセルなどの旧領地の公共事業資金として使用され、残りを外務省と内務省で分割した。

当初は公共事業資金の割合は大きかったのだが、時間とともに縮小された。外務省分と内務省分については当初から機密扱いだったので、詳しい詳細はわからない。

また、1883年1月5日の皇帝命令で、それまでの証拠書類はすべて焼却されてしまったので、ルートヴィヒ二世王への秘密資金を証拠立てる資料はすべて消え去ったように見える。

ところが実は、(多分ビスマルクの助平根性で)『ヴェルフ資金』は継続したから、1883年1月5日以降の資料が残った。

ドイツ国内ハノーファー王国の資産をビスマルクが没収し、その後の資金源に充てました。
これがパイクのいう3つの世界最高評議会側の資金源になりました。

アルバート・パイク、ジュゼッペ・マッツィーニとはフリーメイソンで繋がっていました。
このビスマルクの資産運用を任されていたのが、ゲルゾーン・フォン・ブライヒレーダー。

ゲルゾーン・フォン・ブライヒレーダー (独: Gerson von Bleichröder, 1822年12月22日 - 1893年2月18日) は、プロイセン王国のユダヤ系宮廷銀行家。宮廷ユダヤ人の代表的な人物。

フランクフルト・ロートシルト家(英語読みでロスチャイルド家)の傘下でブライヒレーダー銀行を経営した。

1859 年、ドイツ連邦プロイセン全権公使だったオットー・フォン・ビスマルクは、駐ロシア大使に左遷され、フランクフルトを離任することになったが、この際にフ ランクフルト・ロートシルト家当主マイアー・カール・フォン・ロートシルト(ドイツ語版)の晩餐に招かれた。そこでブライヒレーダーを紹介されたビスマル クは以降彼を個人銀行家に指名し、自身の財産管理を任せるようになった。

ブライヒレーダーはビスマルク個人の財産の多額の立て替えをし、 株式についての助言を行った。また国政の経済政策面でも宰相ビスマルクの顧問として活躍した。普仏戦争でのフランス政府との賠償金交渉ではビスマルクの命 で非公式の交渉を行った。参謀総長モルトケの部下たちはこれを疎ましく思い、ブライヒレーダーのことを「宰相の御用ユダヤ人(des Kanzlers Privatjude)」と呼んで蔑視していたという。


普墺戦争でヘッセンは負け、ハノーファー同様、併合されてしまう訳ですが、それは表向きのヘッセンです。

ビスマルクの背後にブライヒレーダー、その背後にロスチャイルド、その一番奥にヘッセンがいるのです。

ヘッセン=ナッサウ州の旗はオランダの旗と全く同じです。

ヘッセンはナッサウ、ハノーファーとしてオランダに、イギリスに、ルクセンブルクに、ギリシャに、ロシアに・・・数えきれない国々に隠れています。

例えば下記の様に、どっちが勝ってもヘッセン=ナッサウになる。

ニ コラウス・ヴィルヘルム・ツー・ナッサウ(Nikolaus Wilhelm zu Nassau, 1832年9月20日 ビーブリッヒ城、ビーブリッヒ - 1905年9月17日 ヴィースバーデン)は、ドイツ・ナッサウ公国の公子。ルクセンブルク大公アドルフの異母弟、スウェーデン王妃ソフィアの同母兄である。

ナッサウ公ヴィルヘルムとその2番目の妻でヴュルテンベルク王子パウルの娘であるパウリーネの間の息子として生まれた。フランス軍の士官となり、1859年に第2次イタリア独立戦争に従軍している。

1862 年にギリシャ王オソン1世が廃位されると、イギリスの首相パーマストン卿によって次のギリシャ国王の候補に立てられた。パーマストン卿は帝政ロシアとの結 びつきの強い国王を選ぶのが適切と考えており、大勢の親族がロシア帝室に嫁いでいるニコラウスが適当と映ったのである。しかしフランス皇帝ナポレオン3世 は、自国の士官がクリミア戦争で交戦して日も浅いロシア帝国との結びつきからギリシャ王になるのは不愉快だとして、これに反対した。結局、ギリシャ王位に 就いたのはグリュックスブルク公爵家の公子ヴィルヘルム(ゲオルギオス1世)であった。

ゲオルギオス1世

デ ンマーク国王クリスチャン9世の次男クリスチャン・ヴィルヘルム・フェルディナント・アドルフ・ゲオルク(Christian Wilhelm Ferdinand Adolf Georg、ギリシア語: Χριστιανός Γουλιέλμος Φερδινάδος Αδόλφος Γεώργιος)として、首都コペンハーゲンで生まれた。デンマーク王子時代は、父方の祖父グリュックスブルク公フリードリヒ・ヴィルヘルムと母方の祖 父ヘッセン=カッセル=ルンペンハイム方伯ヴィルヘルムに因んだ“ヴィルヘルム”の名で呼ばれていた。

1852年に、父が嗣子のいないデ ンマーク国王フレゼリク7世の継承者に選ばれ、一家はデンマーク王子ならびに王女の称号が与えられることとなった。兄はデンマーク王フレゼリク8世、姉に イギリス王エドワード7世の王妃アレクサンドラ、妹にロシア皇帝アレクサンドル3世の皇后マリア(ダウマー)、ハノーファー王国の元王太子エルンスト・ア ウグストの妃テューラ、弟にヴァルデマーがいる。

ヴィルヘルムはデンマーク海軍の士官として活躍するようになったが、1863年3月30日にオソン1世の後継者としてギリシャ国王に選出され、父より7ヵ月半先に王位に就くこととなった。

家族

1867年にロシア皇帝アレクサンドル2世の弟コンスタンチン大公の娘であるオリガ・コンスタンティノヴナ(ギリシャ語名オルガ)と結婚し、サンクトペテルブルクで挙式を行った。

夫妻は8人の子をもうけた。

* コンスタンティノス1世(1868年 - 1923年) - ギリシャ国王
* ゲオルギオス(1869年 - 1957年) - クレタ島総督。ロシア皇太子ニコライ(のちのニコライ2世)と共に訪日した際、大津事件に巻き込まれたが、随伴の日本人車夫達に加勢して共にニコライを救った。
* アレクサンドラ(1870年 - 1891年) - ロシア皇帝アレクサンドル2世の息子パーヴェル大公と結婚。ラスプーチン暗殺者であるドミトリー大公の母
* ニコラオス(1872年 - 1938年)
* マリア(1876年 - 1940年) - ロシア大公ゲオルギー・ミハイロヴィチと結婚。のちペリクレス・ヨアニデスと再婚。
* オルガ(1881年) - 生後3ヶ月で夭折
* アンドレオス(1882年 - 1944年) - エディンバラ公フィリップの父
* クリストフォロス(1888年 - 1940年) - アメリカ人富豪メイ・リーズと死別後、ギーズ公女フランソワーズと再婚し、一人息子ミハイルがある。


ここには家系図は書きませんが、上記の人々は当然ながらヘッセンの血族。

そ してヴェルフ基金がビスマルクの手に収まるとっくの昔、1689年の時点で既に名誉革命でオラニエとしてイギリスの王となり、その後、スコットランドと一 体化しグレートブリテンとなり、アイルランドを植民地化後併合。そしてハノーファーとしてイギリス乗っ取りを完了していました。

イギリス王家にはヘッセンという家名は入ってませんが、オラニエ、ハノーファーの中にいる。

感心させられます。
実に巧妙です。
1689年当時の日本は鎖国中。

しかし、オランダと中国だけは貿易していました。
ここでいう中国人というのは、客家人のことです。
そう、柳生一族です。

客家人はシルクロードの各地、特に山岳地域に根を張って移動しましたから、情報ネットワークは繋がっていた。

したがって15~6世紀にオランダを含む欧州情報が、日本の柳生家まで届けられていたのです。

将軍家は、こうした他の誰も知らぬ情報を入手できる一族を、取り立てないはずが在りません。
当然他の部族が持たぬ武器、戦術も持っていた訳です。
こうしたシステムで様々な国で、客家人は国家の重鎮に取りたてられている訳です。

要するにカラスの真のルーツはこれ。
朝廷側の重責を担う秘密機関がカラスで、将軍側が柳生だった。
両者ともに客家人。裏では通じていたということ。

ヘッセンが得意とするからくりです。

そして、カラスの情報を得たオランダは、後の19世紀になり、徐々に開国及び通商を要求し始めます。

先程のギリシャ王の話で出てきましたイギリスの首相パーマストン卿ヘンリー・ジョン・テンプル。
ザ・グレート・ブリテンを象徴するこの人物もやはりフリーメイソンです。
いろんな戦争を仕掛け、敵国に不平等条約を押し付けるのです。

また、奴隷制反対派だったとWikipediaに書かれていますが、これは嘘というか間違いです。

パーマストンはアルバート・パイク、ジュゼッペ・マッツィーニ、ケイレブ・クッシングらと共に南北戦争を引き起こした人物です。

奴隷反対派として、奴隷解放の気運をつくりだし、アメリカを南北に割いて戦わせた。
このパーマストンが日本の開国に大きな影響を与えたなんて全く知りませんでした。
あと、参考までにもう一人のジュゼッペを紹介しときます。

ジュ ゼッペ・ガリバルディ(イタリア語: Giuseppe Garibaldi, 1807年7月4日 - 1882年6月2日)は、イタリア統一運動を推進し、イタリア王国成立に貢献した軍事家である。イタリア統一を進めるため、多くの軍事行動を個人的に率い た。ヨーロッパと南米での功績から「二つの世界の英雄」とも呼ばれ[1]、カヴール、マッツィーニと並ぶ「イタリア統一の三傑」の一人とされる。

1860年、千人隊(赤シャツ隊)を組織してシチリアの反乱を援助し両シチリア王国を滅ぼした。その後、征服地をサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上してイタリア統一に大きく貢献した。その後は政治家となることなく、余生をカプレーラ島で送った。

赤シャツ隊ですよ・・・
話を戻します。

アヘン戦争勃発

阿 片禁止の報を受けたイギリス本国はパーマストン子爵の主導で開戦論に傾き、1839年10月1日にメルバーン子爵内閣の閣議において清遠征軍の派遣が決定 された。パーマストン子爵は、1840年2月に現地に派遣する外交官や海軍に対して主要港を占領して揚子江と黄河を封鎖して不平等条約締結を清政府に迫る よう訓令した。1840年6月より始まった戦争はイギリス軍の圧勝に終わり、1842年8月には中国半植民地化への第一歩となった不平等条約南京条約が締 結された。領事裁判権、公行制度の廃止、上海・寧波・広州・福州・廈門の開港、開港地の租借権、香港の割譲などを清に認めさせた。

クリミア戦争

クリミア戦争の戦況は、クリミア半島セヴァストポリ要塞の戦いでロシアの堅い守備に阻まれて苦戦を強いられていた。パーマストン卿が目下やらねばならないことはクリミア戦争に道筋をつけることであった。

1855 年9月、ついに英仏軍はセヴァストポリ要塞を陥落させることに成功した。ナポレオン3世はこれを機に戦争終結の交渉に入ることを希望するようになった。ロ シアも同要塞の陥落直後には交渉で不利な立場に立たされることを嫌がって継戦の姿勢を示していたが、1856年に入ると終戦を望むようになり、譲歩の姿勢 を示すようになった。

講和をめぐって彼が主導権を発揮することはできなかったが、女王からは4月11日に「戦争が終結し、この国 の名誉と利益がパリ条約によって守られたことに満足の意を示します。これもパーマストン卿の熱意と指導力の賜物です。そこで女王は卿にガーター勲章を贈り ます」とする書簡を送られた。イギリス臣民のガーター騎士団の人数には24名という定数があり、騎士団員が死んで席が空かない限り、新しい騎士団員を任命 することはできないが、パーマストン卿は特例として席が空くまでの暫定として「特別騎士(extra Knight)」に叙されることになった。

アロー戦争

1856 年10月、香港総督は、清国官憲がイギリス(香港)籍船舶アロー号に入ってきて中国人12名を海賊容疑で逮捕した事件を口実にして、香港駐屯イギリス海軍 に広東への攻撃を開始させた。その報告を受けたパーマストン子爵は直ちに香港総督の武力行使に追認を与え、自分が全責任を負うと通達した。

1858 年5月に大沽砲台を占領して北京を窺い、6月には清に天津条約を締結させた。だが清政府にとってこの条約は北京陥落を防ぐための便宜的手段であり、条約を 守る姿勢を見せなかったため、一度撤収した英仏軍は再び北進を開始し、1860年8月に大沽砲台を再度陥落させ、今度こそ北京を占領した。これにより清は 天津条約以上に厳しい条件の北京条約を締結する羽目になった。清は巨額の賠償金、天津など11港の開港を認めることとなった。

アロー戦争中の1858年8月、天津条約締結で一時暇になっていた英国艦隊を日本に派遣し、「応じないなら50隻の軍艦で攻めよせる」と江戸幕府を脅迫して不平等条約日英修好通商条約を締結させることにも成功している。

パーマストン子爵恐るべしです。

パーマストン子爵に関して書けば、ラッセルの事も書かなくてはいけないのですが、ここでは割愛させていただきます。

そして、ここで重要なのがパーマストン子爵に協力したサスーン。
インドを拠点として活躍して来たバグダットのユダヤ人。
サスーンがインドの麻薬をアヘンを中国に入れた。

サス―ンはこのユダヤ人迫害を逃れバクダットに移り、さらにはバグダットでもユダヤ人迫害でアジアに移りました。

ス ペインに起源を持つセファルディムの出身で、父サレハ(Sason Ben Saleh)はバグダードのパシャの主任会計を勤め、同市のユダヤ人コミュニティーを率いる資産家だった。その後ダウード・パシャによるユダヤ人迫害を逃 れてペルシャを経て一家でボンベイに移住し、1832年にサスーン商会を設立、イギリスの東洋貿易に多大な貢献をした。特に阿片戦争のきっかけとなった当 時のアヘン貿易において重要な位置を占めていた。その後は香港、上海にも営業所を構える。さらに、南北戦争によりアメリカ産綿花の輸出が途絶えたのを機に インド産綿花の輸出も成功させた。これらの功績が認められて1853年にイギリス国籍を取得。

アヘン戦争、南北戦争の裏でイギリスに貢献した人物。
清国はアヘンの輸入を拒んで、アヘン戦争になった。
インドはベルファシにとって大変重要で、イエズス会の中継地点でもあった訳です。
そして、インドはユダヤ人の長い長い歴史が有るのです。

ベネ・イスラエル(Bene Israel)とは、インド原住のユダヤ人を指す言葉である。ヘブライ語では『イスラエルの子』を意味する。

最も有名なアジア系ユダヤ人は、「ブナイ・イスラエル(B'nai Israel)」と呼ばれるボンベイのユダヤ人である。この共同体はインドの約1500年前にまで遡る。その中心はボンベイ(ムンバイ)とコーチン(コチ)であった。

今日インドのユダヤ人は軍、政府、産業、で重要な位置にあることが多い(例:インド人民党の安全保障顧問と、ゴア州・パンジャブ州知事を務めたJFRジェイコブ中将など)。


インドのカースト制度はこのイスラエルの氏族が作ったシステムだということ。
アヘン王サスーンの出身地バクダットは、タガーマ州があるバクダットのことです。

アブラハムの・・・高天原「たかまがはら」・・・いや、なんでもないです。
バクダット=バビロニア
この種族は古くからインドにいるんです。
この種族は世界中でカースト制を引いて、寄生し、勢力拡大。

日本も同じようなカースト制度。
階級が決まっていて、絶対にそれは崩れない。
やり方が巧妙なので、私たちが気が付かないだけ。

バグダットを追われ、ペルシャを追われ、インドのポンペイで儲けて、香港に来て、アメリカ(バミューダ)に行ってます。

これは、パオ(包)に香港利権を奪われたから。
ロスチャイルドの下でサスーンとパオに分けて仕事が割り振りされる訳です。

サス―ンがパオに香港利権を奪われ本拠地を米国バミューダに移していなければ、満州国にイスラエルが出来ていた可能性があった。

迫害されたユダヤ人ですから、香港にいたら間違いなく自分の定住の場所を満州に求めた事でしょう。
それはヒトラーの役割が大義名分作りであったように、サスーンにはそんな大義名分が有りました。

パオに香港利権を取らせたのも筋書きの内で、サス―ンを米国バミューダに行かせるよう仕向けたと言う事です。

ヘッセン(マウントバッテン)は、その筋書きでパオを香港で勝たせ、サス―ンは米国へ、そして現在の米国経済界のユダヤ資本全盛があり、ネオナチに繋がる。

そしてブナイ・ブリス、ブラックメーソンと相まってイスラエル支援グループが出来る。

現在の中東情勢を作り上げた訳です。
ネットでは、こぞってユダヤ叩きが行われ、第2のナチ活動が起きても不思議ではない。
今のユダヤ陰謀論はサスーンが大きく貢献しています。
その裏でネオ河豚が計画されている。

日本勢によって・・・

話を戻します。

さて、ワーテルローの戦いからロスチャイルド、そしてビスマルクに繋がり、日本に繋がるのが長州藩。

藩閥の内閣総理大臣

* 伊藤博文(長州藩)1・5・7・10代目
* 黒田清隆(薩摩藩)2代目
* 山縣有朋(長州藩)3・9代目
* 松方正義(薩摩藩)4・6代目
* 大隈重信(佐賀藩)8・17代目
* 桂太郎(長州藩)11・13・15代目
* 山本権兵衛(薩摩藩)16・22代目
* 寺内正毅(長州藩)17代目
* 田中義一(長州藩)26代目


このリストの長州藩出身者の家系(子女)が悪いと言っているのではありませんからね。
山縣有朋、伊藤博文はビスマルクに傾倒していましたね。

伊藤博文

明治4年(1871年)11月には岩倉使節団の副使として渡米、サンフランシスコで「日の丸演説」を行う。明治6年(1873年)3月にはベルリンに渡り、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に謁見し宰相ビスマルクと会見し、ビスマルクから強い影響を受けた。

大蔵兼民部少輔を務めた際には、大隈重信と共に殖産興業政策の一環として、鉄道建設を強力に推し進め、京浜間の鉄道は、明治5年5月7日(1872年6月12日)に品川 - 横浜間で仮営業を始め、同年9月12日(1872年10月14日)、新橋までの全線が開通した。

当 初、伊藤が新政府に提出した『国是綱目』が当時新政府内では極秘裏の方針とされていた版籍奉還に触れていたために大久保利通や岩倉具視の不興を買い、大蔵 省の権限を巡る論争でも大久保とは対立関係にあった。また、岩倉使節団がアメリカで不平等条約改正交渉を始めた際、全権委任状を取るため一旦大久保と共に 帰国したが、取得に5ヶ月もかかったことは木戸との関係も悪化した(改正交渉も中止)。

だが、大久保・岩倉とは西欧旅行を通して親密にな り、木戸とも後に和解したため、明治6年(1873年)に帰国して関わった征韓論では「内治優先」路線を掲げた大久保・岩倉・木戸らを支持して大久保の信 任を得るようになった(明治六年政変)。この後木戸とは疎遠になる代わりに、政権の重鎮となった大久保・岩倉と連携する道を選ぶ一方、盟友の馨と共に木戸 と大久保の間を取り結び、板垣退助とも繋ぎを取り明治8年(1875年)1月の大阪会議を斡旋する。明治4年(1877年)に木戸が死去、同年に西南戦争 で西郷隆盛が敗死、翌5年(1878年)に大久保も暗殺された後は内務卿を継承し、維新の三傑なき後の明治政府指導者の1人として辣腕を振るう。

明治12年(1879年)9月に「教育議」を上奏し、教育令発布となる。

明 治14年(1881年)1月、日本の立憲体制をどう作るか馨や大隈重信と熱海で会談。しかし大隈が急進的な構想を内密に提出、独走するようになると政界追 放を決め工作に取り掛かり、10月14日の大隈下野で目的を果たし、明治23年(1890年)に国会を開設することを約束する(明治十四年の政変)。伊藤 の漸進的な提案が通り、黒田清隆・西郷従道ら薩摩派とも提携したことで事実上伊藤が中心となる体制が出来上がった。一方で井上毅が岩倉の指示を受け、大隈 案への対抗からプロイセン憲法を元にした憲法の採用を提案した時は退けたが、これは毅が憲法制定を焦り、外国憲法をどう日本に定着させるかについて具体的 に論じていないことと、上役の伊藤に憲法制定を促すなど分を越えた動きをしていたからであった。

明治15年(1882年)3月3日、明治 天皇に憲法調査のための渡欧を命じられ、3月14日、河島醇・平田東助・吉田正春・山崎直胤・三好退蔵・岩倉具定・広橋賢光・西園寺公望・伊東巳代治ら随 員を伴いヨーロッパに向けて出発し、はじめベルリン大学の公法学者、ルドルフ・フォン・グナイストに教示を乞い、アルバート・モッセからプロイセン憲法の 逐条的講義を受けた。後にウィーン大学の国家学教授・憲法学者であるローレンツ・フォン・シュタインに師事し、歴史法学や行政について学ぶ。これが帰国 後、近代的な内閣制度を創設し、大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことにつながる。

ローレンツ・フォン・シュタイン

カール・マルクスは1842年のシュタインの著作『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』から社会主義・共産主義思想を学び、私淑しながらも自らの思索を深めていった。

もう説明する必要は無いですが、ネットではこれを、日本はフリーメイソン=ロスチャイルドをマスターマインドにして語っているのです。

しかし、何百回でも言いますが、ロスチャイルドはマスターマインドでは無く、本当のマスターマインドが背後にいる。

それが、イギリスをはじめとする多くの国の王室に入り込んでいるヘッセン=ナッサウなのです。
イルミナティ、フリーメイソン、イエズス会、コミュニスト、コミンテルンといった組織は、その道具に過ぎない。

これ以降が前回の記事に書いた、日英同盟以降のロマノフの財宝略脱に利用される日本です。

前回の記事では列強に翻弄される日本を描きました。

同じフリーメイソンであるペリーの来航が有り、アメリカ南北戦争で使われた武器が日本に渡り、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス等が戦争指導まで丁寧に施されて、日本は内戦に陥れられました。

明治維新があり、イエズス会のテリトリーにフリーメイソンが加わって、日本は軍国主義に傾き、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦で勝たせてもらい、第二次世界大戦で原爆を食らい・・・

しかし、日本の中央は本当に列強に翻弄されたのでしょうか?
それともグルだった?

日本の中央に巣食っている連中、日本カースト制度の頂点から三番目ぐらいの層は、戦争責任をも追求されないところであぐらをかいています。

裕仁の事では無いですよ。
以前に書きましたね。

ハウスホーファーを使いヒトラーを洗脳したやつらですよ。
卍会、ミドリ十字、大本、緑龍会、チベット、那智の滝、台湾、客家、元台湾の日本元帥。
ゲルマン騎士団、トゥーレ協会、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)・・・

①ヒトラーを洗脳しオカルト化したのはハウスホッファー
②ヒトラーはチベットに興味を示し、頻繁に調査団を派遣している。
③ハウスホッファーは日本駐在武官の時代に、日本で緑龍会の会員だった。
④緑龍会とは、日本皇室始祖鳥(カラス)の一派である。
⑤その下に大本教=紅卍会がある。
⑥ハーゲンクロイツ鍵十字は紅卍会から来ている。


そして、これらの流れは、敗戦から70年が過ぎた現在でも脈々と受け継がれていて、いつ何時、再び世界大戦に陥れられるか分からない状況に有るのです。

何故なら、卍会のような連中は、日本での既得権益をあまり享受出来ない。
だから、満州なんです。
そこで、新たな支配体制を作りたい。

それを防ぐ為にも、いたずらな陰謀論に騙され、希望を無くし、ベルファシの思い通りにならぬ様、私は名無し先生のご指導のもと、本当の事を書いているのです。

我々一人一人が、世の仕組みを理解し、共有する事が、何よりも大事な事なのです。

神社、寺、坊主、政府、税金、天皇家、電力会社、農協、病院、パチンコ、マスコミ、知れば知る程、日本を嫌悪するのですが、私はそれはそれで良いと思っています。

カースト・ジャパンは毒されています。

だから、それをもっともっと知り、愛すべき我が日本をどう立て直すのか?という議論がネットに溢れかえる日が来る事を夢見ています。

さもなければ、私たちは再び、神風といった馬鹿げた神話を信じ込まされ、戦闘機で自爆し、人間魚雷で自爆し、自決し、遠くはなれた南国で餓死し、最後は核兵器で木っ端みじんにされるのです。

考えてみてください。
上記の狂気のいずれもが、日本の指導者の命令、もしくは仕業だったのですから・・・

それでは

おまけにするには不謹慎ですが、参考資料です。
第二次世界大戦中に戦死・行方不明になった軍人及び民間人の数です。
軍人と民間人の合計が合わない不完全な資料ですが、参考まで。
WW2DEAD.png
皆さんはどう分析しますか?


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