オカルト編省エネチェックしとります。
目に見えないエネルギー
http://ameblo.jp/oranger13/entry-11928000504.html
精霊と浦島太郎
http://ameblo.jp/yippee-happy/entry-11927958883.html
時空への旅・・・
ウィルコックによれば時間と空間は同じコインの裏表の関係です。
宇宙の中を移動せずじっと一か所にとどまっていたとすると時間は流れません。我々の太陽系は銀河の中心核の回りを一定周期で 周回しています。この事によって規則正しい時間が流れているのだと言うのです。
(参照YouTube→Synchronicity Keyhttp://www.youtube.com/watch?v=F0xwWesxI4A )
このことはアメリカの物理学者Dewey B. Larsonも早い段階で示唆しています。この事に触れたLarsonの有名なスピーチがあります。
スピーチのタイトルは「光速を越える 」。1978年に撮影された物です。
時空とは同じものと言う概念は我々にはなかなかイメージとしてとらえにくいと思います。太陽が毎朝昇る光景を見ている我々には、太陽は「上る」のですが、実際には地球が自転している
ことにより太陽が昇るように見えているだけだという事と似ています。
さらに我々の住む空間が3次元である以上は、その空間と背中合わせの時間も3次元だと言います。時間は思っているよりも柔軟性があるようです。
アインシュタインは時間は一次元だと言いました。過去から未来に向けて一方向(リニア)に時間は流れると定義しました。
しかしどうやらこの点においては間違いのようです。時間には奥行きも幅もあります。いいかえると過去にも未来にも行けるし、さらには縦横斜めにも移動できるようです。ウィルコックによれば我々より進んだ 異星人が宇宙旅行が出来るのはこの理論によると言います。
時間がリニアにしか流れないという「時間一次元理論」ではタイムトラベルは不可能だったのです。
さて・・・
このことがライズとウェランが経験したフェアリーリングとどう関係するのでしょうか。ライズはリングの中では数分しか経っていないと思っていました。しかし現実には3週間が過ぎていました。
フェアリーリングは異空間への出入り口です。
もしライズがはいった入口と全く同じところから出て来たとしたら、実は彼はリングの外側に流れていた時間と全く同じ時間・・・つまり場所に戻って来ることが出来たのです。彼は自分がはいった入口から少しだけずれた地点から出て来たのです。ライズの腕を引っ張った調査官は
自分がはいって行った同じ壁から出てきました。ライズを連れて・・・。
つまり調査官は同じ時空間に戻って来ることが出来たのです。
もしライズが連れ戻される事に大きく抵抗して二人とも違うリングの壁から出てきていたとしたら、二人ともとんでもない時間の経過を経験していた可能性があるのです。
まるで浦島太郎のように。
そして・・・
実は浦島太郎には妖精と出会うための大きなヒントが隠されている可能性があります。
![](http://stat.ameba.jp/user_images/20140330/10/yippee-happy/dd/39/j/t02200176_0620049612891671777.jpg)
龍神の集い II
http://ameblo.jp/yippee-happy/entry-11928010942.html
![](http://stat.ameba.jp/user_images/20140921/09/yippee-happy/f7/84/j/t02200391_0480085413073253719.jpg)
![](http://stat.ameba.jp/user_images/20140921/09/yippee-happy/f0/00/j/t02200391_0480085413073253720.jpg)
動物と人間の関係を考える(5) (09/21)
http://hituki8910.blog.fc2.com/blog-entry-641.html
「十字架による贖(あがな)い」と「復活」の教義を検証する
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-8177.html
イエスという人間と当時の聖職者たちとの関係を正しく読み取るならば、イエスには、司祭と いう身分制度をつくる意図だけでなく、カトリック教会が作り上げた階層制度を設ける意志もまったくなかったという結論に至るはずである。カトリック教会が つくりあげたこうした階層制度は、その時代のユダヤ教会をそのまま忠実に模倣したものである。イエスの目的は、人間1人1人が直接神と繋がった存在である ことを教えることであり、聖職者である司祭を介してのみ神と交信できるという、つくられた誤った考えを覆(くつがえ)すことにあった。
イエスは公けの説教の場で、かなり大胆にユダヤ教聖職者たちを手厳しく批判した。
その結果、イエスのやることのすべてが、彼らの神経を逆なですることだったので、彼らはイエスを手強い競争相手と見なしたが、それは間違ってはいなかった。イエスは次のようなメッセージの内容を何度も繰り返したからだ。
『聞きなさい。彼らは神の仲介者などではない。
なぜならふさわしい霊的援助を与えることよりも、あなた方を犠牲にすることで富を蓄えることの方に一生懸命である。彼らは自分たちに都合よく作り上げ た法律によってあなた方を束縛し、そのためにあなた方は混乱させられているが、そんなものは必要ない。天の国に入るために唯一必要とされることは、愛する ことである』と。
彼のこのメッセージが聖職者たちの目に留まり、もし人々がそれによって覚醒し気がついてしまえば、彼らの仕事と富 が失われてしまうことになると考えて、それでイエスを殺したのである。権力者たちは、自分たちの利益に有害なイエスの思想を支持する者たちを抹殺しようと したが、その後益々信者が増え続けるのを見て、「敵をやっつけられないのであれば、彼らを取り込んでしまえ」という戦略に切り替えたのだ。
コンスタンティヌス皇帝は、全ローマ帝国をキリスト教に改宗すると宣言したが、それ以後、多くの人々が自らの意志によってではなく、強制的にキリスト 教徒にさせられた。それは強いられたものであったことから、無条件の愛という隣人愛はそこで終わってしまった。ユダヤ教の聖職者たちはそのまま新たにつく られたキリスト教へ鞍替えし、宗教の最高位に就く者は権力を維持するために、それまで用いていた帽子をキリスト教会の新たなものに変えた。しかし実際に は、法王と司教のかぶるミトラでさえ、別の宗教に由来したものでしかない。つまりそれはローマ人が崇めていた神々の1つである、古代信仰ミトラの神官たち がかぶっていたものなのだ。
このようにしてキリスト教には、それ以前からあったさまざまな宗教儀式が数多く取り入れられ、イエスの 説いた本来の隣人愛のメッセージは、それに反する別の概念で侵されてしまった。あなた方が知るキリスト教、つまりカトリック教会とはこのようにして生まれ たのだ。「神とマンモン(お金)に兼ね仕えることはできない」とイエスは言ったが、キリスト教の元であるカトリック教会は、2千年余り前から存在したユダ ヤ教会と同じく、ほぼその最初から神ではなく「おカネ」を選択してきたのである。
Q、 では、法王の絶対的権威と地上における神の意志、というのはどういうことですか?
当然、すべて嘘である。
法王と霊界とのつながりは、他のすべての人々のものと何も違わないし、特別なものはない。彼も単なる普通の人間であるし、同じように間違えるのだ。も し高次の霊的存在とのつながりを求めるならば、無条件の愛に向けて努力することしかなく、それによって次第につながりが強くなる。つまり、いかに立派な肩 書き、地位を得ようとも、それが自らを高めるわけではなく、高次元との繋がりが深まるわけではないのである。
Q、 神から許されるためには告解、告白が必要で、それは司祭を通して与えられるという規則はどうですか?
エ ゴの改善の第一歩が、そうした間違いの自覚であるのは明らかなことだが、ただ反省して悔いるだけでは十分ではない。なぜなら「愛の法則」に反する行為は、 犯した過ちを償うことによってのみそれを解消させることが可能なのだ。それは自分自身で行なうしかない。それを乗り越えるために援助を受けるのは構わない が、いかに高次のレベルにある者であれ、代わりに誰かにそれをしてもらうことはできない。ゆえに司祭による許しが与えられるとする彼らの取り決めは、救わ れるためには教会の代理人が不可欠なので、信者が彼らを経済的に支えなければならないと思わせるための、策略の1つなのだ。
Q、 ではイエスが十字架上で死んだのは、人類の罪を引き受けて贖(あがな)ったからだとする考えはどうなのですか?
これも間違いである。
ただし、イエスは霊的な成長進歩を教えるためにやって来たのは確かなことで、彼から無条件の愛を学んだ者たちが、大きな変化を成し遂げることで進歩で きたというのは本当である。しかしながら、自分が行なった行為に対する償いが免除されることはない。それが「因果応報の法則」であり、人は誰でも自分の蒔 いた種から生じたものをいつか必ず刈り取らねばならない。ゆえにイエスが宇宙の法則に反して、誰かの罪を代わりに負ったりすることはあり得ないことだ。イ エスの十字架の死による贖いの考えは、宇宙の法則である「因果応報の法則」に反する信念だと言わねばならない。
むしろ彼が教えたの は、1人1人が自らの罪、間違いをどのようにして解消するかを教えたのである。我々は誰もが、自分の行なった過ちを改めるための限りない学びの機会が与え られる。それが輪廻転生であり、誰もが自分の行ないに直面させられることになる。我々はそれを誰にも代わってもらうことはできず、自分自身でそれをするの であり、ゆえにイエスであれ聖母であり、その他の聖人たちにすがって何とか逃れようとするべきではないし、できるものでもない。
Q、 復活についても話してください。
これについては非常に混乱を来たしているので、できるだけわかりやすく説明しよう。
イエスの復活について言われている説明の多くは、完全に間違いである。もし復活という言葉を、肉体の死後も魂が存続して生き続けることだと理解してい るならば、それは正しい。しかもそれは誰にとっても事実であるし、何も特別なことではない。魂が肉体の死後も生き続けているのは、何もイエスが初めてのこ とでもなく、すべての魂の本来の姿であるに過ぎない。ゆえに、魂が存在するためには必ず肉体が必要で、それもその肉体での生存時と同じ身体でなければなら ないというようなこともなく、そのような信仰はすべて間違いなのだ。
また肉体の死後、魂が、置き去りにした肉体に戻る日が来るま で、ずっと眠った状態にあり続ける、というのも正しくない。これが「蘇えり」に関する信仰の誤りの1つである。あなた方の常識からしても、肉体の死が生じ 始めた時点から腐敗が始まり、終には消滅してしまうというのが明白なことではないだろうか? 物質的次元に再び戻る日がやって来た時に、何世紀も前に亡く なった肉体に戻れるのだと、どうしたらそう信じることができるのだろうか? 土葬が行なわれていた時代ならイザ知らず、火葬されたかつての肉体がどこにあ ると言うのだろうか?
死んで肉体を離れた魂は、転生によって新たな肉体的生命に戻るのだと説明するほうが、より簡単な説明ではない だろうか? つまり、昨日まで肉体において生きていた魂は、明日には新しく生まれ出る赤ん坊として地上に帰って来るということなのだ。ゆえに、死亡による 肉体の物質的分解過程で失われたものを魔法で再生し、死者がかつてと同じ顔と肉体で息を吹き返す!というのは間違った信仰なのだ。肉体を離れたかつての死 者である魂は、物質界に絶えず転生することで新たな肉体を得て戻っているのだが、それは自然の法則を侵すこともなく、新しく生まれる子どもとして誕生する ことでそうしている。
魂や霊が生き続けるために肉体が必要だ、とする考えも誤りである。
魂は肉体を離れた後、再び物 質的世界に転生するまでずっと眠った状態でいるわけではなく、魂は物質から解放された本来の状態に戻ると、さまざまなレベルの霊的世界に暮らしながら、自 分にふさわしい必要な進化と学びのプロセスを引き続き生きているのである。だからイエスが復活したという場合には、彼の肉体が再び生命を得たのではなく、 他の者たちと同じように、彼の魂も生き続けていることを意味しているのだ。
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