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【フィリピンの末端まではびこるイエズス会 ファイブ・シックスとインド人?】 (11/05)

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久しぶり更新の、高度自給自足時代の夜明け 【先進国の未来像】さん最新、名無し先生的考察ですが。ポイント↓ですかね。イエズス会とフリーメーソンの、陰謀、日本も9条家と近衛家の、覇権争いが熾烈ですが。とりあえず、参考ですね。

イエズス会支配が薄れ、経済成長路線に乗り、奴隷のような労働者がいなくなることが国際秩序維持派の存在理由の一つです。
そういう意味では、フィリピンがこのまま成長路線を維持できるか否かは、イエズス会の支配度と関係します。
イエズス会やフリーメイソンといった、ヘッセン陣営支配が好む、ベルベットな奴隷制度が今でも濃厚です。
外国企業はその奴隷制度にあやかっているのではなく、労働者=奴隷を解放するために進出しているという目的を忘れてはなりません。
これは、かつて、国際的な機関から資本と技術を享受した、日本が辿った道ですから、簡単に理解できると思います。


【フィリピンの末端まではびこるイエズス会 ファイブ・シックスとインド人?】 (11/05)
http://jfcoach.blog49.fc2.com/blog-entry-284.html
European_settlements_in_India_1501-1739.png

こんにちは、今回はフィリピンのローカル情報です。

フィリピンには最小地方自治単位としてバランガイというものがあります。

日本で言うと、村、地区または区を表す独自のフィリピン自治区です。

まあ、高級住宅地もバランガイで区切られますので、バランガイ=スラムでは無いのですが、

バランガイと聞くと、殺人、賄賂、といった悪いイメージが頭に浮かびます。

これはバランガイ・キャプテン選挙で、賄賂が横行し、頻繁に殺人が発生することが関係しています。

このバランガイという最小地方自治区で高利貸しを行うのが、ファイブ・シックスです。

要は、クレジットカードも持てず、消費者金融にも相手にされない貧困層を相手にした高利貸しです。

そのシステムですが、

ペソでは実感が湧きませんので円でお話しします。

例えば、5,000円をファイブ・シックス業者から借りたとします。

そうすると、翌日から毎日150円を返済し始めます。

これを40日間続けると150X40=6,000円になります。

40日後に元本+20%を払ったことになります。

5千円が6千円になります。

それでファイブ・シックスと呼ばれています。

比率5:6は変わりませんが、返済期間は業者によって様々のようです。

このファイブ・シックスを経営している人々は、フィリピン人もいますが、意外や意外、インド人が多いのです。

なんでインド人なのか?

それはこの記事の後半で明らかになります。

フィリピン人はインド人のことをブンバイと呼びます。

というか、ブンバイ=高利貸しと呼ぶのです。

おそらくムンバイから来てるのでしょうか?

こんな単純で超高利貸しにでも頼って生きて行くしか無いのがフィリピンのその辺の日常です。

自転車に乗って、集金をして回る謎のインド人。

毎日の返済額が少額なのでなんとか返せる金額です。

日本人からして見たら、じゃあ、それを毎日貯めて買えば良いじゃないかと思うのですが、フィリピン人というのは、そうは考えません。

逆説で考えます。

高金利でも良いから買ってしまわないと、他の誘惑に負けてしまうので貯められない。

ほとんどはなんとか返してしまいますが、当然、返済を滞る人が出てきます。

このファイブ・シックス、予定通り返したとしても高金利です。

これが一旦焦げ付くと、とんでもない金額に跳ね上がります。

最初は5,000円だったものが、返済を滞った挙げ句、50,000円と、10倍になりましたという風にするのも、また、彼らの目的だったりする訳です。

そして、十分に金利がふくれあがったその時に他の返済方法を迫られるのです。

若い女性であれば、売春。

男性であれば、人身売買や臓器移植。

ただでさえ、貧困だったところに、さらに地獄に突き落とされるのです。

そして、ブンバイ達はどんどん儲かり、一つの産業として、この民主主義国家フィリピンのスラムで公然と成り立っているのです。

この黒幕がイエズス会

売春や臓器移植だけではありません。

武器商人としての裏ルートをフィリピンから沖縄基地経由で確立しています。

現大統領、アキノの父親が暗殺され、その犯人にされたままフィリピンを追い出されたマルコス。

フィリピンの貧困問題に本格的な対策を打とうとしていた人物。

確かにマルコスは私腹を肥やしました。しかし、貧困対策として、簿外資金を使おうとスイスの銀行に金塊を預けたのは、国際秩序維持側も認める事実です。

このマルコスを退陣させる為、民衆を扇動したのが、当時バクラーラン教会にいたハイメ・シン枢機卿(イエズス会)です。

ハ イメ・シン(Jaime Lachica Sin, 1928年8月31日 - 2005年6月21日)は、フィリピン出身のカトリック教会の枢機卿。1974年から2003年までマニラ大司教を務め、カトリック信者の多いフィリピン において国民の精神的指導者として大きな影響力を持っていた。特に1986年、事実上の独裁者であったフェルディナンド・マルコス大統領を退陣に追い込ん だ一連の民衆運動(エドゥサ革命)において中心的な役割を果たした。

聖職者として

ハイメ・シンは1928年にフィリピン のアクラン州ニューワシントンで中国系の父ファン・シンと母マキシマ・ラチカの間に14人目の子供として生まれた。中国系であるため、氏名は漢字で「辛海 梅」あるいは「辛海棉」とも表記される。家を離れて神学校に学び、1954年4月3日にハロ大司教区の教区司祭として叙階を受けた。1967年2月、ハロ 大司教区の補佐司教に任ぜられ、3月18日に司教に叙階された。1972年3月には協働司教になり、同年10月にハロ大司教となった。

2 年後の1974年1月21日、シンはマニラ大司教に任命された。シン大司教の着座式は同年3月19日にマニラ大聖堂で行われた。そして1976年5月24 日、教皇パウロ6世はシン大司教を枢機卿に任命した。1983年までシン枢機卿は枢機卿団の中での最年少でありつづけた。

エドゥサ革命

フェ ルディナンド・マルコス大統領の統治のもとにおいて、シン枢機卿は期せずしてフィリピン全体の精神的指導者という役割を担っていくことになり、政治とも密 接にかかわることになった。長期にわたったマルコス政権が腐敗したことで、汚職・不正行為が横行し、国民の不満は高まっていた。1983年には国民の間で 広く人気があったベニグノ・アキノ元上院議員がマニラ国際空港で暗殺され、マルコスが黒幕であると噂された。

マルコス政権崩壊の直接の きっかけとなったのは1986年の選挙で、(政府の不正な操作によって)マルコスが優勢であるという発表がされたために国民の不満が爆発。国内は騒乱状態 となり、いつ内戦になってもおかしくない状態となった。そんな中にあってシン枢機卿はフィリピンのカトリック教会の代表として人々にイエス・キリストと福 音の精神に従うこと、運動の中で絶対に暴力を用いないよう訴えた。

マルコス大統領とイメルダ夫人は完全に国民感情が自分たちから離れてい ることに気づき、状況を打開するため、シン枢機卿に自分たちの側について国民を説得してくれるよう願った。枢機卿はこれを丁重に拒否した上、大統領と夫人 に対して、マニラ市内に集まってマルコス打倒を叫んでいた人々に対する武力行使を行わないよう願った。にもかかわらず、大統領は軍に対してデモ制圧のため の武力行使を許可した。

戦車と兵士の一隊がデモの大群衆と対峙した時、デモに参加した民衆はその場にひざまずいてロザリオの祈りを唱え、 英語の聖歌を歌った。これを見た兵士たちは武力制圧の命令を拒否した。兵士たちの一部は逆にデモ隊に加わりさえしている。シン枢機卿はいつ流血が起きても おかしくなかったこのような状況において死者や負傷者が一人もいなかったことは奇跡・恵みであるとしている。

ここにいたってマルコス大統 領と一族、側近たちは国外亡命を余儀なくされ、ロナルド・レーガン大統領の斡旋によってハワイのホノルルに逃れた。国民が主役の政変は成功し、この出来事 は「ピープルズ・パワー」(人民革命)あるいは「エドゥサ革命」とよばれることになった。(エドゥサ(EDSA)とは民衆が集まって行進を行ったマニラ市 内の大通りの名称(Epifanio De los Santos Avenue)の略である。)政変後のコラソン・アキノ、フィデル・ラモス両大統領のもとで、シン枢機卿はエドゥサ革命の立役者として賞賛され、大統領た ちのアドバイザーであり続けた。

(Wikipediaより)

大統領たちのアドバイザーであり続けた・・・

アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン・・・と歴代大統領のアドバイザーであり続けた、ロバート・B・アンダーソン。

マルコス、アキノ、ラモス、エストラーダ、アロヨに至るまで、政界を裏から操って来た黒幕であったハイメ・シン。

フィリピンはフリーメイソンもたくさんいますが、イエズス会が政界から最小単位自治区のバランガイの高利貸しまで仕切っているのです。

それでも、敬虔なカトリック信者、フィリピン人は神を信じて、毎日を過ごしています。

これでも、信仰の自由という理由で、キリスト教という一神教による罪、洗脳搾取の実態を放置しても良いというのでしょうか?

インドという国、ここがイエズス会を始めとする列強の出発点なのです。

インドで成功したイギリスは良く知られていますが、その前の時代、ポルトガル、スペインの時代もインドが拠点です。

ゴアという州が有り、ここだけは第二次世界大戦後、インドがイギリスから独立しても尚、ポルトガルが支配していました。

ポ ルトガル領インド (Índia PortuguesaまたはEstado da Índia)は、インドにかつて存在したポルトガルの植民地。イギリス領インド帝国が1947年に独立した当時、ポルトガル領インドはインド西岸の飛び地 ゴアやダマン、ディーウ、現在のダードラー及びナガル・ハヴェーリー連邦直轄地域を所有していた。ポルトガル領インドの領土は、ゴアと総体してみなされる こともある。

初期

最初にポルトガルがインドに足跡を残したのは、1498年5月20日、ヴァスコ・ダ・ガマがカリカット (現在のコージコード)に上陸した日であった。アラビア商人の反発を受けながら、ガマはカリカット地域の首領ザモリンから、通商権の許可を示すあいまいな 書簡を手に入れた。しかし、後にザモリンに品物全てを置いていくよう迫られるのと平行して、彼は通知なしに出航しなければならなかった。ガマは商品を渡さ なかったが、貿易準備の命を下して数名のポルトガル人を残した。
1510年、ポルトガル提督(のちにポルトガル領インド総督)アフォンソ・デ・ア ルブケルケはビジャプール藩国を打ち負かし、ヴェーリャ・ゴア(旧ゴア)に恒久の植民地を手に入れた。南端の地域は短縮してゴアと呼ばれ、ポルトガル領ゴ アの中心地となり、アジアにおけるポルトガルの領土を治めるポルトガル副王の所在地とした。

ポルトガルはムザッファル朝(英語版)グジャ ラート・スルタン国(英語版)(グジャラート)のスルタンから数カ所の領土を得た。ダマン(正式併合1539年)、サルセッテ、ボンベイ、バサイム (1534年占領)、ディーウ(1535年併合)である。これらの領土はポルトガル領インドの北部地域となった。ダマンからチャウルまで海岸沿いに100 キロ広がり、内陸へ30から50キロあった。地域は城塞都市バサイムが支配した。ボンベイ(現在のムンバイ)は、1661年にイングランド王チャールズ2 世の元へ嫁したポルトガル王女カタリナ の持参金の一部として割譲された。北部地域のほぼ全域は、マラータ独立戦争(英語版)後の1739年にヴァサイーの戦い(英語版)で失われ、1779年に ダードラーとナガル・ハヴェーリーを獲得した。

インド独立後

1947年にイギリスからインドが独立した後、ポルトガル は、インドからの領土保有を断念して欲しいという依頼を拒絶した。ハーグの国際司法裁判所による決定は、ダードラーとナガル・ハヴェーリーへの接近とみな される行為によりインド市民がこの地域に多数集結すると難局を迎えた。

1954年から、ゴアを統治しているポルトガル人たちが出て行くよ う、平和的な非暴力独立運動「サティヤーグラハ(英語版)」の試みが、ゴアの外側からなされたが鎮圧され、首謀者らは殺されるか監獄へ入れられた。その結 果、インドは領事館を閉鎖し(1947年からパンジムに開かれていた)、ポルトガル領ゴアに対する経済的な輸出禁止を課した。

インド政府は1955年から1961年まで、『待機と監視』の姿勢をとり、ポルトガルのサラザール政権へ抗議した。
す ぐに、1961年12月には、インドのゴア軍事侵攻(英語版)が起き、ダマンとディーウでは不適当なポルトガルの抵抗運動に直面した。中止命令が布告され たにもかかわらず、ポルトガル武装勢力は侵略者に打ち負かされるか殺されるかのどちらかを指示され、公式停戦協定は結ばれなかった。

装備の不十分な抵抗勢力には、ポルトガル軍の貧弱な火力と要員(わずか3,300名)が与えられたのみだった。対するインド軍は、陸海空の三軍の集結を背後にした、十分に武装した3万人の軍勢であった。[7] [8]領土は1961年12月19日にインドに併合された。

ポルトガル本国のサラザール政権及びその後のエスタド・ノヴォ体制は、1974年までポルトガル国民議会において、ゴア、ダマン、ディーウのインド支配を拒絶する主張を続けた。

1974 年にカーネーション革命が起こり、リスボンの新政権はインドとの外交関係の修復をはかり、ゴア、ダマン、ディーウのインドの主権を認めた。しかし、軍の引 き継ぎのために、以後ポルトガル領インド住民の願いは考慮されることはなかった(1960年の国連総会決議第1514条(15)における民族自決権)国連 決議第1541条と1542条を参照)。

住民はポルトガル市民権を保持する権利を持ち続けた。しかし、2006年より、ポルトガル統治時代に出生した者に限定して市民権が制限された。

上記はポルトガルとしての支配ではなく、イエズス会による支配と読めば良いでしょう。

現在、インドはBRICSの一員として、経済成長し続けています。

これは、インドの市場規模を見越した企業、外国政府、特殊な団体から資金が集まり、このこと自体が世界経済を回していると言えるでしょう。

欧米日企業のお客様は欧米日だけでなく、世界が相手。特に軽自動車を好むインドです。

フィリピンには、軽自動車がありません。

石油利権の支配が激しく、売らないし、売れない。

ハイブリッド車はあります。

しかし、トヨタのプリウスが500万円です(爆)。

イエズス会支配が薄れ、経済成長路線に乗り、奴隷のような労働者がいなくなることが国際秩序維持派の存在理由の一つです。

そういう意味では、フィリピンがこのまま成長路線を維持できるか否かは、イエズス会の支配度と関係します。

イエズス会やフリーメイソンといった、ヘッセン陣営支配が好む、ベルベットな奴隷制度が今でも濃厚です。

外国企業はその奴隷制度にあやかっているのではなく、労働者=奴隷を解放するために進出しているという目的を忘れてはなりません。

これは、かつて、国際的な機関から資本と技術を享受した、日本が辿った道ですから、簡単に理解できると思います。

そして、これらが受けられなくなった、今の日本を見れば、その理由も容易に理解できます。

これからの日本人の生き方は、会社員として束縛されるのではなく、様々な仕事をフリーにこなす、本当の意味でのフリーターになることでしょう。

その方が、会社にしがみつく人生より安定します。

5つぐらいの収入源があれば、そのうちの一つがポシャっても、即失業ということにはなりませんからね。

家内が実際にそうして収入を得ています。

そのうち、私の収入を抜き、私は捨てられることでしょう(笑)。

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