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不屈の男に仕上げてくれた「試練」 『UFOテクノロジー隠蔽工作』 スティーヴン・グリア著 

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宇宙人情報の分類では、C組、チャネラーじゃない、コンタクティ代表ですが。
基本的に、ネガ系宇宙人の過大評価も、ポジ系宇宙人の過小評価でもない、人類ヒト科ゴイムを奴隷管理するのは、軍産複合体を中核の、カバル、イルミナティ、人類の諸々闇の組織で、ポジ系宇宙人の、地球への関与を、阻止する勢力説の。
とりあえず、参考ですね。


不屈の男に仕上げてくれた「試練」

http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-bfd7.html
 1965年、陽光の満ち溢れる昼下がり、私は近所の遊び仲間の連中たちとその辺をうろついていた。私たちは典型的なアメリカ南部の子どもたちであり、いろんな冒険を探し求めてはその辺りを歩き回っていた。そして突然、西南の空に現れたものに度肝を抜かれた。それは銀色の楕円形で、微光を発しており、それが飛行機やヘリコプターでないことは確かだった。その外観には継ぎ目がまったくなく、何の音も立てなかった。それは今までに見たことのないものである。しばらく空中に浮かんでいたその物体は、一瞬にして姿を消してしまった。

   私たちはそれが、普通のものではないと感じた。
   案の定、家族は子どもの言うことを本気にはしなかったが、私も友達もただならぬものを見たことはわかっていた。これが、私とETVとの初めての出遭いであった。ETVとは米国家安全保障局(NSA)の用いる用語の、地球外交通機関の略称であり、一般的にはUFOと呼ばれている。

   その日以来、私はあの宇宙船との繋がりをずっと感じ続けている。
   また、その後の数週間の出来事を通してその繋がりは一層強くなった。それは一連の鮮明な夢や、地球人ではない存在たちとの出会いであり、そうしたものが毎晩続いたのだ。おそらく私は少年だったおかげで”ひるまず”に、そうした経験を受け入れることができたのだろう。仲間たちと経験したあの出来事は自然の成り行きのように思えた。彼らET(異星人)たちは、私の目に見える世界を超えた事物について、除々に私の目を開かせるように集中的に活動した。

   しかし2、3年前まで、私はこういったことを公然と話すことはなかった。
   それは笑われる可能性があったからだ。この少年時代にできた繋がりは、私の人生を一変させてしまうような性質のものだった。そして私の興味は強まる一方になり、12歳頃には「トゥルシー」「アルゴシー」「ライフ」などの雑誌や、UFOのエンカウンター本などから関連記事を集めては隠しており、それはかなりの量になった。

   「地球以外の惑星から来た人を知っている」という考えは私をとりこにし、夜空を眺めては神秘と喜びに満たされることも多かった。恐怖を感じることは一度もなかった。私の異星人に対する観念は、彼らの存在はすでに知られており、あるいは前提になっており、彼らは地球人類の進化程度を知っているというものだった。その創造性が大きく広がるような親しみの感情は、学齢に達する前でさえ、常に悦びと平和の感情を伴った。自然の中に出ると、日常生活では味わえない目覚めた神聖な感情が湧いた。

   空を見上げている時、外で遊んでいる時、常に私の肩にかけられた手のような、不思議な意識の気配を自分の周りに感じていた。ペルシャの格言に「神を愛する最善の道は、宇宙を愛することだ」というのがある。私はとても無邪気で素朴なやり方で、この言葉の真実の恵みを受けてきたのだ。

不屈の男に仕上げてくれた試練

   私は驚くほど刺激的なアメリカ南部の家庭に育った。
   父の母親はアメリカ原住民族でチェロキーだった。私の家庭はきわめて問題の多い家庭だったが、そういった難しい家庭に育つ子どもは、2つの道のどちらかをたどる。1つは自己破壊的な悪癖におぼれ、自殺の伴う道と、そうでなければ、有意義で生産的な人生を築くために必要な精神力を見出す道だ。そして私は見える世界、見えない世界からの導きのおかげで、後者の道をたどった。

   それは実際に、人間を傷つける破壊しかかった家庭環境であり、そうしたものは他にはないのではないかと思わせるものだった。しかしほとんどの人は、こうした私の背景に気づかない。羽振りのいい医者であるとか、社会的な有名人だなどと思われ、常識的で豊かな家庭に育った人間と見なされていた。

   アル中の両親と、しょっちゅう起こる家庭のもめごとのために、私たちは見捨てられ、放置され、虐待されていたようなものだった。小学校へ上がる前の幼い頃から、食べるものが何もなくて、タバコの灰や砂、土などを食べていたことを思い出す。医者である今としてならわかることだが、それは体が要求するせめてものミネラルを補給するためだった。生き抜くために、体が本能的に求めたのである。私はたびたび病気になり、特に冬になると毎年のようにひどい肺炎と気管支炎を患った。この時期の傷ついた肉体的組織が今でも両肺に認められる。

   しかし神の恵みはしばしば、困難を通して現れるものだ。
   私を不屈の男に仕上げたのは、こうした試練であった。この境遇が私を強く生き抜く人間にしてくれたのだと理解した時、子どもの頃から胸中に抱いていたはずの恨めしさなどは雲散霧消してしまった。高校に入る前の頃、自分の人生をしっかり掴んで逆転させてみることを自分に誓い、私はその誓いを果たした。

   その当時の数年間、私は実際に自分でアパートを借りて自活していた。
   その地域にあるレストランで毎晩午前1時まで働き、毎朝6時に起床して、自転車で街中を通り抜けて学校へ通った。成績は平均Aのグレードを維持することもやってのけ、さまざまな学校活動に参加して優等生になった。

   私の中に芽生え始めた責任感は、3人の姉妹たちにも及んだ。
   私はよくこの妹たちのことを、うっかり”私の娘たち”と呼んだりした。つまり彼女たちに対する私の保護と思いやりの本能は相当なものだったのだ。模範的な親とは真反対の見本のような両親を持ったおかげで、いかにして為すべきかを私は学んだのだ。こうした試練から、人は自分の将来を作り出すのであり、自らの出身や貧困、逆境、その他の困難は、人間の意志によって克服し超えることができることを理解したのである。

   高校時代、1960年代後半から70年代前半にかけて流行したティーン・エイジャーを夢中にさせた文化のとりこになるには、私は忙しすぎた。たいていの家庭の子どもにとって当たり前の贅沢であっても、私にはそれにかける金がまったくなく、もっぱら基本的な生存が最優先していた。

   その代わり、私は古代インドの聖典『ヴェーダ』を読み、サンスクリット語を学び始めた。それは私の精神にはいかにもピッタリしていた。私は堅苦しい宗教の枠外で育った。両親に連れられて教会へ行ったことがない。その初めからキリスト教的な制度的教義に縛られていなかったために、型にはまった宗教的伝統の下に育った人には受け入れ難い概念を、私は偏見を持たずに認めることができたのだろう。その結果、外部からの指導を待たずに、瞑想的経験や高次の意識の領域へと自然に入っていけた。

   読むことと同時に直接経験することにより、祈りと瞑想を独習した。
   こうした実践と、環境問題や平和問題などの学校生活の活動が繋がって、私の意識の中に新しい層がつくられた。この時点において、今日私が呼ぶところの”意識の非局在性(ノン・ローカリティ)の経験を知ることとなった。この意識の非局在性を求めて、私は自由時間を見つけては自転車で田舎へ行くことを楽しんだ。

   草原に横たわり、内部から湧き上がるこうした技法を練習した。
   私は意識の旅をする。あるいは宇宙へ出て行って、宇宙をはっきり見る。こうしたことは私の日課となり、どんな伝統とも関係のない制止できない美しい力が、私の中にみなぎっていた。それは内側からの完璧な現れだった。

   その後の1973年の春、私は左腿(もも)を怪我して傷つけた。
   実は私はその前から、200マイルの自転車旅行を計画しており、シャーロットからノースカロライナ沿岸の砂州の島へ行くことにしていた。それで腿の傷を気にすることなく、予定通りの全行程を1日で走破した後、シャーロットの小さなアパートへ戻る計画を実行した。

   ところがその後、腿の傷は悪化し、気味の悪い感染症で脚が腫れて肥大し、それが全身へ広がったのだ。病状は完全に悪化した。実はアルバイトと学校のスケジュールはきつく、こうなる前から肉体は衰弱していた。しかも貧しかったために医者にかかることは最初から問題外だった。私に何が起こったのか、医者として今の私なら言えるが、敗血症になったのだ。血液が侵され、高熱を出し、骨格筋肉が衰弱し、腎臓は過負荷状態だった。こうした徴候は命取りの可能性があり、私はそうした状態へ急降下していった。

   17歳で独りぼっちの私は、電話もなく、病状の重大さもよくわからずにわが身を介護した。そして、私は臨死体験をしたのだ。突然、肉体から解き放たれていたのである。私は宇宙の深みへと運ばれ、そこでは寛(くつろ)いでいた。そこでは、今の私が”神なる意識”として捉えていることを体験した。そこには二元性はなかった。恐れも存在せず、それは無限の覚醒と歓喜、終わりのない完璧な創造の知覚だった。

   やがて星群の中から、2つの眩しいきらめく光が近づいてきた。
   私は今、それがアヴァター”神の顕現”であると理解する。それは神人でも擬人化でもなく、輝ける2つの光点であり、純粋なる意識のエネルギーとして現れた。この2つの光点は、私たちの時代の一対のアヴァターだった。そのアヴァターは近づいてきて、私はそれらと一体の状態になった。それは信じ難いほど美しく、次いで言葉に先立つ知識の伝達があった。

   「りんご」という言葉を発すると、その言葉の中にりんごの現実のイメージがあり、それはアストラル(光形態)と言えるかもしれない。さらにその意識されたイメージの中に、リンゴそのものの純粋な形態(イデア形態)、エッセンスがある。このような伝達形態で、私に知識が伝えられた。その合一がどのくらい持続したのか見当もつかない。私はその美しさに感動すると同時に圧倒されていた。

   この伝達は次第に変化してゆき、ついには線形のコミュニケーション様式をとった。一対のアヴァターの一方が言った。「私たちと一緒に来てもいいし、地球へ帰ってもよろしい」。私は落ち着きを保ち、「あなたのご意向は?」と聞いた。その存在は、「地球へ帰り、別の仕事をしてもらいたい」と答えた。私にはその時地球へ帰りたいという気持ちはまったくなかったために、その答えを聞いてガッカリした。あの覚醒状態で、あの場所なき場所に留まることができたなら、私はどんなに幸せだっただろう。だがどういうわけか、私は人間が為し得る最高の対応は、神の意志を受け入れることだと知っていたのだ。そこで「オーケー。では」と答えたのだ。

   私が経験したのは、無辺の”マインド”と全創造との同一性、その完全無欠な一体性であった。それは宇宙の高位存在の実在と神格の存在の認識でもあった。やがて私は失心したようになり、シューっという音をたてながら、自分の身体へと戻った。私はおそらく長い間、体外にいたに違いない。小さなアパートの窓の外には、街灯に照らされたカエデが風に揺れていたのを、今日のことのようにはっきり覚えている。

   だが動くことができなかった!
   「素晴らしい。私はここにいる。この台無しになった体、麻痺してしまった体に戻っている」、私はそう思った。私は部屋の中にあの存在がいることに気づいた。彼は私の生きる意志を試すために遣わされて来ているのだ。おそらく、ここに留まるために自分の意志力を使う経験が私には必要だったのだろう。

   それは私を体内へ引き戻そうとするような力だった。
   私は肉体の中に留まり、光のアストラル体と意識体を統合させる必要があった。それにはどうしても、意志力の行使が欠かせない。数回試みた後、私はそれを釘付けにし、肉体に留まった。そして間もなく、私は完全に意識を取り戻し、運動能力を回復していった。

   この経験は、私の人生をがらりと変えてしまった。
   それまでに教えられてきたことのすべてが変わった。神は存在する。肉体の死後も意識は存在する。死を怖がる必要ない。実際のところ、死は存在しない。それはただひとつの状態から別の状態への変容があるだけなのだ。

   私は起き上がり、この世界と再統合した。
   信じ難い悦びの中に留まり、宇宙意識の無限性を伴った意識状態はまだ私の内に目覚めていた。部屋の中に囲われていながら、私はその意識状態の中にいた。そして私の病んだ脚は自然に治ってしまった。私は医者にもかからず、抗生物質も何も必要なかった。

   book 『UFOテクノロジー隠蔽工作』 スティーヴン・グリア著 めるくまーる 抜粋


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