方向性は、名無し先生関係とrapt説も、ほぼ同じと、分類してますが。その、高度自給自足時代の夜明け 【先進国の未来像】さん最新出ましたね。とりあえず、参考ですね。
【マハリカ国(フィリピン)の歴史① フィリピンは自分のものだと主張する男】 (02/19)
http://jfcoach.blog49.fc2.com/blog-entry-298.html
こんにちは、このブログでは、ヘッセンを始めとするベルベット・ファシストが所有していた金塊の存在を公表しています。
記事の多くは、ブログのジャンルを歴史に変更したほうが良いのではないか?というぐらい、歴史ものが多いのですが、これはベルベット・ファシストの持っていた金塊がいったいどのような経緯で集まったのか?元々は誰の所有で、どんな歴史があるのかを知るために必要不可欠だからです。
実は、自分はフィリピンの所有者だと主張する男がいます。
この人物とフィリピンの歴史に関して長い英文を入手しましたので、翻訳し今後、数回の記事に渡って紹介したいと思います。
一般的に、フィリピンというと、①スペイン統治→②アメリカ統治→③日本統治→④独立というイメージだと思います。
大雑把にはその通りです。
で、その時代時代において、いったい誰がフィリピンの所有者で、今は誰のものなのか?という、とんでもなくトンデモな話です。
まさかこの時代に、この民主主義の国に、所有者などいるわけがないだろうと思うでしょう。
学校でもそんな馬鹿げたことは教えません。
しかし、それぞれの国には所有者が存在したし、現在でもそれを知っている人は知っています。
例えば、フィリピン・ミンダナオ島の主。
フィリピンはカソリック国ですが、一部ではイスラム教が残っています。
特にミンダナオ島は、主にイスラム地域であり、その主は絶対的な権力を持っており、フィリピン国家も手を出すフリをするだけで、最後はいつでも停戦のようになってしまいます。
マギンダナオ州の大虐殺事件がありましたが、その主犯格がマギンダナオの主。
アロヨ大統領時代に逮捕はされたものの、いまだに有罪なのかどうなのかはっきりしません。
まったくおかしな世の中なのですが、それもそのはず、彼は大統領も手が出せない存在なのです。
そのほかにもスールー王国があり、2013年にはスルタンの末裔がマレーシアのサバ州に上陸する事件が発生しており、いまだにスールー王国の存在を確認できます。
世界には意外に王位継承権という形で王様を主張する人が多いのです。
例えば、十字軍がゴルゴダの丘の辺りに作った国エルサレム王国というのが在りました。
この王位継承権を今でも争っています。
下記に争っている人々が入っています。
現在の可能性のある王位請求者
ここに称号の相続に基づく(対立も含む)現在の可能性のある幾つかの王位請求者を挙げる。彼等の誰もが以前の王国の区域の何らかの力を有してはいない。
- フアン・カルロス1世, 現スペイン国王
- ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア, イタリア王位請求者 (サヴォイア家)
- アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタ, イタリア王位請求者(サヴォイア=アオスタ家)
- カール・ハプスブルク=ロートリンゲン, オーストリア帝位請求者 (ハプスブルク=ロートリンゲン家)
- カラブリア公カルロ, 両シチリア王位請求者(ブルボン=シチリア家カランブリア系)
- カストロ公カルロ, 両シチリア王位請求者 (ブルボン=シチリア家カストロ系)
- Charles-Antoine Lamoral, prince de Ligne de La Trémoïlle(英語版), ヨランダ・ルイーズ・ド・サヴォワとブリエンヌ家による請求の家長
その他の歴史的請求者
- テューリンゲン辺境伯 フリードリヒ1世、コッラディーノが死んだ1268年にフリードリヒ2世の孫としてその権利から自身でエルサレム王に戴冠して短期間使用した。この請求はウトラメールその他で認められることはなかった。
- E.P. Karnovich (1886年)によれば[6]、ロシアの軍にはリュジニャン侯と言う名の大佐がいて、ロシア皇帝ニコライ1世からキプロス及びエルサレム王の称号で呼ばれることを許された。その大佐は東ローマ帝国統治下のギリシャ軍に従事したChristobuldeLusignanの子孫で、伝えられるところではエジプト及びロシア・サンクトペテルブルクに移住したキプロスのリュジニャン王家の末裔であると主張した。ニコライ1世はリュジニャン大佐に爵位を貰った将校が保持するロシアの貴族として登録することを許可した[7]。この大佐は恐らくはLouisChristian de Lusignanとして知られている。
以前の記事で、サヴォイが今でもイタリアの王位を主張していると書きました。
そう、いつの日か、イタリアが君主制に戻った時に王位を主張し、王様に返り咲こうとしています。
戦後70年が経過し、先進国は平和で安定していますが、何千年の歴史のたったの70年間です。
イタリアの歴史は、紀元前753年にローマ建国 エトルリア人も12の都市国家による都市連合の王政を築いていた。
伝承によれば、紀元前509年にローマ人パトリキ(貴族)がエトルリア人の王を追放し共和制を開始した。
サムニウム戦争(紀元前343年 - 紀元前290年)などにより紀元前272年にイタリア半島を制圧。
フェニキア人の植民国家カルタゴとの戦争(ポエニ戦争)(紀元前264年 - 紀元前146年)によりシチリア島を獲得。地中海の覇権を握る。
その後もイタリアはローマ帝国の中心地域として栄えたが、395年に帝国の統治機構及び皇帝位を東西に分割し、イタリアが所属する西ローマ帝国は476年に滅びる。西ローマ帝国を滅ぼしたオドアケルはイタリア王となり、これが国号としてのイタリアの走りとなった。
ローマ帝国分割以降
493年にはオドアケルが滅ぼされ東ゴート王国が成立、さらに553年には東ローマ帝国が全土を掌握し、イタリアは80年ぶりにローマ帝国領として奪還された。
18世紀末にイタリアに侵攻したフランスのナポレオン・ボナパルトは全イタリアを手中に納めたが、1815年に、ナポレオンが失脚するとヴェネツィアとジェノヴァの共和国を除きほぼ元の分裂状態に戻った。
イタリア王国
1861年2月に、ジュゼッペ・ガリバルディらの協力を受けたサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が統一に成功し、1861年3月17日にイタリア王国を樹立した。
1922年には、ファシスト党のベニート・ムッソリーニが首相となる。その後ムッソリーニは権力の集中を進め、1929年にはローマ教皇庁との間にラテラノ条約を結び、関係を修復する。
ムッソリーニ首相とヴィットーリオ・エマヌエーレ3世国王の指導の下、政治経済の回復に成功し各国からの称賛を得たものの、その後1935年にはエチオピアを再度植民地化すべく第二次エチオピア戦争によりエチオピアへ侵攻するなど拡張政策を取る。
イタリア共和国
大戦終結後の1946年6月2日に行なわれた共和制への移行を問う国民投票では、共産党などの左派の影響を受け、僅差で共和制移行が決定し、ウンベルト2世は廃位され、サヴォイア家による君主制は廃止され、現在のイタリア共和国が成立した。
上記にはサヴォイについてあまり書かれていませんが、イタリアの一部は長い間、サヴォイア支配でした。
逆に言うと、つい最近までサヴォイの持ち物でした。
いつか王様に戻れないか、虎視眈々、そのためなら戦争を引き起こしてでも・・・
フィリピンにもこのような一族が存在します。
タリアーノ・ファミリーです。
現在、ジュリアン・モルデン・タリアーノよいう人物が一家の長。
それでは、英文の翻訳を始めます。
マハリカ王国、現在のフィリピン
フィリピンに関する異なる歴史見解
①スペインによる植民地化
1478年、マレー半島からやってきたイスラム教徒がマラッカ海峡を抜けジャワ島を征服し、マジャパヒット帝国の首都とした。
その後、マレー、スリヴィジャヤ、マジャパヒットは崩壊した。その代わりに、イスラム教徒の宗教的な政府としてスルタンの治世を発足設立した。
マハラジャとラジャ、タジーン一族がその後マジャパヒット帝国を支配した。
彼らは他のイスラム諸国から離れたマハリカ(今フィリピン)という7169の島々を統合した国を作った。
マレー王室の血統の子孫なので、タジーン一族はその900年の間に徴収された税金、富、権威を持ち、さらには2千年前のイスラエルの千年王国、ソロモン王との商取引があった。
マハラジャとその息子たち、ラジャは、独自の法律、カランティアンの法律でマハリカを支配した。
マハリカは非常に豊かで繁栄した国で、16世紀初頭では、マハラジャ、ルソン・タジーンは、彼が現在のマレーシア・サバ州コタキナバルまたは北ボルネオに72万トンの金塊を持っていた。当時、サバはマハリカの一部であった。
マハラジャ・ルソン・タジーンの家系図
マハラジャ・ルソン・タジーン
彼は現在のマラカニアンとして知られるラマヤン地区に居住。
マーガレット・アクーニャ・マクラウドと結婚した。
彼の息子、ラジャ・ラプラプ・タジーンはマクタン島(セブ島の小さな島)を支配した。
ラジャ·ソリマン・タジーンは、マニラとその近郊、すなわちリサール、カビテ、バタンガス、ラグナとカリラヤ地方、現在のケソンを支配した。
彼はダヤン·ダヤン・キラム王女と結婚した。
その後、彼はメアリーアン·デントと結婚した。
メアリーの父、アルフレッド・デントは、英国、ロンドンの商人だった人物で、ロイヤルブリティッシュ北ボルネオ会社の経営者だった。
(Wikipediaより)
北ボルネオ会社(きたボルネオがいしゃ、英語: North Borneo CharteredCompany)またはイギリス北ボルネオ会社(イギリス-、British North BorneoCompany)は、北ボルネオ(英語版)(現在のサバ州)を統治するために、1881年8月に設立されたイギリスの勅許会社。
歴史
1881年8月、北ボルネオ会社設立。設立当初は、北インドのシク教徒を警官とするために連れてきて、法律を制定した。そして貿易を盛んにし、政治システムや法や罰則を施行するための裁判所を導入し、ジェッセルトン(現在のコタキナバル)からテノム(英語版)(Tenom)まで鉄道を敷き、農産物のバーター貿易を奨励し、プランテーションを造園した。1882年、北ボルネオ会社はガヤ島(英語版)(PulauGaya)の居住区に創設され、1年後に本国よりサバ州統治の委任を受けた。
1888年北ボルネオが大英帝国の保護領(イギリス保護国北ボルネオ(英語版))となった。 しかし1897年にサバの部族によってガヤ島居住区が襲撃されて焼け落ち、以後再建されることは無かった。
1946年まで国内問題は、北ボルネオ会社によって治められた。
アルフレッド・デント
サー・アルフレッド・デント(Sir Alfred Dent, KCMG[1]、1844年12月12日 - 1927年11月23日)は、イギリスの植民地商人、事業家。北ボルネオ会社の共同創設者のひとり。
生涯
デントは、ロンドンに父トマス・デントの息子として生まれた。1858年から1862年まで、イートン校で教育を受け、一族が経営していたデント社 (Dent & Co.) の経営に参加した。
イギリス北ボルネオ
デントは、事業の一環として、1878年に東アジアや東南アジアを旅行し、スールー・スルタン国のスルタンを口説いて、ボルネオ島北部に対してスルタンが主張していた諸権利を、自身とフォン・オーヴァーベック男爵 (Baron von Overbeck)の共同事業に移譲するよう働きかけたが、この事業の主導者はサー・ラザフォード・オールコック、サー・ハリー・ケッペルとリチャード・ブダルフ・マーティンであった。その後、1881年にイギリス北ボルネオ地方連盟 (the British North Borneo ProvisionalAssociation) が結成され、勅許を得て1882年5月に北ボルネオ会社、別名北ボルネオ勅許会社 (the North BorneoChartered Company) が設立された。
デントは、シティ・オブ・ロンドンに拠点を置く商社・代理商のデント兄弟社(Dent Brothers and Co) の代表となった。デントはほかにも、カレドニアン(セイロン)・ティー・エステイト (theCaledonian (Ceylon) Tea Estates) の会長や、上海電気 (the Shanghai ElectricConstruction Company)、インド・オーストラリア中国勅許銀行 (Chartered Bank of India,Australia and China)、ロンドン・カウンティ・アンド・ウェストミンスター銀行 (London County andWestminster Bank) や王立取引所保険社 (Royal Exchange Assurance Corporation)の社長などを務めた[3]。
後年
1896年、デントはマーガレット・エアード (Margaret Aird)と結婚し、ひとり息子レスリー・アルフレッド・デント (Leslie Alfred Dent)が1897年に生まれた。1898年、デントはインド通貨委員会 (Indian Currency Commission)の委員に任命され、同年には聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイト・コマンダー (KCMG)を受章した。デントはイングランド南東部イーストボーンに屋敷を構え、1908年にはサセックス州長官 (High Sheriff ofSussex) を務めた。
管理人注釈:(メアリーアン·デントに関する情報はWikipediaには無し)
(Wikipediaおわり)
ルソン・タジーンの孫達
ラジャ・ラカンデゥラ・タジーンはトンドを支配した。
ラジャ·ソリマン・タジーンは東部ケソン、マウバン、サンパロクとルクバンを支配した。
彼はブルネイのスルタン6世、アブドゥル・カハールの娘と結婚した。
ラジャ・バギンダ・タジーンはボホールを支配した。
ラジャ・カビンスラン・タジーンはミンダナオ南部を支配していた。
ラジャ・コランボ・タジーンはセブを支配した。
ラジャ・シカトゥナ・タジーンはボホールの一部を支配した。
プリンス・ラカンアクーニャ・マクラウド・タジーン
ラジャ・ソリマンの息子。彼はスペインの植民地支配下に生まれ、スペイン人に対する革命的な活動がし易いように1686年12月17日に性をタリアノに改名し、祖母、マーガレットマクラウド・タジーンに引き取られた。
1726年、40歳の時、彼はオーストリアの王女エリザベス・オベルベック・マクラウドと結婚した。
1761年、彼はスペイン人支配から脱しようと、イギリスに助けを求めた。
その後、彼はラマヤン・ボワンと結婚した。
彼は178歳まで生き、子孫を残した。
プリンス・ジュリアン・マクラウド・タジーン・タリアーノはスールー王国の王女アミーナ・キラムと結婚。
彼は息子をもうけ1898年に死亡した。
ドン·エステバン・ベニテス・タリアーノは1939年にローマのバチカンで死亡した。
その息子、ドン·ボニート・アクーニャ・タリアーノは日本の占領中に死亡した。
その息子、プリンス・ジュリアン・モーデン・タリアーノは、現在生きている。
②ボニファティウス8世の二本の剣が上陸した場所
マハラジャ・ルソン・タジーンの統治下に、マゼランの軍隊は航海し、彼の軍隊が東南アジアのモルッカ諸島へ向かう途中で太平洋を横断航海した。
1521年3月に彼は偶然、マハリカ(フィリピン)島々を発見し、スペインはその王、フェリペ2世にちなんでラス・アイランズ・フィリピナと名付けた。
スペイン人はボニファティウス8世という法王の「血まみれの二本の剣」をもたらしたヨーロッパの征服者だった。
その劍は、マルティン·ルターが登場し、ヨーロッパの人々を精神的に覚醒させる前の時代、強制的にヨーロッパの人々を征服した時に用いた魔法の劍だった。
この2本の剣は、早期の北、南米大陸の人々を征服したときにも用いられた。
教会と国家の結びつきは身体、心、魂を制御する最新鋭で最強のライン(手法)をもたらした。
この章では、どのように「国家の剣」が使われ、ローマカトリック教会の精神的「聖なる剣」がどのようにフィリピン人を333年間も操作し、抑圧し、搾取したのかを見ていこうと思います。
1500年、スペイン人マゼランがポルトガル人によって教えられた香料諸島の場所を探し、メキシコから東南アジアに行き、モルッカ諸島に向かって太平洋を渡ることを計画した。
1521年3月、迷った末にサマール島の南端からホモンホン島の島に上陸。
マゼランが念頭に置いていた3つの目的があった。
香料諸島を探すこと、異教徒の土地を征服すること、そして皇帝と法王のための宝物を獲得することだった。
マゼランの滞在は短かった。彼は勇敢なマクタンの族長、ラジャ・ラプラプ・タジーンとの戦いで殺されてしまったからだ。
1564年、5人の修道士と355人の兵士がマハリカ(比)を目指してメキシコを発った。
彼らは1年後に到着した。
当初、彼らはセブ島に集中し、その島のすべての貴重品を略奪。
この破壊者達は金のために墓を掘り返すという冒涜まで行った。
彼らは、最終的にセブ島を荒廃させ、島を過疎化させた。
1568年、セブ島を焼き尽くされた後、彼らは同じ手口を使って同じように略奪破壊行為をする目的でパナイ島を目指した。
そこでは、金品が奪われ、村は燃やされ、人口の半分が殺された。
彼らはマドリードの街で見せびらかす金のネックレスを作るのに十分な金を略奪した。
③征服、課税戦略、金の吸い上げ
レガスピは、まず「所有する」ということから植民地化のプロセスを開始した。
彼は、海岸に彼の艦隊を上陸させ、木や背の高い草の枝を切り、石を取り除き、木の幹に十字架を刻んで、ローマのミサを行った。
次は「エントラーダ」=「遠征隊」だった。
(コトバンクより)
…ブラジル植民地時代(16,17世紀)に内陸部のインディオを捕らえ,貴金属,宝石を探査することを目的として組織,派遣された公的,私的な遠征隊とその事業をいう。エントラーダentradaともいい,その参加者をバンデイランテbandeiranteという。当時の沿岸主要都市から出発したが,とりわけサン・パウロ市のものが有名で,今日に至るまで,サン・パウロ人はバンデイランテ精神を称揚している。…
(コトバンク以上)
彼らは抵抗しない者には平和的に、抵抗した者には、暴力で対応した。
次のステップは「Reducciones」=征服だった。
フィリピン人を彼らの支配下に置くことだった。
動物のように、家畜や野獣をくびきにつなぐことだった。
フィリピン人は家畜のように扱われ、バランガイ(最小自治体)内のプエブロと呼ばれていた動物飼育センターのような場所での生活を余儀なくされた。
また、彼らは農地を放棄することを余儀なくされた。
プエブロ周辺では、それぞれの家族が小さな菜園が与えられ、そこで栽培された農産物のみで家族は食料を取り、また、その収穫自体に対する年貢をその食料の一部で支払った。
彼らは、次の相手に年貢を払っていた。
リーダーシップを持つ現在でいう地元のバランガイ会長。
クズのような教区の司祭だった修道士。
プエブロをまとめるスペイン人のグループ。
最後には、プエブロの「公共事業」のために使用された「カハ·デ·コムニダード」というファンド。
スペイン人は、植民地化の初期の段階からフィリピンに定住したい者などいなかった。
彼らは私服を肥やすと、1日も早くフィリピンを去り、故郷に帰ろうとした。
そして豊富な新世界から戻ってきた裕福な紳士になることだけが唯一つの目的だった。
1.年貢(金品)の収集
2.労働の搾取
3.農地の収穫物
定期的に、兵士たちを伴って彼らはプエブロを訪問し、年貢を集めた。
最初の25年間は、フィリピン人は金の真珠やその他の貴重な商品といった彼らの持ち物で年貢を支払った。
多くのフィリピン人が抵抗し、脱出を試みたが、彼らは探し出され殺された。
彼らの家は略奪され燃やされた。
・・・・・・
今回はさわりだけ(笑)
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【マハリカ国(フィリピン)の歴史① フィリピンは自分のものだと主張する男】 (02/19)
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