かなり長文のシリーズになってる、名無し先生関係、高度自給自足時代の夜明け 【先進国の未来像】さん最新、フィリピンの続き、やっときますかね。
【マハリカ国(フィリピン)の歴史③ フィリピンは自分のものだと主張する男】 (02/23)
http://jfcoach.blog49.fc2.com/blog-entry-300.html
こんにちは、今回も前回の記事の続きです。
今回の目玉はなんといっても、フィリピン譲渡時のスペインとアメリカ、そしてバチカンの駆け引きです。
Wikipediaには簡潔に書かれていますが、その裏には驚きの根回しがあったのです。
その前知識というか、19世紀末当時の東側太平洋の制海権の確認をしたいと思います。
1898年、マニラ湾海戦でアメリカ艦隊がスペイン艦隊を撃沈した・・・
これによりアメリカがフィリピンの支配者になった。
当時のアメリカは太平洋東側の制海権を握っていたのでしょうか?
はるか南米キューバからやってきたアメリカ艦隊がどれぐらい強力だったのか?
それより4年遡る1894年、太平洋で大勝利を収めた国があります。
それは、我らが日本です。
1894年、日英通商航海条約が調印される。
1894年、日清戦争の勝敗を決定ずけた9月の海戦で勝利。
1895年、日清講和条約後、独仏露の三国干渉があり、このころ日英同盟の機運が生じたといわれる。
1898年、アメリカがスペインに勝利し、なぜか負けたスペインに2000万ドルを支払いフィリピンを買う。
1899年、1894年調印の日英通商航海条約が実施される。
1901年、伊藤博文が日露協商交渉を実施しているが失敗する。
1902年、日本はイギリスと日英同盟を結ぶ。
1902年、アメリカは1899年から独立を求めるフィリピンに勝利し植民地化する。
1904年、日本は英米の協力を得て、日露戦争に勝利。
1905年、今度はアメリカ(フィリピン)と協定を結ぶ。
日露戦争中の1905年7月29日に日本の内閣総理大臣兼臨時外務大臣であった桂太郎と、フィリピン訪問の途中来日したアメリカ特使であったウィリアム・タフト陸軍長官との間で桂・タフト協定が交わされたました。
- 日本は、アメリカの植民地となっていたフィリピンに対して野心のないことを表明する。
- 極東の平和は、日本、アメリカ、イギリス3国による事実上の同盟によって守られるべきである。
- アメリカは、日本の韓国における指導的地位を認める。
日本最強の時代、アメリカがヒョコッとやってきて、マニラを取っちゃってから日本と協定を結びます。
おかしい・・・
何か、うまく話が進みすぎていませんか?国家ではない何か影の勢力の結託というか、そういうものを感じるのは私だけでしょうか?
これには日本も大いに絡んでるんじゃないでしょうか?
フィリピンをアメリカに取らせた?
それはこの後に起こされた第一次世界大戦と、最終的に日本がアメリカと戦う第二次世界大戦の準備だったのか?
そしてバチカンが、彼らの修道士らが奪った財産をタダでは手放さなかったということがこの文章に書かれています。
それでは翻訳の続きです。
修道士による欺瞞と強奪
1889年2月16日、初のラ・ソリダリダッド連帯がスペイン人に注目され、フィリピン人の窮状に同情を感じさせるために、スペイン・バルセロナのフィリピン人によって印刷された。
2月25日付け発行の第2回目のラ・ソリダリダッド連帯でロペス・ジャエナは "彼ら修道士がスペインのためにフィリピンを維持していると言う事は重大な欺瞞である。

むしろ、修道士は、スペインのために列島を維持しているのではなく、その逆で、それは私たちの政府が修道士のための島々を維持しているようだ”と語った。
3月31日発行のものでは、マニラ特派員、D.A.ムルガスが、 "フィリピンで非常に明確な、唯一の優位に存在は、修道士に関係するものである。
修道士は彼らの優位性を考え、人々の大きな苦悩を取り除くき希望を与えるどころか、それに反しすべての進歩とは対照的な構造を形成しており、したがって、それはスペイン本土の大都市の強度不足、政府の無関心のいずれかを明らかにしている。と言った。
ラ・ソリダリダッド連帯のコピーはマハリカに密輸された。
スペインの出版の自由があったものの、マハリカでは新聞は、その明らかに反修道士的なスタンスが、地下プロパガンダで破壊的な材料と考えられた。
ホセ·リサールのエル・フィリバステリズモは、ナショナリズムの鋭い感覚と憤慨によって書かれた小説だった。
彼は残酷で貪欲なスペインの司祭の性的虐待を見た。
彼はカランバの家からドミニカの司祭が彼の家族や親戚を追い出した光景を目の当たりにし、ショックを受けた。
1896から1898の革命時には、40人の修道士が死亡し、403人が投獄された。
しかし、共和国の政府は、後でそれらを釈放した。
1896年の時点で国の正式な修道士は1124名だったが、1900年にはそのうち、わずか472名が残り、1903年ではたったの246名のみとなった。
この意味するものは明確だった。泥棒と制圧者「suitic」と呼ばれるのが一般的になったスペインの修道士は、島から追放されたのである。
40人の司祭が殺され、403人が鉄格子の中に入れられたのは野蛮な行為ではなかった。
彼らに333年の間被害を受け虐げられた人々による自己防衛行為だった。
飢餓と怒りの中、フィリピン人は抑圧者、ローマカトリックの司祭に対して反乱を起こし、最終的に彼らの虐待に終止符を打ったのだ。
一度でも泥棒をすれば、一生泥棒
アメリカの総督、タフトにとって大きな問題は、修道士が追放されても、ローマカトリック教会は、教会がまだあったように、まだ修道士によって「所有」された広大な土地(164594ヘクタール)の所有権を主張した。
司祭達個人の合計は37,649ヘクタール、ドミニク会は65,538ヘクタール、アウグスチン会は6,1406ヘクタールを主張した。
この問題を解決するために、タフトは、レオ13世と協議するために1902年にローマに行った。
タフトは、教皇に修道士の土地の購入を提案し、法王は同意した。
しかし、タフトはマハリカに戻り、修道士の土地の証書を精査したが、そのほとんどが聖職者の名義からゴーストカンパニー(架空の会社)名義に書き換えられていたことを知り落胆した。
ドミニク会修道士はイギリス人でフィリピン・シュガー・エステート開発株式会社という経営者に土地の大部分を売却していた。

アウグスチン会修道士は、ラ·ソシエダ·アグリコラ·デ·ウルトラに彼らのアシエンダの大部分を売却。
その他の修道士は英国のマニラエステー株式会社に彼らの土地を売却し、ミンドロの農園のみを保持した。
修道士は、抜け目のないビジネスマンなので、革命の結果を予想し "ゴーストカンパニー”のアイデアを考えた。
マロロス憲法によると、修道士のすべての土地、建物やプロパティがフィリピン人(民間企業含む)に返還されなければならないとなっていたからだ。
1897年、アギナルドの「農地改革」は、すべての修道士の土地の没収を元の所有者に返還することが定められた。
所有権が確立されていないケースでは、土地は小ロットに分け、手頃な価格で4年間のローンを組む方法で人々に売却された。
しかし、アメリカの体制下で、マロロス憲法とアギナルドの「農地改革」は実現しなかった。
タフトは、単純に修道士の土地の正当性を推定し、ローマカトリック教会で、より多くの流血と長期の裁判を避けるために土地を売却することを決心した。
売却を交渉するために教皇によって送られたローマの使節を通じて、初期価格は、「千三百万USドルから千四百万USドル相当のアメリカン・ダラー・ゴールド」だった。
それは、のちに千万USドル、その後米国850万USドルに引き下げられた。
最終的に、タフトは、7,543,000米ドルを支払った。
マハリカ政府の浮動公債は、支払資金を調達するために使用された。
土地は、政府によってフィリピン人の個人に順番に販売された。
タフトのした事は、現代の法律で判断される場合、彼は反フェンシング法で有罪である。
タフトは、人々のお金(浮動公債)を使用して、修道士からの盗品を買い、人々にそれらを販売した。
フィリピン人は、主に自分の農地を盗んだ修道士の残酷さと窃盗に反乱したのだ。
もし、タフトが急いでいなかったら(彼は陸軍長官であることから、翌年には本国に戻らなければならなかった)、彼はローマカトリックの司祭による、これらの土地の大部分の違法性を発見できたかもしれない。
今日でも、マニラのメイン通りである、タフト・アベニューに彼の名前つけ、この男を称えている。
この厄介な問題を迅速に解決し、人々の不安を回避するために、タフトは、フィリピン人の米750万ドルというお金を修道士を払って、ローマカトリック教会・法王からの「クレーム終了」という署名を得るために不当な妥協をした。
ローマカトリック教会は、修道士の土地の大部分の所有権の不当性を知っていた。
しかし、道徳の問題は、交渉中、大して問題にされなかった。
ローマカトリック教会、修道士は、盗んだ土地を売り払うことで最高の利益を得たので、とても幸せだった。
一方、フィリピンの人々は、悲しんだ。
彼らはスペインのローマカトリックの司祭によって彼らから盗まれた土地を取り戻すために2回も払うというの不正を受けた。
333年もの修道士の弾圧による苦しみを経験した後、革命で多くの血を流し、ローマンカソリックという宗教の仮面をかぶった泥棒が要求する価格を支払った。
ここでも、ボニファティウス8世の2本の魔法の剣がマハリカのローマカトリック教会の真の意図を明らかにした。
彼らは、フィリピンの人々の”永遠の救い”には興味がなかった。
彼らは”自分にとっての救い”にすら興味がなかった。
彼らは、統治支配し、自分自身を豊かにした。
ヨシュアの真の教えとは正反対であった。
彼らが排除された時も、ローマはまだ私達フィリピン人の祖先により多くを要求した。
結局、ローマカトリック教会はより豊かになり、フィリピンの人々は貧しくなった。
ローマ教会の吸血鬼どもは意気揚々と大きな喜びを示した。
今日、何百年も後に、それはまだ、私たちの周りに、非常に多く存在している。
フィリピンはいつも、また同じ、ローマ教会という寄生虫により蝕まれている。
フィリピンの革命は1896年に始まった。
1898年には、スペインの植民地政府はすでにレイムダックだった。
他の国からの助け無しに、フィリピン人はスペイン人から身を解放した。
1898年、マハリカがどのようにしてスペインに勝ち、アメリカに負けたのか?
3月15日 - マニラの東からフィリピンの革命軍がスペインの政権軍と戦った。

3月24日 - スペイン政権はカビテのフィリピン人の部隊に革命軍を攻撃するよう命令したが、彼らは拒否した。
3月2X日 - カビテのスペイン政権下のフィリピン軍は革命軍に亡命。
3月XX日 -革命勢力はザンバレスでスペインの守備隊を攻撃した。59名のスペイン兵士と6名の修道士が死亡。
4月2日 - アメリカはスペインに宣言布告。
4月27日 - ジョージ提督下の米国のアジア艦隊は、香港近いマーズベイからマニラ湾に向け出航した。
5月1日 - デューイは、マニラ湾でスペイン艦隊を沈めた。
5月4日 -スペイン司令官、オーガスティンは、12000~14000人のフィリピン人民兵を武装させ組織した。その後、彼らはすべての革命軍に亡命。
5月19日 -アメリカ大統領、マッキンリーはマハリカの軍事占領を進めることを財務省の秘書に命じた。それは、フィリピン人に対するアメリカの一方的な戦争宣言だった。
5月22日 - アグスティンはアギナルドに接触、彼にマハリカ軍のチーフの地位を打診。アギナルドはそれを拒絶。
6月2日 - カビテの900人のスペイン軍は一般トリアス将軍に降伏した。
6月8日 -マドリードの政府はフィリピン人にではなく、アメリカ人に降伏するようオーガスティンに指示した。
6月9日 -アギナルドはパンパンガで800人のスペイン軍を負かしたので、降伏するようオーガスティンに命じた。
6月10日 -カルンピットでスペイン軍は革命軍に負ける。
6月12日 -フィリピンの独立宣言がカウィット・カビテで公共の場で読み上げられた。
6月16日 -米国務長官がプラット・シンガポール米領事を叱責。領事のフレンドリーな対応がアギナルドを意図せずに強化したという内容だった。
6月23日 -アギナルドは宣言時に「独裁政府」から「革命政府」に名前を変更。
6月25日 -ザンバレスが革命軍に陥落。
7月1日 -米国の最初の陸軍がカビテに到着
7月2日 -ミンドロ島のスペイン軍は革命軍に敗北。
7月7日 -アギナルドは再び降伏するようオーガスティンに促した。
7月10日 -スペインはターラックのジェネラル・マカブロスで降伏。
7月1日 -アギナルドは革命政府の存在をデューイ(米国)を知らせた。
7月20日 - マリアーノ・ノリエル将軍の軍隊は、マニラの城塞都市(イントラムロス)の包囲を作るスペイン軍に直面。
7月22日 -スペイン、アメリカとの和平交渉。
7月22日 ダグパンでスペイン軍降伏。
7月23日 パンガシナンでスペイン軍降伏。
7月31日 ヌエバ・エシハでスペイン軍降伏。
8月6日 -アギナルドは革命政府の存在を外国政府に通知。
8月10日 -米国、スペインとの戦闘を終了するプロトコルを起草。
8月12日 平和のためプロトコルは、正式にマッキンリーの存在下で調印された。
8月13日 -デューイがマニラを砲撃。マニラ市(イントラムロス)、マニラ湾とマニラの港をデューイと470人の職員および10437人の兵士が占領した。革命軍の包囲位置は、もはやスペインではなく、米軍に直面した形になった。
8月14日 - 新たな軍事知事アメリカ・メリット将軍は、アメリカはマニラを軍事的占領し、新政府を発足したと発表した。それはアメリカのルールに従わなければならないことを意味した。アギナルドは、それより早い時期に、シンガポールのプラット、香港のワイルドマン、マニラのウィリアムズの3人のアメリカ領事と評議会で決められたデ・ファクト同盟はマッキンリーによって一方的に否認された。
8月21日 -新しい米国司令オーティスが、より多くの軍隊でマニラに到着。
8月2日 -タヤバスが革命軍に落ちた。
8月30日 - 米国少将グリーンはフィリピン人の革命軍が完全にマニラを包囲していると報告した。
8月 米国による諸島の占領を予想して、アギナルドはマロロスで革命軍議会を開く彼の計画を知らせた。
8月 - リサール将軍はラグナでスペイン権力と守備隊を取った。
9月3日 - オーティス将軍は、要求が満たされていない場合は敵対行為とみなし、アギナルドの軍隊によるマニラ包囲の撤退を要求した。それは傲慢な要求で暗黙の戦争宣言だった。
9月14日 ヌエバ・ビスカヤで、スペインはフィリピン軍に降伏した。
9月15日 -アギナルドは包囲を撤回し、カビテのバコールからブラカンのマロロスに首都を移した。
10月1日 -スペインおよび米国の代表は、スペインの降伏と条約の条項を議論するためにパリで会議。
10月25日 -アギナルドは士官学校の設立を命じた。
10月26日 -米国マッキンリーはアメリカ代表にスペインが正式にマハリカ全土をアメリカに譲渡するようパリでスペインとの平和条約の交渉を命じた。それより前に、バチカンは、修道士の主張(修道士の土地)を認識するようにマッキンリーを説得するためにアメリカに特別な教皇使節を送った。
11月2日 パリで米国代表はマハリカ譲渡の見返りとしてスペインへ2千万米ドル(20,000,000.00)を支払うことを申し出た。
12月10日 パリ条約が調印された。
12月21日 -マッキンリーはマニラの占領と征服は列島全体まで拡大したことを発表。
12月27日 - アントニオルナ将軍はミンドロ、マリンドゥケ、マスバテ、ティカオ、ロンブロン、バタネスとバブヤネス諸島を含むルソンの全体がすべての革命政府下になったことを報告。
1899年
1月21日 -最初に米国ネブラスカ政府は、マニラからサンファンのサンミゲル大佐の部隊のあるサンタメサに移動。
2月2日 -アギナルドは新共和国を宣言し、憲法を公布
-土曜の夜、米国と革命軍との間で戦争が勃発した。ワシントンは、フィリピン軍が先に発砲したことを発表。これは、下記3つ証言と矛盾した。
(1)英国、シェリダッドはその日マロロスにいて、のちの彼は報告によると。
「これはマニラ市民では有名で、アメリカ人も認めたことだが、最初の発砲はアメリカ側によるもので、アメリカ人がマニラの住民、男性、女性と子供の大多数が殺された。」
(2)フランス語ジャーナリスト、アンリ・トゥロットは言った。
「もちろんアメリカ人はアギナルドの方から発砲したと主張した。しかし、後にそれはアメリカの歩哨であったことを認めた。」
(3)グレイソン上等兵は言った。
「私は静止を呼びかけた。すると彼も同時に静止を呼びかけた。その時、発砲し、彼は倒れた。すると15フィーとほど先にある門に2人のフィリピン人見えたので静止を呼びかけたが、ミラーがそのうちの一人を撃ち殺した。たぶん、その直後に自分がもう一人を撃った。そして他の6名の部隊のみんなのところに戻って、このあたりに”ニガー”がうろついてることをを伝えた。」
2月5日 日曜日、午前4時、米国巡洋艦チャールストンは革命軍の位置を砲撃。その朝、サンタアナは砲撃され、パコは倒壊した。海軍の爆撃はカローカン、ナボタス、タンボボン、サンペドロ・デ・マカティ、グアダルーペ、パシグとサントラんを廃墟にした。マカティ、マンダルヨンとサンファンが壊滅され。何千人が死亡した。
2月6日 米上院は、パリ条約の批准を可決した。前日の上院では、フィリピンがアメリカとの戦争を始めたことが公表された。スペインとの条約はフィリピンとの戦いのためのマッキンリーにゴーシグナルとなり批准された。
2月11日 U.S.軍艦は砲撃を開始し、イロイロを燃やした。
2月21日U.S.砲艦、ペトレルはセブに上陸し、降伏の最後通告を与えた。次の日、アメリカ国旗がセブに掲揚された。
3月31日マロロスも米軍に落ちた。アギナルドは脱出し、すべての町に秘密結社カティプナンを復活させた。
12月 - 2月以来、200キロを前進するためにアメリカは10ヶ月を要した。性能が劣った銃を持ったフィリピン人は米軍に抵抗を与えた。
1900年
10月17日 アメリカの4将軍:マックアーサー、ロートン、ヤング、ウィートンとベル大佐はアギナルドを追って、逮捕する命令を与えられた。
12月 マハリカのアメリカ軍の兵力は74,094将兵に達した。
1901年
3月23日 パンパンガの反逆勢力マカベベスの援助で、米軍はタヤガスのカシグランでアギナルドを捕獲した。後継者がない状況で、戦地のアギナルドの各将軍は、ゲリラ戦法で米軍と戦った。カティプナンは支援グループとして非常に活発になった。戦闘はゲリラに残っていた。カティプナンは幹部を集め、ゲリラに食糧、避難所や衣類を与え、共和国に忠誠を捧げた。
最終的にルソン島で生き残った将軍はサンミゲル、ルクバン、マルバーの3人だった。
7月4日 -ウイリアム・タフトが市民知事として就任した。
9月6日 -マッキンリーは米国で銃撃され、その傷が原因で9月14日に死亡した。(暗殺された)
1902年
4月16日 マルバー将軍はアメリカに降伏した。保護ゾーンと呼ばれる強制収容所があった。これは庶民がマルバー将軍に援助を与えることを防ぐために、ゾーンの周辺にある家を燃やした後、この強制収容所に30万フィリピンの民間人を収容した場所で、ベル将軍率いる4000人の部隊がマルバーを追い詰めた。マルバーは強制収容所で虐待されていた男性、女性、子供たちを解放するために降伏した。
7月4日 マルバー将軍およびルクバン将軍の捕獲後、新しいアメリカの大統領、セオドア·ルーズベルトは、完全な平和を宣言し、恩赦を提供した。セブのクリマコ将軍、マキシヘロン将軍は11月に降伏し、ボホールのサムソン将軍は12月に降伏した。
10月1日 -タフトは”戦争ではなく”フィリピン人の暴動は終わったことを報告した。彼は米国の侵略と戦うために命を捧げたフィリピンの愛国者をマハリカの無法者、強盗、殺人や強盗と呼んだ。
1903年
3月27日 最後のフィリピン将軍、サンミゲル将軍は戦闘で死亡した。彼の部下は、米国占領軍に対するゲリラ戦を続けた。アルバイのオア大佐と数百人の兵士は ビコラノスの何千もの兵士が8ヶ月間保護ゾーンに入れられた後に捕まった。投獄されたゲリラは恐ろしい刑務所にいた7月の間に死亡した。たった一人だけ、刑務所の試練を生き延びた。
11月14日 パングリマ・ハッサン、ホロの首領は、4000の戦士でメジャー・レナード・ウッドで戦った。ハッサンは、捕獲され、その部下の500が死亡したが、彼は後に彼の部下に救出された。戦いは1904年3月まで継続し、ハッサンが殺された時、彼の戦士は2名のみだった。
YEAR 1905
10月 アッパーコタバトのダトゥ・アリが殺された。米軍は、4000~5000人を収容できる駐屯地を取った。それは、米軍によるモロ戦争の作戦と考えられる。ラクサマナ、スールー、レナードウッド、ダトゥ・ウサップで虐殺され、たったの7名が生き残り降伏した。
1906年
3月6日 ホロ近くの死火山の頂上に600のタオスッグ族の男女、子供達が米国の命令や税金に抵抗し、自分の家を残して集まっていた。そこにパンパンガからの砲撃と790人の兵士に襲われ、タオソッグ族は全員虐殺された。 ミンダナオの指揮官でイスラム教徒に対する米国攻撃のコメントとして、コーパスは語った。 "しかし、モロは戦いに勝つために彼らの戦士、女性や子供、食品や武器を集めてのではない。彼らは、単に孤立して引きこもっていた。彼らは侵略者の定めた税金を支払い、彼らの法律が及ぶことを望んでいないし、アメリカ人は自分たちの宗教を尊重するはずがないと信じていた。だから、彼らは自分たちの生活様式を維持したかったけど。彼らの一人でも残された場合、おそらく渋々、不満を抱え、恨みを持っただろう。彼らははじめから攻撃され戦い、死ぬつもりでいたのだ。”
6月 フアンとバシリオ・カベロはレイテ島の町を攻撃した。彼らは彼らを倒すために5つの米軍大隊を必要とした。
9月 バタンガスとカビテで多くの町が前年中に「保護ゾーン」になった後、もう一つのゲリラ指導者、マカリオ・サカイ彼と他の幹部が降伏した。彼らは犯罪者のように有罪判決を受け処刑された。その年のうちに、ルソン、ビサヤとミンダナオのフィリピン人の抵抗勢力は壊滅され、新しいフィリピン共和国を砕いた。戦争はついに終わった。

銃を手にしたフィリピン人愛国者は銀の大皿に乗せてこの国をアメリカ人に与えなかった。フィリピンーアメリカ戦争は8年続いた。 アメリカのとって、マハリカが外国で血を流した最初の国だった。アメリカ人が百年前のこの国で彼らの食欲を満たした後、韓国、ベトナム、アフガニスタンやイラクで同じことを行った。
1907年10月16日、タフトは国防長官として、マハリカでの就任式のために戻ってきた。
結局、何だったのかというと、スペインは2000万ドルを受け取り満足し、しかも、途中でアメリカが介入してきたおかげで、茶色の肌のインディオに負けたという汚名を着ることなく、なんとか面子を保った。
そして、スペインのローマカトリックの修道士は、盗んだ土地を返還するだけなのに、フィリピン人の金から、7,543,000ドルを受け取っているため、修道士は何も失わず幸せだった。
アメリカ人は、新たな植民地を獲得した。
フィリピンはキューバよりも多くの価値があった。
アメリカはフィリピンにとって、二度目の植民地時代の主人となった。
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【マハリカ国(フィリピン)の歴史③ フィリピンは自分のものだと主張する男】 (02/23)
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