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【日本が植民地化されなかた理由 忘れられた日本の宗教戦争】 (03/12)

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raptさんがまだなんで、高度自給自足時代の夜明け 【先進国の未来像】さんの、名無し先生関係、先やっときますかね。

【日本が植民地化されなかた理由 忘れられた日本の宗教戦争】 (03/12)

http://jfcoach.blog49.fc2.com/blog-entry-304.html
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こんにちは、今回は日本の仏教について

私たち日本人は、十字軍に代表される、外国のキリスト教とイスラム教の戦争があり、それが今でも続いているという事実を知り、ちょっと馬鹿馬鹿しいと思うことがあります。

宗教は本来、平和な人間を形成する目的で存在していると思っているからです。

それが現実は異なる宗教の信者同士がお互いを殺しあうなんて、本末転倒。

前回の記事の田中角栄が、池田大作を「ありゃ法華経を唱えるヒトラーだ」などと評していたらしいです(笑)。

いわゆる宗教戦争ですね。

名無し先生から、寺社仏閣が国内タックスヘブンに成っていて、戸籍を持たぬ奴らの根城に成っていると教わるまでは、大した疑問も抱かずに神社で手を合わせたものです。

私はWikipediaで”日本”、”宗教戦争”というキーワードで探しましたが、欧州の宗教戦争しかヒットしませんでした。

キーワードを変えてようやく納得のいく記事がヒットしました。

日本にはものすごい宗教戦争があり、それは西洋のそれと劣らない。

日本の宗教団体はバチカンのように、神社・仏閣が武装勢力の要塞となり、武器はもちろん城壁まで有していたのです。

また、信長、秀吉の時代、日本に宣教師として滞在し、日本史を書いたポルトガルのルイス・フロイスは・・・

「日本では比丘尼(びくに)の僧院はほとんど淫売婦の町になっている」と書いています。

(Wikipediaより)

寺社勢力(じしゃせいりょく)とは社寺勢力(しゃじせいりょく)とも呼ばれ、日本中世において、武家政権・朝廷とともに権力を三分した、大寺院・神社(当時は神仏習合のために一体)による軍事・行政・経済・文化パワーである。

武家政権や朝廷のように権力中枢があったわけではなく、各寺社が独立して行動し、また一寺社内でもさまざまな集団がせめぎ合っていたため、「勢力」と呼ぶ。

平安時代末期から、延暦寺、興福寺などの大寺社は僧兵を抱えて独自の武力を備え、また神輿を担いで強訴を行い、自身の要求を主張するようになった。

また、衆徒・神人とよばれる俗人を多数配下において大人口を誇り、経済・学問・工芸活動などが盛んだった寺社周辺は、近年の日本歴史学で「境内都市」と呼ばれる一大メガロポリスであった。

延暦寺は、配下においていた祇園社が京の鴨川の東側に大きな境内(領地)を持っていたこと、興福寺は大和国一国の荘園のほとんどを領して中世を通してその経済力で京に大きな支配力を及ぼした。

強大な寺社勢力である延暦寺と興福寺を合わせて「南都北嶺」(なんとほくれい)と称された。

また、大寺社内は「無縁所」とよばれる地域であり、生活に困窮した庶民が多く移民し、寺社領地内に吸収された。

また、幕府が罪人を捜査する「検断権」も大寺社内には及ばず、そのため源義経や後醍醐天皇など、戦乱に追われた人々の多くが寺社にかくまわれた。

戦国時代末期において、織田信長、豊臣秀吉などは寺社勢力と激しく敵対し、苛烈な戦いを繰り広げた。

だがその一方で、安土城の築城に延暦寺の職人を利用したり、根来寺の鉄砲を戦争に利用するなど、寺社勢力の高い技術力を活用もした。

秀吉の刀狩令は、百姓等のみならず寺社勢力の武器没収も意味しており、この結果として約五百年間続いた寺社勢力は日本の権力構造から消えることとなった。

(Wikipediaおわり)



しかもその歴史はかなり古く、5~6世紀の物部氏は、元々は兵器の製造・管理を主に管掌していましたが、しだいに大伴氏と並ぶ有力軍事氏族へと成長していきました。

古くは物部氏、天地百八十神を祭る多神教、神社の勢力、仏教反対派、排仏派ですね。

それと対立したのが蘇我氏ですね。

物部氏は大連という、天皇の補佐をする、現在でいう、総理大臣みたいなものだったのでしょうか?

他に大臣というのが存在したので、ちょっとちがう、天皇と直結した存在。

大連の物部尾輿と、連の位中臣鎌子とともに廃仏を主張し、崇仏派(仏教推進派)の蘇我稲目と対立しました。

対立した蘇我稲目は、大陸ではみな仏教であり、日本だけが遅れていると訴えました。

これに対して大連の物部尾輿と連の中臣鎌子は

「わが国の王は天地百八十神を祭っています。蕃神を礼拝すれば国神の怒りをまねくでしょう」と反対。

天皇は稲目に仏像を授けて試みに礼拝することを許すのですが、その後、疫病が起こり、死者が多く出ます。

物部尾輿と中臣鎌子は蕃神礼拝のためだとして、仏像の廃棄を奏上し、天皇はこれを許し、仏像は難波の堀江に流され、伽藍は燃やされました。

仏教受容問題に権力闘争が重なり、蘇我氏と物部氏は激しく争い、この争いは子の蘇我馬子、物部守屋の代まで引き継がれました。

もちろん疫病はそんなことと関係なく広がり続けます。

日本の権力者は、疫病そっちのけだったかどうかはわかりませんが、とにかく蘇我氏と物部氏の権力争いは続きます。

結果的に、蘇我氏は物部氏に勝利し、政権は蘇我氏の一極体制となりました。

そして、大化の改新で知られる、乙巳の変によって、蘇我入鹿が殺害され、蘇我氏宗本家は滅亡。

しかし、クーデターには、傍流の蘇我倉麻呂の子である蘇我倉山田石川麻呂も、中大兄皇子の協力者として関わっていました。

他の弟である蘇我赤兄と蘇我連子は、天智天皇の時代に大臣に任じられており、蘇我氏は一定の地位を保持しています。

蘇我系石川氏は、飛鳥時代末期から奈良時代に、その血を引いた天皇(持統天皇と元明天皇)を輩出。

蘇我氏の血統は、藤原不比等に嫁いで武智麻呂、房前、宇合の三男を儲けた蘇我娼子を通して現代にも伝わっています。

他に蘇我氏の血を残したのは、蘇我稲目の娘である蘇我堅塩媛のみで、その系統は蘇我堅塩媛 ― 桜井皇子 ― 吉備姫王 ― 皇極天皇 ― 天智天皇 ― (以後歴代天皇)。

蘇我氏はもちろん渡来人です。

だって、イスラエル10氏族 VS イスラエル2氏族 = 北朝 VS 南朝ですから。


さて、6世紀ごろの神道VS仏教の対決に始まり、日本の宗教戦争はその後も続きます。

しかし、神道と仏教は、神仏習合といって、一つになります。

日本土着の神祇信仰と仏教信仰が混淆し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教になり、神道も仏教も大差無く、ほぼ同化した。

これは、異なった時代に日本に来た渡来人たちが手打ちをしたということでしょう。

(Wikipediaより)

神宮寺の建立

宇佐神宮が朝鮮半島の土俗的な仏教の影響の下、6世紀末には既に神宮寺を建立したとされているが、一般的にはそれより後、日本人が、仏は日本の神とは違う性質を持つと理解するにつれ、仏のもとに神道の神を迷える衆生の一種と位置づけ、日本の神々も人間と同じように苦しみから逃れる事を願い、仏の救済を求め解脱を欲していると認識されるようになったとされている。これを神身離脱という。

715年(霊亀元年)には越前国気比大神の託宣により神宮寺が建立されるなど、奈良時代初頭から国家レベルの神社において神宮寺を建立する動きが出始め、満願禅師らによる鹿島神宮、賀茂神社、伊勢神宮などで境内外を問わず神宮寺が併設された。

また、宇佐八幡神のように神体が菩薩形をとる神(僧形八幡神)も現れた。奈良時代後半になると、伊勢桑名郡にある現地豪族の氏神である多度大神が、神の身を捨てて仏道の修行をしたいと託宣するなど、神宮寺建立の動きは地方の神社にまで広がり、若狭国若狭彦大神や近江国奥津島大神など、他の諸国の神も8世紀後半から9世紀前半にかけて、仏道に帰依する意思を示すようになった。こうして苦悩する神を救済するため、神社の傍らに寺が建てられ神宮寺となり、神前で読経がなされるようになった。

(Wikipediaおわり)


さて、客家人はいつから日本に来ていましたか?

渡来の時期はそれぞれ異なりますが、2000年近く前から日本に来ています。

シルクロードがいつ頃から有ったのかは不明ですが、シルクロード経由で中国に定住し、日本に渡来したことは間違い無いでしょう。

海がありますから、それを渡るための比較的長い段取り期間があったはずですから。

寺社仏閣の軍事力がどんどん拡大し、織田信長の時代に焼き討ちを食らうまで武家の脅威となっていました。

当時の宗教団体はそれぞれ領土を持っており、年貢や通行税を徴収していました。

比叡山の僧兵と武将でなる20万人以上の僧兵や兵士が、京都の法華宗寺院本山を襲撃した史実があります。

その襲撃の際、女、子供も含め数万人が殺された。

この日本宗教戦争を止めたのが織田信長。

信長は比叡山延暦寺を焼き討ち、石山本願寺追い出す。

豊臣秀吉がやった、刀狩りという言葉は、一向一揆を鎮圧させることが目的だったと学校で習った記憶がありますが、これは秀吉以前の時代にもありました。

(Wikipediaより)

刀狩(かたながり、刀狩り)とは、日本の歴史において、武士以外の僧侶や農民などから、武器の所有を放棄させること。鎌倉時代の1228年安貞2年に、第2代執権北条泰時が高野山の僧侶に対して行ったものが、日本史記録上の初見で、後に1242仁治3年には、鎌倉市中内の僧侶とその従者(稚児、中間、寺侍、力者など)に帯刀を禁止する腰刀停止令を出し、違反者の刀剣は没収し大仏に寄付するとした。また1250年建長2年に第5代執権北条時頼は範囲を拡大し、市中の庶民の帯刀と総員の夜間弓矢の所持を禁止した。

(Wikipediaおわり)


武士以外の”僧侶”や農民・・・とあることから、僧侶が武装していたことがわかります。

結果的に信長は本能寺の変で殺されてしまうわけですが、この時、脱出用の地下トンネルを塞いでいたのは、朝廷側の重責を担う秘密機関、カラスか、武家側についていた柳生なのですが、どちらにしても客家人です。

朝廷側は神、武家側は仏。

しかし、記述の通り、神道、仏教が一体化し、どちらも後ろに客家がいる。

イスラエルから出た、ペリシテ人が吐火羅(トハラ)の土地と呼ばれた場所から派生し、中国で客家になり、海を越えて日本では朝廷と武家の両方を裏から操ったカラスです。


下記のWikipedia複数記事抜粋と管理人編集は、世界史が各地で同時進行しているので、全部に触れることは無理なので、イスラエル民族にとっての歴史を中心にまとめました。

(Wikipedia複数記事抜粋と管理人編集)

イスラエル民族を中心にした紀元前の歴史

長らく王政をとらなかったイスラエル王国の最初の王はサウルであった。

サウルが王国建設途上で挫折した後を継いだダビデは、ペリシテ人を撃破するなど軍事遠征を成功させ、近隣王国と友好同盟を結び、イスラエルをその地方の強カな勢力に作り上げた。

その結果、ダビデの権力はエジプトや紅海の境界からユーフラテスの川岸にまで広がっていった。

当時の国際情勢としては、前1200年のカタストロフの影響によって当時の大国であったヒッタイトが滅亡。

(この時点でヒッタイトはアナトリアから姿を消していたが、いわゆる「新ヒッタイト」と呼ばれる数多くのヒッタイト王国群がアナトリアとシリア北部で勃興してきた。

シリアの新ヒッタイト王国群の中で最も顕著なものはカルケミシュおよびメリド(後のマラティヤ付近)にあったものである。

それらはヒッタイト王国の継承者であった。

また、ヒッタイト人はフルリ人と同化していったと考えられている。

これらの新ヒッタイト王国群は、紀元前8世紀にはアッシリアのサルゴン2世の治世の間にカルケミシュが侵略され、更に数十年後にはミリドも侵略されて、次第にアッシリアの支配下に入っていった。)

ソロモン王は、父ダビデが築いた国を継承し、近隣王国と条約を交わし、政略結婚を重ねて自国を強国に育てあげた。

とりわけエジプトに対しては、終始礼を尽くし属国として振る舞い、ファラオの娘を娶ることで良好な関係を築いた。

ソロモン王は外国との交易を広げ、銅の採鉱や金属精錬など大きな事業を進めて国の経済を発展させ、統治システムとしての官僚制度を確立して国内制度の整備を行った。

フェニキアの技術を導入してエルサレムに壮麗な神殿(エルサレム神殿)を建立したことでも有名である。これはユダヤ人の民族生活、宗教、生活の中心となった。

しかし、晩年はユダヤ教以外の信仰を容認するようになり、これがユダヤ教徒の厳格派から偶像崇拝と批判されることで、ユダヤ教徒と他の宗教信者との宗教的対立を誘発。国家分裂の原因の一つにまでなっている。

ソロモン王の長い統治は経済的繁栄と国際的名声をもたらしたが、統一王国という支配体制は一般民衆の不満からほころぶことになった。

紀元前922年ごろのソロモン王の死後、部族間の統制を失った統一イスラエル王国は北王国として知られるイスラエル王国と南王国として知られるユダ王国に分裂した。

イスラエルが分裂した原因は、人々の間での富の偏在を避けることが出来なかったこと、国庫財政の悪化から租税強化や大規模土木工事によって生じる強制労働の重圧を敷いたこと、さらに大規模土木工事等によって生じる利権からの政治腐敗、などがあげられる。

統一イスラエル王国の最大版図は、地中海沿岸のフェニキア人都市国家群を除けば34000平方kmほどで、うち24000平方kmほどがイスラエルの10部族に引き継がれ、残り10000平方kmがユダ王国の2部族に引き継がれた。


(管理人注釈:これが、イスラエル10支族VSイスラエル2支族のはじまりです。)

最初の首都はシケムであったが、後にティルツァをへてサマリアに落ち着いた。サマリアは、北王国がアッシリアの軍靴に踏み潰されるまで首都でありつづけた。

イスラエル王国は分裂直後からアッシリア帝国の猛威に晒され続けた。ヤロブアム2世時代にもっとも繁栄したが、その後は凋落した。

末期には王が相次いで家臣に殺害され、殺害した家臣が王位に就くという下克上的な政情不安が相次ぎ、アッシリアの侵攻は激しさを増していく。

紀元前722年、サルゴン2世の猛攻によって陥落し、19代の王の下に253年にわたって存続した北王国は終焉を迎えた (アッシリア捕囚)。

10支族の民のうち指導者層は連れ去られ、あるいは中東全域に離散した。

歴史の中に消えた彼らはイスラエ
ルの失われた10支族とも呼ばれる。

北王国滅亡後、アッシリアの植民政策により、サマリア地方に多くの非ユダヤ人が植民した。

サマリアには10支族の民のうち虜囚にされなかった人々が多く残っていたが、彼らは指導者層の喪失や、サマリアに来た異民族との通婚によって10支族としてのアイデンティティを喪失した。

サマリアは正統派のユダヤ人から異民族との混血の地として軽侮されることになる。

その後、紀元前647年、スサの戦いで、アッシリアのアッシュールバニパルによってエラムが弱体化。

この結果シュメール時代以来メソポタミアに影響力を振るったエラムはその有力国としての地位を完全に失った。

しかしながら、アッシリアは国内の諸部族の抵抗に悩まされており、スサ占領も長くは続かず、しばらくしてエラム王国は復活した。

ただ最早往時の権勢を示すことはなく、イラン高原の殆どはメディア王国の支配下に置かれ、エラム王国の支配地域はスサを中心とするスシアナ地方に限られた。

この勝利によって、アッシリアの威光はイラン高原にまで広まり、多くの王がアッシリアに貢納を行った。そういった王の中には未だ小国であったアケメネス朝ペルシア王キュロス1世もいた。

しかし、アッシリア帝国の栄光は半世紀も持たずに急激に衰退。

新バビロニアのネブカドネザル2世は、父王の治世中より軍を率いて転戦していた。

紀元前606年、ハランにあったアッシリアの残存勢力を攻撃し、それを助けるべく出兵した大国エジプトの王ネコ2世をカルケミシュの戦いで打ち破った。

更にエジプトの影響下にあるシリアの諸王国を次々と征服して領土を大幅に拡張した。

紀元前605年8月15日父王ナボポラッサルが死去すると急遽バビロンへ帰還して王位を継ぎバビロニア王となった。

彼が王となってすぐにエジプトはシリア地方への介入を再開し、また征服したシリア地方の諸王国でも各地で反乱の火の手があがった。

紀元前597年、新バビロニア王ネブカドネザルはエルサレム市街に入城し、住民のうちもっとも有力な若い者をユダヤ人の王エホヤキムとともに殺害し、約3,000人(『エレミヤ書』によると3,023人)の有力者を捕虜としてバビロンに拉致した(バビロン捕囚)。

紀元前595年には東に転じてエラムを攻撃し、かつて全オリエントを征服して覇を唱えたアッシリア帝国とほぼ同じ領域をエジプトを除き支配下に置いた。

エドムは紀元前587年、ユダ王国滅亡の時、南ユダ王国を裏切ってバビロンに内通し、南ユダの南方に侵入した事で、両国の関係は決定的に悪化し、イスラエルの憎悪の対象となり、繰り返し「呪われよ」と主の裁きと報復が宣告される(ユダ王国は紀元前930年、イスラエル王国が分裂してできた国)。

(この後、エドムは徐々に没落し、紀元前2世紀、東側のナバテア王国の侵略により、ネゲブ地方に退避せざるをえなくなり、そこでイドマヤ王国となった。ヘロデ大王はこの国の出身である。)

バビロン流刑後、紀元前540年、アケメネス朝ペルシャの王ダレイオス1世に占領されてエラムは滅んだが、王宮が置かれて王の道の起点として再び栄えた。

アケメネス朝ペルシアのキュロス2世は、紀元前538年にユダヤの捕囚民を解放し、彼らが故国に戻り国を再建することを許した。キュロス2世は、被征服諸民族に対して寛大であったので、後世に理想的な帝王として仰がれ、ユダヤ人を解放したことから旧約聖書ではメシア(救世主)と呼ばれている。

この解放で4万人が帰還し、エルサレムに神殿が再建されるが、一方でバビロンに留まった捕囚民のコミュニティは、ペルシャの統治の元で繁栄し、重要な地位に昇るものもいた。

ペルシャの宗教はゾロアスター教であるが、他民族にゾロアスター教を強制することはせず、寛容政策をとることが多かった。

ユダヤ人の中にも、エズラ・ネヘミヤ、モルデカイのように、帝国内で高い地位に就く者も現れた。

ユダヤ人がエルサレムに帰還しはじめて80年後の紀元前458年、ペルシア王アルタシャスタの治世第7年目、エズラは王の許可を得てバビロンからエルサレムに赴いた。

王国内のユダヤ人は誰でもこれに同行できたため、12氏族にわたるおよそ5000人の人々が集まった。

紀元前470年ごろアケメネス朝ペルシアのクセルクセス1世=アハシュエロスは后妃ワシュティが反抗的であるためこれを廃し、その代わりとしてユダヤ人の乙女エステルを后妃とする。

その後紀元前446年にペルシャからネヘミヤが総督として派遣され、ユダヤの地を治め、エルサレムの城壁の再建などユダヤ民族の復興に務めた。

エズラは、ユダヤ人社会の宗教と法の掟を統合し、後にユダヤ民族の信仰や生活の基準となるユダヤ教の土台を築いたと言われている。

クセルクセス1世がユダヤ人と婚姻関係を結んでからその後、6人の王が出た後、ペルシアはアレクサンドロス大王によって征服される。

紀元前331年、アレクサンドロス軍47,000は、チグリス川上流のガウガメラで20万とも30万ともいわれたダレイオス3世指揮下のペルシア軍を破った(ガウガメラの戦い)。

ダレイオスがカスピ海東岸に逃れると、ペルシャ王国はもはや風前の灯火となった。

ペルシャ王国の中枢に乱入したマケドニア軍は、バビロンやスーサの主要都市を略奪、ペルセポリスでは一般民衆に対しても凄惨な虐殺と強姦が繰り広げられたうえ徹底的に破壊して焼き払った。

ペルセポリスの徹底した破壊は、ペルシア戦争時にペルシアがアテナイのアクロポリスを焼き払ったことへの復讐の意味もあった。ペルシアの中枢を占領した後も、アレクサンドロス軍はダレイオスを追って進軍を続けた。

アレクサンドロスは、バビロンにおいて帝国をペルシア、マケドニア、ギリシア(コリントス同盟)の3地域に再編し、アレクサンドロスによる同君連合の形をとることにした。また、広大な帝国を円滑に治めるためペルシア人を積極的に登用するなど、ペルシア人とマケドニア人の融和を進めた。

その後、アレキサンドロスは紀元前323年6月10日に死去した。

残された大帝国では協定によって安定化を目指したものの、アンティゴノス、セレウコス、プトレマイオス他の諸将によるディアドコイ戦争を経て分裂した。

紀元前3世紀にアンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトのヘレニズム三王国が出現し、それらは互いに相争っていたもののひとまずはこの三国鼎立の形に落ち着いた。

その後、紀元前168年にアンティゴノス朝が滅ぼされたのを皮切りに西方は順次ローマに併合され、ヘレニズム諸三国はいずれもローマに滅ぼされた。

ギリシアは「ヘレニズム文化」を維持・発展させたが、次第に共和政ローマが東へ進出することで滅ぼされ、ついに紀元前30年、最後のヘレニズム王朝であったプトレマイオス朝エジプトがローマに併合された。

ヘロデ大王はローマと結びついた。

ヘロデ大王の偉業は第二神殿の改築(ヘロデ神殿)、カイサリアの港、マサダ要塞、ヘロディウム要塞(Herodium)などの大建築であった。

特にヘロデ神殿はソロモンを超える規模で行ったエルサレム神殿の大改築であった。

神殿はローマ帝国を含む当時の世界でも評判となり、このヘロデの時代にディアスポラのユダヤ人や非ユダヤ教徒までが神殿に参拝しようとエルサレムをさかんに訪れるようになった。

(管理者:ギリシャ、ローマ帝国、ヘロデに関しての詳細は割愛)


ここにイスラエル民族とギリシャやローマ、さらにそれ以前の歴史の融合が生まれた。

キリスト教はユダヤ教から派生した


(後にキリスト教徒がユダヤ教徒を迫害していくステップなのですが、今回はこれも割愛でお願いします)

ローマでキリスト教は危険な宗教とみられるようになった。

ローマ帝国を通じ、迫害が続いたわけではなく、何度かの迫害の時期と、容認される時期があった。

大きな迫害として知られているのが、1世紀のネロ帝の迫害の時と、4世紀のディオクレティアヌス帝の迫害の時である。

帝政後期には、皇帝崇拝が強要されるようになり、キリストのみを信仰するキリスト教徒はそれを拒否し、激しい迫害を受け、殉教するものも多くなった。

このような迫害にもかかわらず、キリスト教徒はローマ領内の下層民を中心に、カタコンベに隠れて信仰を守り、下層民を中心に広がっていった。

ようやく313年にコンスタンティヌス帝のミラノ勅令によってキリスト教が公認され、ローマ帝国による迫害は終わり、ついに392年にテオドシウス帝によってキリスト教の国教化が行われるに至る。

バチカンの地は古代以来ローマの郊外にあって人の住む地域ではなかったが、キリスト教以前から一種の聖なる地だったと考えられている。

326年にコンスタンティヌス1世によって使徒ペトロの墓所とされたこの地に最初の教会堂が建てられた。

その後、495年、ローマの司教会議において教皇ゲラシウス1世を指して「教皇」という称号が生まれた。

(Wikipedia複数記事抜粋と管理人編集おわり)


さて、ここまで駆け足でイスラエル民族が西洋、ローマ帝国に入り込む過程を見てきました。

スサの王=スサノウ、ヒッタイトの首都ハットウシャ=八頭蛇=ヤマタノオロチの物語が入っています。

これがヤマタノオロチをスサノウが退治した話になるんですが、今回書きたいのはそのことではないんです。

もう読めてきたと思いますが、日本に渡来してきたイスラエルの民族が客家になり、カラスになったのと、ローマ帝国に認められヨーロッパ経由でイエズス会になって日本に入ってきた勢力の元は同じだということです。

だから、日本は植民地化されなかった。

こんな書き方をすると、カラスのおかげで日本は植民地化されなかったと聞こえますが、違います。

日本は、イエズス会が来る前から、もっと悪い奴らに植民地化されていたんです。

それが、日本国内にいた渡来人の三位一体。

共同で日本を支配しようぜ、ということで手打ちできていたわけです。

その勢力が寺社仏閣で植民地支配していたから、さぞイエズス会はびっくりしたことでしょうね。

日本に来た外国人が、家康の時代の日本を見て感じた記録があります。

(Wikipediaより)

16~17世紀のヨーロッパ人も、中国人と同様、日本人の万世一系の皇統とその異例な古さという観念を受け入れた。

『日本書紀』は、神武天皇が帝国を創建した紀元前660年の第一月第一日を王朝の起点とした。聖徳太子は、この日付を初めて定式化した。その日本建国の日付を西暦に計算しなおして紀元前660年としたのは、ヨーロッパ人である。

『ドン・ロドリゴ日本見聞録』に、日本人について以下のように記述している。

彼らのある種の伝承・記録から知られるのは…神武天皇という名の最初の国王が君主制を始め、統治をおこないだしたのは、主キリスト生誕に先立つこと六六三年も前、ローマ創建から八九年後だということである。日本がまことにユニークな点は、ほぼ二二六〇年のあいだ、同じ王家の血統を引く者一〇八世代にもわたってあとを継いできたことである。

当時の天皇は後水尾天皇である。神武天皇に始まる皇統譜によれば、後水尾天皇はまさしく108代目である。

ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンはスペインの貿易商人である。1615年、日本から以下のように報告している。

彼らのもろもろの文書やきわめて古い書物は、最初の日本国王である神武天皇がその治世を始めたのは二二七〇年以上も昔だと明言している。

— ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロン、(日本からの報告)

ここでも日本建国を紀元前660年としている。

エンゲルベルト・ケンペルは長崎の出島のオランダ商館に勤務したドイツ人医師である。『日本誌』で以下のように説明している。

エンゲルベルト・ケンペル

”宗教的世襲皇帝”の王朝は、キリスト以前の六六〇年がその始まりである。…この年からキリスト紀元一六九三年にいたるあいだ、すべて同じ一族に属する一一四人の皇帝たちがあいついで日本の帝位についた。彼らは、日本人の国のもっとも神聖な創建者である「テンショウダイシン」(天照大神、あまてらすおおみかみ)の一族の最古の分枝であり、彼の最初に生まれた皇子の直系である等々のことを、きわめて誇りに思っている。

エンゲルベルト・ケンペル、『日本誌』

さらに、歴代天皇の名前と略伝を日本語文献のとおりに列記している。

江戸時代、尊皇家は天皇への尊崇と支持を高めるため、皇室の大変な古さと不変性を強調した。

(Wikipedia以上)

上記のような驚きを持って、日本を紹介しました。

この日本人の万世一系の皇統が、まさしく、イスラエル出自の先客、客家=寺社仏閣だったのです。

イエズス会と寺社仏閣は対立していたのですが、バックは一緒。

本人たちも知らない。

イエズス会がもたらした火薬、鉄砲等の武器、珍しい品々は確かに興味深かった。

しかし、キリシタン=イエズス会を追い出した理由は、彼らが日本をフィリピンのように支配しようとした。

だから、お前ら今更来て、何言ってんだよ、といってお役御免になったんです。

信長も秀吉も、イエズス会を排除しなかった。

このままだと、フィリピンのように、イエズス会が幅をきかせる国になってしまう。

そういう危機感があり、もっと早く日本に来ていた渡来人=寺社仏閣は彼らを排除した。

その頃、家康はすでに新しい時代のベルファシと通じていた。

それで、あとは新しいフリーメイソンに任せてください。ということです。

それも本人たちは知らない。

カラスは若いうちにスペインのイエズス会に留学し、フリーメイソンは敵だと教わる。

一方、フリーメイソンは、カソリックの腐敗を暴いたプロテスタントなんだと教わる。

こういう風に、説明するだけで大変な労力を要するほど、ベルファシは巧妙なんです。

日本の宗教は多神教ですが、偶像崇拝主義で、拝火主義(護摩を炊く等)です。

仏像を祀って、手を合わせる。

これは立派な偶像崇拝。

多神教のようでいて一神教。

仏像は釈迦の像にはじまり、如来・菩薩・明王・天部など、さまざまな礼拝対象があります。

しまいには、それが細かい宗派に分かれて、弘法大師やら、立正大師やら、徳川家康までが、崇拝の対象になっています。

仏教とは、そもそも、「無の境地」にたどり着くことを教えています。

「無の境地」=雑念を排除し、完全にものに執着しなくなった心持ちのことです。

それが何ですか?

武装して争いを繰り返し、死後は祀られるんですか?

どこが「無」なんでしょうか?

まさしく「欲の塊」ですよ。

神道にしても同じです。

特に明治維新以降、第二次世界大戦終結までの国家神道は国家が神を引っ張り出して、軍国主義に向かうという、とんでもない時代。

そこから山岳信仰系 - 実行教・御嶽教など、霊示系(創唱宗教) -黒住教・金光教・天理教(正確には天理教は政府の弾圧を避けるために教派神道となり現在は諸派に分類されている)・大本など、大本系新興宗教 -生長の家・世界救世教・白光真宏会など、救世教系新興宗教(所謂「手かざし」系) -世界真光文明教団・崇教真光・ス光光波世界神団・神慈秀明会などの新興宗教が出てくるわけです。

これらは神を利用した営利団体であり、そもそも、神道にせよ、仏教にせよ、金がなければ何もできません。

それが実権を握るために軍事力をつける。

日本で昔から行われてきた支配構造の一つです。

間違わないでいただきたいのは、私は神道、仏教の教えを批判しているのでは無いということ。

有名な文言に色即是空、空即是色という言葉。

色=物質・精神・肉体を含むあらゆる物質や現象は、実は存在せず、無いと思ったものが存在するのだ、ということです。

私の勝手な解釈ですが、人間は所詮、死んで無になるのだから、現世での欲を果たして金持ちになっても、それはタダの夢、無になり、一方、”無”である思いは、それがやがて実態を形成する。

この考え方はすごく道徳的でかつ、科学的だと感じるのです。

現実的な話だと思います。

神道も、私は住んだ家から引越しするときは必ず、家にお礼をしますし、山に行くと、神様がいると感じます。

ですので、両方とも、普通に尊重しています。

しかしながら、それを持ち出したり、利用したりして、権力を維持することは本末転倒だと申し上げたいのです。




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