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本当の自由とは。本当の幸福とは。悪魔の作った偽物の宗教に騙されないために幾つか知っておくべきこと

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今日は、新車のナビの学習CD録音消去作業で、ネットも断続的ですが。
raptさんも復活してますね。


本当の自由とは。本当の幸福とは。悪魔の作った偽物の宗教に騙されないために幾つか知っておくべきこと。

http://rapt-neo.com/?p=24624
18.04.56
昨日は記事を更新することができず、妨害工作にでも遭っているのではないかと一部の方々にご心配をおかけしてしまったようで、大変申し訳ございませんでした。  
 
考えてみると、このブログを本格的に書きはじめた昨年の五月以降、ロリポップにアクセス制限をかけられたとき以外、ブログの更新を休んだことは一日もありませんでしたが、実はこれはかなり奇跡に近いことだったのだということを、昨日はつくづく実感しました。
 
これまでは、どんなに忙しい日も記事を書く時間だけは確保できましたし、体調があまり良くない日も無理して記事を書いたりしていたのですが、昨日はパソコンに向かう時間すら確保することが全くできませんでした。
 
一応、私の記事がどんどん裏社会の核心に迫っているので、裏社会の人たちもそんな実情を見てハラハラし、必死になって私を「呪殺」しようとしているかも知れませんし、その呪いの効果もあって、昨日は私もそんな状況に追い込まれたのかも知れません。
 
しかし私は、その悪魔よりも遙かに上の存在である神様にお祈りしていますので、そんな「呪い」の効果など一時的なものでしょうし、いずれその「呪い」は彼ら自身の頭上に何倍にもなって跳ね返っていくことでしょう。
 
ですから、彼らが私のことを呪えば呪うほど彼ら自身の首を絞めるようなものです。まあ、せいぜい頑張って自分の首をお絞めください。
 
ということで、今日はまた久しぶりにちょっと箸休めさせていただきます。
 
正直なところ、こうして裏社会の内幕を知れば知るほど、彼らの余りに汚いドロドロとした実態がはっきりと見えるようになって、さすがの私にも刺激が強すぎるというか、ショックが強すぎるというか、とにかく自分でも記事を書きながら、うんざりしてくることが多々あります。
 
特に「チベット仏教」や「密教」の教理を知ったときは、唖然・愕然とすると同時に、余りの気味の悪さに頭がおかしくなりそうな気分でした。きっと皆さんの中にもそういう方が大勢いらっしゃたのではないでしょうか。
 
なのに、裏社会の連中はそれを毎日のように実践しているわけですから、彼らの心や考えがどれほど腐りきっているかは容易に想像がつくというものです。
 
もっとも、彼らはその心の汚れが人目につかないように、必死で外見を着飾って生きているわけですが、腐ったリンゴをいくら人目に付かないところに隠したところで、その臭いをごまかすことができません。
 
それと同じく、人の心の汚れもどんなに隠したところで、いずれ誰かにバレてしまいます。実際に今や多くの人々が、この世の政治も経済も文化も芸術もすべて腐りきっていることに気付きつつあります。
 
ですから、悪魔崇拝者たちがいくら自分の外見をきれいに着飾ったところで全くの無意味です。いずれ彼らの心の汚れはすべての人の目につくようになるでしょう。
 
しかしながら、悪魔崇拝者どもは二度と仲間を裏切ることもできないし、普段から淫乱・邪悪な儀式をすることが習慣になっているので、その儀式を行わないことには気が済まないのでしょう。だから、やめたくてもやめられないのです。
 
悪魔崇拝では、人肉や人糞を食べたり、同性愛をしたりと、普通に考えたら気持ちの悪いことばかり行うわけですから、最初は誰しもイヤイヤ悪魔崇拝を行うはずですが、何度もそういった行為を繰り返しているうちに、いずれそれが癖になってやめられなくなってしまうわけです。
 
これはもはやアルコール中毒やギャンブル中毒の患者と全く同じです。彼ら中毒患者はアルコールやギャンブルをやることが癖になり、それをやらないとどんどんストレスが溜まってしまうわけですが、その一方で、アルコールやギャンブルをやる度に自分が嫌になるので、それはそれで余計にストレスが溜まります。
 
つまり、一度何かの中毒になってしまうと、精神的にどんどんおかしくなってしまうばかりなのです。彼らはそんな自己矛盾に延々と苦しみつづけなければならないのです。それはもはや地獄のような苦痛ではないでしょうか。
 
しかも、悪魔崇拝者たちは今でもせっせと自分の仲間を作ろうとしています。それが何よりも恐ろしいところです。
 
彼らは先ずキリスト教やら仏教やら神道を看板にして宗教団体を作り、その信者を増やします。
 
そして、その信者の中から特に教祖に忠実な人を選んで、これこそが「秘密の奥義」だと言ってその人に「悪魔崇拝」を教え、自分と同じような悪魔崇拝者へと作り変えていくわけです。
 
しかしこの世の中には、そうとも知らずに某かの宗教団体に入り、何か変だなとは思いつつも、その宗教から抜け出すのは不安だからといって、その宗教を信じつづける人たちが今でも大勢います。しかし、そんな宗教をいくら熱心に信じたところで、人生がよくなるはずがありませんので、いずれその宗教に嫌気がさしていきます。
 
そのためでしょうか。ここ最近は、私のところにも「自分の信じている宗教は大丈夫なのでしょうか」といったメールを送ってくる方が何人かいらっしゃいます。しかし、私も全ての宗教団体を詳しく把握しているわけではないので、そういった方にはおおよそ次のように返答することにしています。
 
「その宗教を信じることで自分の徳が高くなったと少しでも感じるなら、その宗教は本物です。しかし、そう感じられなければ、その宗教は偽物です。」
 
カルトと呼ばれる宗教の大半は「奇跡」を売りにします。かのオウム真理教も、麻原彰晃が宙を浮いたことを大々的に宣伝しながら信者を集めていました。バチカンとて同じです。彼らも様々な「奇跡」を演じて見せながら、多くの信者を獲得しようとしてきました。
 
中にはそれらの奇跡を信じられず、そのトリックを見破ろうとする人も大勢いますが、そんなことを調査・研究するだけ時間の無駄です。それが本物の奇跡かどうかが重要な問題ではないからです。
 
そんなことよりも、その宗教の教えによって自分自身の徳が高くなるかどうかがより大きな問題なのです。
 
宗教を信じる目的は、奇跡を起こすことではありません。幸福になることでもありません。まして、自分の願いを叶えることでもなければ、自分の悩みを解消することでもありません。
 
はっきり言って、自分の徳を高めさえすれば、自然と幸福になれるし、自然と自分の願いも叶えられるし、自然と自分の悩みも解消することができます。
 
しかし、人々はそこのところがよく分かっていません。そのため、先ず最初に幸福を手に入れようとし、欲望を満たそうとし、悩みを解消しようとしますが、そんなことだから、いつまで経ってもかえって何も得られずに苦しみつづけることになるのです。
 
では、徳を高めるとはどういうことなのか。一言で言うなら、それは「完全な人になる」ということです。
 
人の心は「知・情・意」から成り立っていると一般的には言われています。「知」とは「知識・学問」のこと、「情」とは「人情・感情」のこと、「意」とは「意志・倫理」のことを指しています。
 
こういったものを育て伸ばしていくこと、そして完全にしていくこと、それが「完全な人になる」ということです。
 
もっとも、この世の中で「完全な人になる」のはとても難しいものです。この世の中が余りに邪悪なので、自分一人だけ完全になろうとしても、実に様々な壁にぶつかってしまうからです。ときに自分を作るなど不可能だと思えることもあります。
 
しかも、この世のほとんどの人たちが「人間が完全になれるわけがない」と言います。キリスト教の牧師の中にすら平気でそんなことを言ってくる人がいます。「あなたが完全でなくても神様はあなたのことを愛しておられる」などと言ってその場限りの気休めを言ってくるわけです。聖書にははっきりと「完全な人になりなさい」と書かれてあるというのに。(マタイによる福音書5章48節)
 
もちろん、神様は私たち人類のことを基本的には愛してくれています。それは確かな事実です。しかし、本当に神様に愛されるためには、やはり人間がそれなりの努力をしなければなりません。
 
例えば、ある親に二人の子供がいて、そのうちの一人は自分を伸ばそうと努力もせず、毎日のように遊びほうけて生きていて、もう一人は勉学に励み、自分を磨こうと懸命に努力していたとします。果たしてその親はどちらの子供をより愛するでしょうか。
 
答えは明白です。後者をより愛し、その子の願いをもっと聞いてあげようとするはずです。
 
神様もこれと同じです。ある人が自分を完全に作ろうと努力するならば、神様はその人のことをより愛し、その人のためにもっと何かをしてあげようとします。
 
しかし、悪魔どもは巧妙にこの宗教の本質をすり替えてしまいました。彼らは先ず人々の前で「奇跡」を起こして、その「奇跡」を売り物にして宗教を信じさせようとします。あなたが善い行いをしようとしまいと、この宗教を信じれば何かいいことがあるよ、幸福になれるよ、といって宣伝するわけです。
 
そのため、この世のほとんどの宗教は、どんなに熱心に信じても、本物の善人を生み出すことができません。
 
この世の中には実に多くの宗教が氾濫していますから、本当ならマザー・テレサのような聖人がもっと数多く出てきても良さそうなものですが、現実にはそうなっていません。
 
それがなぜかといえば、この世の宗教の大半が腐りきっているからです。この世のほとんどの宗教の中枢に悪魔を拝む連中がいて、宗教の本来の目的をねじ曲げてしまっているからです。だから、この世の宗教のほとんどが完全な善人を生み出すことができないのです。
 
善人を生み出せない宗教、完全な人を生み出せない宗教に、果たして何の存在意義があるというのでしょうか。
 
私個人としては、自分を完全に作ってくれる人、自分を完全につくれる教えを説いてくれる人でない限り、むやみやたらと敬ったり、崇めたりすることはありません。ましてその人の後をついていくようなこともしません。
 
この世では「天皇」や「ローマ法王」が最も偉いということになっているようですが、「天皇」も「ローマ法王」も私を完全な人間に作ってはくれません。彼らがそのような教えを説くこともありません。
 
「天皇」はただ誰かの作った原稿を棒読みするだけですし、「ローマ法王」に至っては「同性愛者を歓迎する」などとトンチンカンなことを言っています。幾らそんな話を聞いたところで、自分を完全な人間に作ることはできません。
 
ですから私は、彼らのことを信じることも敬うこともしません。そんなことをする気にもなれません。
 
ましてや「チベット仏教」や「密教」のように性的なものを推奨するような宗教など論外です。そんな宗教は最初から信じるに値しません。
 
宗教に限らず、セックスをしないと人間がダメになる、性欲がない人間はダメだ、みたいなことを言っている人もみんな同じです。欲望というものは、なければないに越したことはありません。ない方がずっと楽です。
 
もし仮に欲望を持つとしても、自分を作ることに欲望を燃やせばいいのです。
 
それ以外の無駄な欲望を持って生きるから、満たされない心も大きくなり、満たされない心が大きくなるから、不平・不満が大きくなり、心配も悩みも増えていくのです。
 
しかし、最初から無駄な欲望がなければ、不満や不平も生じませんし、誰かを嫉妬したり恨んだりすることもなく、むしろ自分のやるべき仕事に没頭できるようになります。よそ見をすることなく、まっすぐに生きられるようになります。
 
そうすると、無駄なことを全くしなくなるので、それだけ時間を有効に使うことができるようになります。人が二時間かけてやることを一時間でできるようになります。そうすると、その人は他の人よりも二倍長く人生を生きたも同然です。長生きしたければ、そのように生きればいいのです。
 
そもそも、世的な欲望の強い人を誰が尊敬するでしょうか。中にはそういう変わり者もいるかも知れませんが、一般的にはそういう人は誰からも尊敬されることはありませんし、むしろ誰からも見下されるのが落ちです。
 
悪魔崇拝者たちもそうと分かっているからこそ、淫乱な儀式を人に見付からないように陰でこそこそと行っているわけです。で、自分の惨めさを慰めるために、性的なことを無理やり人にも薦めたりしているわけでしょう。
 
性的なことを行ってストレスが解消したり、一時的に悩みから解放されたりしたとしても、性的なことに中毒になったら、それだけでその人は人間として終わりです。そして、この世の多くの人たちがそのことを理解できず、悪魔の理論に騙されて、どんどん性的なところに流されていっています。
 
本当に哀れな人たちです。そうやって「できちゃった婚」などして自分の人生をダメにしている若者たちを見ていると、こっちまで情けない気分になります。
 
そんな悪魔の理論に騙されないためにも、私たちは自分を作ることに努力するべきです。「知・情・意」を開発する努力をすべきです。そして、そのような努力を続けている限り、悪魔の理論に騙されることは決してありません。
 
なぜなら悪魔は、人の体を支配することはできても、人の心まで支配することはできないからです。そして、そのような状態になってこそ、人は初めて真の幸福、真の自由を得たと言えるのではないでしょうか。
 
少なくとも、私自身はそう考えて、悪魔の罠から自分を守っています。
 
僭越ではありますが、今日は悪魔から自分の身を守る方法について述べさせていただきました。



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