名無し先生のショートコメント、解読作業、第三弾、煩悩くんフルスロットルさん最新も、参考になりますね。Φ(´゜π゜`)φ
2015年 宇宙人への旅立ち EP4 ヘッセンの復讐
http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-2904.html
さてさて謎解きも佳境に入ってきましたが、今までの内容は単なる前フリに過ぎない。今回、ルカさんからの重大なヒントのコメを得て(m○m)、ここから「洞察眼」をフルスロットルで駆使した怒涛の洞察が始まる。
さて、今回は最後の4)の箇所の解読です。
「ロマノフ王朝を実質支えていたタタル系貴族が
ブーチン系ロシア政権を後援していたとしたらどう思われるだろうか?」
ここが今回、ユッキーが妻子を捨て(?)、ラスプーチンに憧れたニコライ二世の4公女のように乙女チックにプーチンの元へ行ってしまったことに対し、実はプーチンにはこんなバックがいるんだぞ~というものであり、プーチンの正体を知るポイントでもある。
(本当に目覚めるべきはポッポの方かもしれない)
この「タタル」とは古テュルク語で「他の人々」の意ですが、これにギリシャ語の「タルタロス」(地獄)の意味を掛け、ルーシを征服した東方遊牧民を「タタール(韃靼)」と呼ぶようになった。味付け生ミンチ肉の「タルタルステーキ」や「タルタルソース」のタルタルも同じく「タタール」から来ています。
(タルタルステーキ、タルタルソース)
この謎解きには、ロシアの歴史の中で「タタールのくびれ」と云われる事象をまず知っておかねばなりません。
い、いや、、「タタールのくびき」でした(汗)。
これは今も尚、ロシア人の精神に重大な影響を与え、ロシア人が屈折した精神構造を持つようになった原因の一つだと解されている。屈折した精神の表れとしては、ロシア人の熊に対する愛とか、アディダスに対する群を抜いた愛とか、恨み節の演歌のような歌が好きだとか...色々ありますが、多分、「タルタルステーキ」「タルタルソース」と同じく、精神が細かく切り刻まれネチャネチャした状態になっているのだろう。
「タタールのくびき」を一言でいうと、、、、
「饅頭 怖~い」
い、いや、、「モンゴル人(アジア人) 怖~い」でした(汗)。
これはチンギスハンの長男が15万の大軍を引き連れて遠征して建国したキプチャック汗国との臣従関係のことを指す言葉で、ロシアがモンゴル支配下に置かれた200年あまりの期間のことを「タタールのくびき」と呼びます。
当時、欧州では十字軍がイスラムと戦っている頃で、ルーシもその経緯を見守りつつ、カトリックのデンマーク王、スウェーデン王、リヴォニア帯剣騎士団、ドイツ騎士団からなる「北方十字軍」が異教徒排除の為の遠征軍が侵攻している状況下でした。ここに東の方から怒涛の大群が押し寄せてきたのです。最初は「プレスター・ジョンの伝説」通りにキリスト教徒をイスラム教徒から助ける為に来たと考えられたのですが、実際に行われたのは殺戮と破壊。古キエフの人口5万人が2千人まで減少。ルーシの首都で宮殿や貴族の館のあった山の手の古キエフは荒地となり捨てられたバトゥの西征から「タタールのくびき」は始まります。
※プレスター・ジョン伝説・・・ネストリウス派キリスト教の司祭(プレスター)が東方に王国を建国し、イスラーム教徒に勝利を収めたことが述べられている伝説。
このことを充分理解するには、予備知識としてルーシ(ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人が居住する東欧広域の名称)と云われる地の国名の変遷を知っておく必要があります。「ルーシ」とはロシアの語源でもあるのですが、元々は現ウクライナ首都キエフの地を指す言葉。ここはウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人が住んでいた祖先の地なのです。
【国名の変遷】
■キエフ大公国(正式国名:ルーシ 882年-1240年)
■ウラジーミル・スーズダリ大公国(東北辺境ルーシ 1157年-1263年)
1223年・・・カルカ河畔の戦い
1236年・・・バトゥの西征
■モスクワ大公国(1263年-1547年)
1940年・・・納貢廃止
■ロシア・ツァーリ国(1547年-1721年)
■ロシア帝国(通称:帝政ロシア 1721年-1917年)
■ソビエト連邦(1922年-1991年)
■ロシア連邦(1991年-現在)
(赤字が「タタールのくびき」期間)
今から約800年前、モンゴルにチンギス・カン(成吉思汗)が登場し、中国~中央アジア~ロシアに至るまでの広大範囲を征服してモンゴル帝国を作った。ロシア方面(キプチャック草原)に関しては1236年のチンギス・カン長男の第一子バトゥの西征でロシア人の王朝(キエフ大公国)が滅ぼされ、その後、建てられたロシア大公国が1940年の納貢を廃止するまでの200年以上の間、ロシアの地は「キプチャク汗国(ジョチ・ウルス)」としてモンゴル人に支配された。
これにより、ロシアは欧州との文化的繋がりを断たれ、文明後進国になってしまったという認識を持っているのです。これがロシア人の屈折した精神構造の1つ。
キプチャク・ハン国は平坦地であるルーシは間接統治で臨み、決まった税金をサライに納めることや戦時に従軍することを義務づけたのみで宗教も自由であった。逆に通商ルートに対しては直接統治を行っていた。このことから通商を非常に重視していたことが伺える。
侵略地では混血化が進み、ロシア人はクリミア半島(クリミア・タタール)やヴォルガ川流域(ヴォルガ・タタール)、シベリアなど広範囲に広がったが、これらテュルク=モンゴル系の人々を「タタール」と呼んだ。
(タタール人 彼らは刺繍好き)
つまり、タタールとはモンゴルの別称でもある。
タタール出自のロシア人の姓は、アクサーコフ、アラクチェーエフ、アルセーニエフ、ブルガーコフ、ゴーゴリ、ゴルチャコーフ、ゴドゥノフ、ジャルジャーヴィン、カラムジン、コルサコフ、ストロガーノフ、タチシチェフ、トレチャコフ、トゥルゲーネフ、ウルーソフ、チャダーエフ、シュレメーチェフ、ユスーポフ、バフメテフなど多数におよんでおり、いずれも代表的なロシア人の姓となっている。
月のアヌンナキ監視団のイギギ(エノク書ではグリゴリ)が人間の女を強奪して住んだ場所・「ヒマラヤ杉の場所」がウクライナ。つまりアヌンナキとのハーフである故か、肌が白く金髪碧眼のウクライナ人は、スラブ人自体、何かしらモンゴルの血が入っていると蔑んでいる。
タタール美人といえば、沢山い過ぎて困る程ですが、一人だけ挙げるとすれば、世界一美しい完璧ボディの持ち主であるイリーナ・シェイクですね。ロナウドの元恋人のロシア人モデルと云った方が分かり易いかもしれません。
(イリーナ・シェイク)
う~む、モンゴルの血が入っているとは思えない程の美貌。同じモンゴルの血が入った鮮人にようにエラや頬骨は発達していないし、モンゴル女性のように厳つい躯体になっていないのは不思議だ。
で、この完璧ボディのくびれが、「タタールのくびれ」(爆)
うっ、話が反れてしまいました(超汗)。
くびき(モンゴル圧制)の最中、モスクワ大公国(1263年-1547年)が興ったのですが、ここに仕官する者のなかにキリスト教に改宗したタタール人が多くいた。多くはクリミア・ハン国がイスラム教を国教化したのを嫌ってクリミア・タタールからの移動であり、ここからロシア貴族となったタタール家系はかなり多く、17世紀には貴族層の17~30%を占めていたと云われる。タタール出自はドイツ系やポーランド・リトアニア系と並び、誇りとすべき名誉ある家系とされていたのです。
後世、「ボヤール」(ボヤールストボ)といわれたロシアの大貴族階級は、祖先をモンゴル人やタタール人にさかのぼる家系も多く、家名にモンゴル=タタールの名残が確認される。
そして、クリミア半島ではチンギス・カン後裔の王族・ハージー1世ギレイによってクリミア・ハン国(1441~1783年)が建国された。クリミア・ハン国の主要構成はスンニ派ムスリムのクリミア・タタール人ですが、1613年、ロマノフ家のミハイル・ロマノフをツァーリに選び、ロマノフ朝が始まっている。これらタタール貴族がロマノフ王朝を実質的に支えていたのです。
バトゥの西征で対峙したアレクサンドル・ネフスキーはノヴゴロド公国(モスクワの北方、フィンランドの近く)の公を経てウラジーミル大公となっているが、この大出世は自分の叔父や弟を追い落とし、モンゴルの力で大公の位を認められたから。さらにルーシ諸公の徴税や貢納をとりまとめてモンゴル側に送って自らすすんで「モンゴルの代理人」となっている。
バトゥの西征自体、実は大したものではなく、神聖ローマ帝国のハプスブルグ家の弱体化を図る為にオスマントルコを誘導した聖ヨハネ騎士団のように、実はこのアレクサンドルが自らの野望を実現する為に進んでモンゴルを誘導、あるいは裏取引していたという見方も出来るのです。
さてさて、ここで大きな疑問がある。
それは、何故、チンギス・カンは、突如、西へ東へと大規模な遠征を始めたのかという点です。彼を世界征服に駆り立てた動機が見えないのです。
これらの疑問を解く鍵が、実はルーシという言葉にあった。
「ルーシ」はロシアの語源でもあり、現ウクライナ首都キエフの地を指す言葉とは先にも書きましたが、ここに「キエフ大公国」(882年-1240年)があったわけです。
このキエフ大公国が東方正教会主教座のあった地だったのです。つまり東ローマ帝国の皇帝戴冠(任命)が可能な主教座がキエフ大公国の教会だったのですが、「タタールのくびき」の最中、キエフ大公国が廃され、アレクサンドル・ネフスキーがウラジーミル大公となった。その時、キエフ大公の権力がそのままこのウラジーミル大公が継承したのです。当然、主教座もウラジーミルに移動する。
更に、その孫のイヴァン1世(イヴァン・カリター)がウラジーミル大公からモスクワ大公となっていることから、東方正教会主教座はさらにモスクワに移動した。
キエフ(ウクライナ) → ウラジミール → モスクワ
へと北方に徐々に移動したのです。
これがモスクワがルーシ(ロシア)と名乗ることが出来る理由であり、モスクワを擁するロシア連邦こそが「キエフ・ルーシ継承権」を持っているというもの。これがプーチンが元ルーシーであるクリミア、ウクライナを絶対譲れない理由でもあるが、ここがロシア・ウクライナ問題の根源でもあるのです。
(「双頭の鷲」を引き継ぐロシア正教会の紋章)
(ロシア正教会の長たる総主教がモスクワ総主教=キリル1世)
かつての偉大な古代ローマ帝国(前27年-395年)が東西に分裂して西ローマ帝国(395年-480年)が滅び、神聖ローマ帝国(962年-1806年)として再興されたとされています。更にこの神聖ローマ帝国の継承がナチス・ドイツの「第三帝国」だとヒトラーはプロパガンダしていましたが、実際には、ハプスブルグ家の神聖ローマ帝国が相次ぐ戦費拠出による財政難で倒れた後、欧州各地域の継承権がヘッセン、サヴォイ、ナッサウらの諸侯らの剥奪戦になった過去があります。その最大の勝者がヘッセン=ナッサウ家といった感じです。
※ヒトラーの「第三帝国」は、第1の神聖ローマ帝国、第2のドイツ帝国の正統性を受け継ぐものとされている。
(神聖ローマ帝国の国章)
では、もう一方の雄である東ローマ帝国の継承権はどうなったのでしょうか? 一応、東ローマ帝国はオスマントルコに敗れるまでの395年~1453年の1000年以上に渡って存続していましたが、その後、再興されたという話はありません。
サヴォイ一族がイタリア王位継承権で未だ揉めているように、また、ハプスブルク=ロートリンゲン家のカール1世の子孫はスペイン、ベルギー、ルクセンブルクの君主位継承権を保持しており、いつ君主として登場するかもしれないように、この広範囲に跨った「東ローマ帝国帝位継承権」が未だ生きており、誰かが保有(血の継承)しているのではないだろうか?
実は、東ローマ帝国→ロシア・ツァーリ国(1547年)→帝政ロシア(1721年)として帝位は継承されているようにも見えます。
(東ローマ帝国の国章 2つの鷲は西洋と東洋を表す)
しかし、帝政ロシアもロシア革命(1917年)で継承は消滅したかに見える。
何故かロシア連邦の国章には「双頭の鷲」が描かれていますが、不思議なことに帝位継承者を立てていいません。実は、ロマノフ朝が途絶えたといっても、それは最後の皇帝ニコライ2世一家に限ってのことで、実際には米国在住等で「継承」可能な血筋がゴロゴロいる。君主制を望む声も大きいとのことで、ロシア連邦はもう既に「隠し玉」を匿っているかもしれませんね。
(ロシア連邦の国章)
この場合、タタル貴族や正教がプーチンを後押ししているのが気に掛かりますね。新世界秩序時において、一旦、破壊された「皇帝-貴族-平民」という身分制社会の復活を目指しているかもしれません。
もう1つ、継承の可能性があるのがタタール、つまりモンゴルです(ニタリ)。
ソ連邦時代、今度は逆にモンゴルが「ロシアのくびき」に置かれ主従関係となりましたが、この時、チンギス・カン一族の子孫であると自慢していた貴族たちは「人民の敵」として処刑され、最初の20年間で貴族や仏教の僧侶など約10万人(国民の約1割)が殺されたり、シベリアに流刑されて死んでいる。
過去の「タタールのくびき」がよほど堪えたのでしょうか?
確かに、モンゴルの圧制下では多くのロシア貴族が亡くなったと云われ、モンゴル人は厚い板を用意し、囚人を下に寝かして並べて上に厚板を置き、その上で宴会をするという冷酷な処刑を楽しんでいたという。
この「タタールのくびき」がロシア人の潜在意識の奥深くにトラウマとなって刻み込まれ、過剰過ぎる程の強さを求める気質や死刑よりも同性愛を我慢できないという独特な精神構造を形成しています。 ロシアの大統領ウラジーミル・プーチンが同性愛者の権利を剥奪し同性愛は違法であるという法律に署名し成立したのもこれが理由ですね。
しかし、モンゴルの統治は、既存首長による自治を認める間接統治であり、宗教にも寛容で、また西洋と東洋を結ぶ隊商ルートが安全に確保・整備された為に東西貿易は盛んになり、実はルーシは前よりも裕福になっている。しかも納貢の税率は収入の1/10とかなり安い部類。このことから「タタールのくびき」など本当は無かったと言い出す研究者さえいるのです。
ソ連時代のモンゴルに対する対処は異常であり、これは「ソ連共産党=ヘッセン選帝侯国の傀儡」であり、「ヘッセン選帝侯国=ハプスブルグ家を廃した神聖ローマ帝国(西ローマ帝国)継承者の1つ」と看做すことで解けてくる。この異常さの根底には必死になってロマノフ王朝以降の「東ローマ帝国帝位継承者」を抹殺しようとしているのでは?
モスクワ大公国には「キエフ・ルーシ継承権」があり、当地の王を任命できる権限があったわけですが、ロマノフ王朝滅亡後、任命を受ける側である継承権(血胤)は自動的にモンゴル本国に渡ったのではないかとオイラは睨んでいる。だからこそ、ソ連邦時代に後々のことを考えたヘッセン選帝侯の手先であるソ連共産党は、継承者が誰であるか分からない為にチンギス・カン末裔の貴族を全て抹殺に掛かったのではなかろうか?
早くにロシアに征服されたジョチ・ウルスの西部でも長らくチンギス・カン一族の権威が生き続け、チンギス・カンの血を引くモンゴル貴族が正教に改宗してロシア貴族に加わった場合には、ロシア在来の王家であるリューリク家の人々と同様に、皇子(ツァーレヴィチ)、公(クニャージ)として処遇された。・・・・(中略)・・・・また、西部でもクリミア・ハン国のみはオスマン帝国の保護下に入り、18世紀の末までロシアからの独立を保ったが、この国でもチンギス・カンの血を引く王族のギレイ家の構成員のみがハーンに即位したり、スルタンの称号を帯びたりする権利を独占した。ギレイ家は、チンギス・カンの血を引く名門としてオスマン帝国、ロシア帝国の双方からも一定の敬意を払われていたことが知られている。
(Wikipediaより抜粋)
モンゴル貴族(タタル貴族)とルーシ王家が同格!!!
まぁ、征服支配されていたので、当然といえば当然なのですが、、、、
ただ、この扱いは間違いなくキエフ・ルーシの継承権はモンゴルにいる「大カーン」に移っていたことの表れ。
その後のツァーリ国、帝政ロシアにしても「キエフ・ルーシ継承権」という一地方の継承権の取り戻しでしかなく、実際、取り戻したのかどうかも不明。血縁的には取り戻せていないとみている。また別の広大な地域の継承権はモンゴルに存在したままだと思われる。当然、これを与えられる主教座はロシア、アルメニア限定の東方教会(正教会)主教座などではなく、もっと別物の上位の主教座である筈。
この教会が持つ権威が権力者を任命して統治継承権を付与するという方法は、ユダヤ式のダビデに油を掛ける大祭司レビ族に起因する。実はこの方法は「権威」と「権力」が分けられた日本と同じであり、アジアでは珍しく日本文明が欧州型文明と同じカテゴリーに分類される理由でもある。逆にいえば、これは日本は古くから宗教に支配された国であったことの証左であり、これ故に、織田信長が木下藤吉郎と呼ばれた頃のイエズス会の侵攻でも日本はキリスト教国化しなかった理由でもある。
これに関してはモンゴルでのキリスト教の布教程度を考えねばならない。なぜなら、キリスト教帰依者でしか継承認定されない仕組みだからです。
※神が教会対し、神に代わって地を治める権威を与えたという神学に基づく
中国大陸に伝わったキリスト教は景教だと言われているが、、、、
景教とは古代キリスト教ネストリウス派のことであり、コンスタンティノポリス総主教ネストリオスにより説かれた。325年のキリスト教会最初の公会議ニカイア公会議で三位一体説が正統とされたため、それに異を唱えるネストリウス派は431年のエフェソス公会議において異端認定され排斥された。これにより、ネストリウス派はペルシャ帝国へ移動し、7世紀ごろには中央アジア・モンゴル・中国へと伝わったという。モンゴル帝国を後に構成することになるいくつかの北方遊牧民にも布教され、チンギス・カン家の一部家系や、これらと姻戚関係にありモンゴル帝国の政治的中枢を構成する一族にもこれを熱心に信仰する遊牧集団が多かった。そのため、元の時代に一時中国本土でも復活することになったという。
(Wikipediaより抜粋)
やはり、チンギス・カン末裔に継承権(血胤)は移っている。これが「大ハーン」の称号なのだろう。しかも、任命権者はコンスタンティノポリス総主教というロシア総主教よりも上位のもの。
つまり、古代キリスト教ネストリウス派(景教)でそれであった。そして、これが最初に書いた東方で教化に成功した『プレスター・ジョンの伝説』に繋がってくるのです。
これで、何故、テムジン(チンギス・カン)が急に大陸全土を侵略し始めたのかの謎も解けてくる。
つまり、、、「大ハーン=東ローマ帝国皇帝」だったのだ。
※トルコのコンスタンティノープルの東ローマ帝国(ビザンティン帝国)は、あくまでも「アレクサンドリア総主教庁派=ロシア正教・ギリシャ正教」が建てた帝位であり、本来の「コンスタンディヌーポリ総主教庁」の主流派はネストリウス派であった。エフェソス公会議というクーデターでエジプト追放され、派閥はペルシャを経てインド・中国に移っていった。そして、かの地で教化していった。この初期の頃の枝分かれが、モンゴル・満州・朝鮮半島を経て日本に来ているが、これがカド族系秦氏であり、卍党に繋がっているとオイラは睨んでいる。
ただ、この場合、チンギス・カンがキリスト教徒である証明をしなくてはならない。
立証することは不可能ではあるが傍証ならばある。1つはチンギス・カン末裔が景教信者であったことと、元が建国された際に景教が再び隆盛したこと。更に彼の孫であるバトゥが建設した町にキリスト教の教会が作られていたということです。
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ロシアのボルガ川堤防沿いに、モンゴルの征服者チンギス・ハンの子孫たちによって建てられた都市跡で、2つのキリスト教寺院が発見された。寺院が発見されたのは、約750年前に建てられウケクと呼ばれた都市。寺院はタイル屋根で、彫刻や壁画で装飾されており、ローマやエジプト、イランからもたらされた皿や瓶といった輸入品の遺物が中から見つかった。ウケクのキリスト教地域は、サラトフ地方民間伝承博物館の考古学者たちによって発見された。多文化の都市で、そこではイスラム教やキリスト教、そしてシャーマニズムなど、さまざまな宗教が実践されていたという。最初のキリスト教寺院が14世紀はじめに破壊された後、2つ目の寺院が1330年に建てられ、1350年頃まで使われ続けた。今回、その土台の一部が発掘された。
■チンギス・ハンの子孫が建てた都市で古代キリスト教寺院発見
ttp://www.christiantoday.co.jp/articles/14430/20141030/ancient-christian-temples.htm
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以上から、チンギス・カン(テムジン)がキリスト教徒(景教徒)であった確率は非常に高いとみている。
では、この大ハーン(東ローマ帝国帝位)の継承権は、モンドル帝国崩壊後、どうなったのでしょうか?
モンゴル高原では、元朝崩壊後もチンギス・カンの子孫でない者がハーン(カアン)の位に就くことはタブー視され、チンギス・カンの子孫ではない遊牧君主はたとえ実力でモンゴルを制覇したとしてもハーンとはなれない慣行が生まれた(「チンギス統原理」)。東アジアでは、17世紀初頭に女真のヌルハチが満州(女真)のハンに即位して後金を建てていたが、後金はヌルハチの子ホンタイジのときモンゴルのチンギス裔のハーンを服属させ、満州だけではなくモンゴルに対してもハーンとして君臨することとなった。こうしてモンゴルのハーンとなった満州のハーンは、自らを元の大ハーン政権の後継王朝と位置付け、国号を清と改めている。
(Wikipediaより抜粋)
ここからは女真族に更に継承権は移ったと読める。
※満州=モンゴルでもある。つまり、遊牧が蒙古、定住が女真という違いがあり、両者はかなり交流していた。事実、満州文字はモンゴル文字を改良して作られたもの。この両者の結託を怖れた中国は互いを反目させるような施策をしていたが、清朝始祖・愛新覚羅ヌルハチは蒙古族の協力を得て清朝を打ち立てた。
時代は下り、モンゴルは清に組み込まれたが、辛亥革命(孫文が起こした革命で共和制国家・中華民国が樹立)の時に清から独立化。
清からの独立を宣言(Mongolian Revolution of1911)。モンゴルにおけるチベット仏教界で最高権威かつ民族全体のシンボルとして君臨していた化身ラマ(活仏)のジェプツンダンバ・ホトクト8世(ボグド・ハーン)をモンゴル国の君主(ハーン)として推戴し、ボグド・ハーン政権を樹立した。1913年には、チベットとの間で相互承認条約を締結した。
(Wikipediaより抜粋)
モンゴルとチベットを結ぶラインが相互認証だった。
ナチスがチベットと同様、モンゴルを重視していた理由でもあるが、それを吹き込んだのは緑龍会(緑のカラス)の客家(ペリシテ人)勢力。
緑カラス傘下の地祇系の大本・出口王仁三郎は、第1次大本教事件により仮出獄中の身でありながら、密かに蒙古へと入り有力な馬賊と友好関係を結び、満蒙の人々を教化しながら約5ヶ月に渡り満蒙の地を白いロバで駆け回ったといいますが、これはイエスの「エルサレム入り」を模倣した行動ですね。
つまり、満蒙の地に新エルサレムを作ろうとしていたのだろう。救世主思想(弥勒思想)を持つ卍党に連なる大本ですが、この卍党の根底には景教あるいは原始キリスト教(エルサレム教会)が存在すると思われる。もし景教ならば卍党本部が東ローマ帝国帝位を任命するもう1つの主教座なのかもしれませんね。
妄想ついでに述べておくと、、、
これがネオ満州国の建国に絡んでくるのでは? つまり満州国とは「東ローマ帝国」の再建。地祇系が何度も満蒙地区に国を樹立したがる真の理由はこれではないだろうか?
では卍党(大本=世界紅卍字会=道院)が、何故、満州・蒙古を目指しているのか? 1つはモンゴルとチベットの相互認証にあると睨んでいますが、それ以外にも地政学的理由がある。
海洋国家イギリスの地理学者マッキンダーは、「世界は閉鎖された空間となった。人類の歴史はランドパワーとシーパワーの闘争の歴史である。これからはランドパワーの時代である。東欧を制するものはハートランド(ユーラシア大陸の中心部分)を制し、ハートランドを制するものは世界島(ユーラシア+アフリカ).を制し、世界島を制するものは世界を制す。」との有名な仮説を発表。
この言葉を受けて、ナチスの地政学者ハウスホーファーは「地球の心臓地区とはモンゴルである。モンゴルを制す者は世界を制覇するだろう。」と自分の刊行する雑誌「地政学評論」で発言している。このハウスホーファーの言葉がナチスの行動原理になっているが、これは卍党も同じ。多分、緑龍会(客家)の思考・思想から来ていると睨む。
ここに建てられるのは皇帝=大ハーンは初期に枝分かれした女真族の血を引く北朝(地祇系)なのか? それとも順当に愛新覚羅家の血を引く者なのだろうか? あるいはチベット仏教関係者なのだろうか?
一応、今でも愛新覚羅家の血を引くものは日本にいるにはいる。
※、愛新覚羅(福永)嫮生、姉の愛新覚羅慧生は1957年に天城山心中しているが、遺体が離れており心中らしくなく、非常に怪しい事件。
だが、中国にもたくさんいる。
新進女優の愛新覚羅啓星。
(曽祖父が溥儀の従兄弟)
また話が反れてしまった、、、(汗)
かつての満州国建国時には、関東軍主導で満州国皇弟・愛新覚羅溥傑と侯爵嵯峨家の浩(ひろ)との婚姻が進められていた。本来は皇族と結婚させたかったみたいだが、制度上認められず、昭和天皇と近い血筋の華族から選ばれたという。兄・溥儀から弟・溥傑に強制譲位され、最終的には関東軍=帝国陸軍の権威である北朝系裏天皇の血を入れて完成という段取りになっていたのではないだろうか?
ネオ満州国もきっと似たようなシナリオで動くだろう。
しかし、ロシア人の脳裏には「満州(蒙古) 怖~い」が強烈に焼き付いているので、ネオ満州国に関しては「河豚計画」同様に潰されるとだろうとオイラは睨んでいる。っていうか、西ローマ帝国(ヘッセン=ナッサウ)陣営が「そうはイカンザキ!」と潰しに掛かってくる筈です。
ただ、アレクサンドル・ネフスキーがしたように「怖い怖い」といいながら饅頭をどんどん持ってこさせ、全て食べてしまうような展開(オチ)は用意されているだろうが、、、(爆)。
さてさて話は現代に戻るが、タタール人の反駁を恐れ、クリミア・タタール人の復権をプーチンは速やかに行った為、タタール人はプーチンを後援していると述べましたが、これはかつてのモスクワ大公国とタタール人、帝政ロシア(ロマノフ王朝)とタタール人の関係と同じですね。ロシアでは1つおきにタタール人が後援する国家になっています。
これはイラクにおけるクルド人、戦後日本における在日と同様、少数民族であるタタール人が政権の裏側を担っていたからでしょう。だから政権転覆で一旦は地に落ちる。
この法則から云えることは、現ロシア連邦もタタール人支援国家だということ。実際、プーチンの行動を見ても逸早くクリミアにおけるタタール人の復権を図っているので、全くその通りですね。
ロマノフ王朝に対してロシア革命を仕掛け、完全殲滅を企てたのがヘッセン選帝侯国でしたが、ロマノフ王朝を実質的に支えたタタル貴族がソ連邦時代には辛酸を舐めさせられたのは容易に想像が付く話ですね。
ここに「タタールvs.ヘッセン選帝侯」 という図式が透けて見えてくるのです。ウクライナのクリミア紛争も同じ対立構図です。
このヘッセン選帝侯側に侵食したのがオラニエ=ナッサウの新教(プロテスタント)勢力で、ここがヘッセン=ナッサウへと進化し、現在のオランダ王室になっていく。ここが英国メーソンの奥の院で「千年王国」のマスターマインド。メーソンの英国を通じて米国とバチカンをコントロールしているとも云われる。
この繋がりから上の図式は「タタール→蒙古・満州→地祇系(北朝)→イエズス会」へ、一方、「ヘッセン選帝侯国→ヘッセン=ナッサウ→オランダ→メーソン」と繋がって、、、
「イエズス会 vs.メーソン」 の対立構造と読み替えることが可能。
つまり、クリミア紛争も正反合のヘッセン=ナッサウ勢力の両刀を使った罠であるということです。
名無し先生の情報では、30年戦争の後、ヴェスト・ファリア条約が締結(1648年)されましたが、この条約によって欧州は30年間続いた旧教と新教による宗教戦争は終止符が打たれ、相互領土の尊重、内政干渉抑制を旨とした欧州の新秩序が形成されるに至ったが、ここではヘッセン側に有利な領地配分になったものの、その後のウィーン会議(1814-1815年)で不利な結果となった。
この不利な裁定を行ったのがロマノフ王朝のニコライ2世。これがロシア革命勃発の原因であり、ヘッセンが革命でニコライ2世のロマノフ王朝消滅を図った本当の理由でもある。
同時にロマノフ王朝の財宝をも簒奪したのですが、この財宝はローマ帝国→東ローマ帝国→オスマン帝国―ロシア帝国へと流れたもの。それと各植民地から得たアセットを加え、ロマノフ家没落後にインドンシアのオランダ総領事館の地下室50Mに金塊を積み上げ貯蔵していたという。これがベルファシ(旧コミュニスト)側の簿外資金の元資。
しかし、ナッサウ=オラニエ側の欧州諸王室、中国王室がここに集まっていた時を狙い、日本の陸軍中野学校のある特殊部隊が全てを押さえ、これを元資に善用の簿外資金とし、国際平和維持の為に使う事を決め、各王室に国際協定に署名させ命と交換した。金塊はアジア各国の軍関係国際秩序維持派に監理依頼をし、各地に移動、決して動かさぬ事が約束された。
このことが戦後日本が敗戦国でありながら日英米の三極で回す金融センターと為り得た経緯。そして現在、日本が産業の更新が進まず停滞しているのも、バブル期の善用の資金を簒奪して流用したヘッセンと懇意なベルファシ勢力がヤンゴトナキ家系周辺にいる為、20年間、簿外資金が全く注入されておらず、これ故に産業が更新させず中国...等に資金が回されてしまっている。
話がだいぶ横道に反れてしまったが、この「ヘッセンvsロマノフ」の対立構図は「ヘッセン・ナッサウvsタタル(モンゴル・満州)」へと引き継がれ、「メーソンvsイエズス会」という形をとっていますが、本当の正体は「西ローマ帝位継承者vs.東ローマ帝位継承者」という対立構図になっていると睨んでいる。
この東西陣営には各々南北陣営(南ユダ族、北イスラエル族)が付いているが、この西ローマ帝国、東ローマ帝国の帝位を同時継承できた時が「合」の時であり、「千年王国」の始まりの時だと奥の院は捉えているではないでしょうか。
(つづく)
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2015年 宇宙人への旅立ち EP4 ヘッセンの復讐
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