久しぶりの更新、高度自給自足時代の夜明け 【先進国の未来像】 さん最新も、膨大な量なんで、1割も抜粋できない、断続的な引用の、資料的なところは、全てスルーしとりますが。
ポイントは、歴史的なオランダと日本の関係から、大本が世界の雛形でない説の、考察ですが。まともに読んだら、66.6分でも足りないですが。全文熟読、参考になりますね。Φ(^π^;)φ
【日本雛形論の虚構 例えば江戸幕府は誰が操っていたのか?】
http://jfcoach.blog49.fc2.com/blog-entry-225.html
★オランダのユニフォームはオレンジですが、これはオランダのオラニエ公に因んでいるんです。
Oranje=Orangeですね。
★さて、今回はよくネットで目にする、大本のいうところの「日本は世界の雛形」だということを否定する記事になります。
日本の長い歴史をすべて書くのは無理ですので、今回は江戸時代に限って書きます。
よく、日本は明治維新で欧米列強により操られようになったという認識があります。
これは正確ではないどころか、大間違いで、なぜ江戸幕府が鎖国したのか?
その間、オランダだけとは貿易が続き、国際情勢を学んでいたと言われているのは何故なのか?
この辺のお話です。
時は西暦1600年、この年のできごとを調べてみると、関ヶ原の合戦があり、イギリスの東インド会社が設立されます。
そして1602年、オランダ東インド会社が設立されています。
さらに1603年には江戸幕府が始まっています。
このように、絶妙なタイミングで、江戸幕府はスタートした訳です。
1600年、イギリス東インド会社設立
1602年、オランダ東インド会社設立
1603年、江戸幕府スタート
家康は、イエズス会=カソリックによる支配を嫌っており、ポルトガル、スペインといった国とは距離を置き、代わりにオランダと付き合いだしたというように認識している人も多いと思います。
しかし、実際のところは、欧州での覇権の奪い合いが日本でも行われていたということなのです。
★まず、江戸幕府の始まる前の時代から、カソリック=イエズス会は相当嫌われていたのですが、これはヨーロッパでも同じ動きが起こっています。というか、むしろヨーロッパでこの動きが激しくなって来た訳です。
教皇による支配、苦しむ庶民、そこに出現したのが、過去記事にも書きましたフリーメイソン。
プロテスタント勢力です。
今のフィリピンでもそうですが、カソリックは偶像崇拝の奴隷宗教なんですね。
神様に従わないと罰せられ、従う(信じる)者は救われるというように。
まあ、カソリックに限らず、すべての宗教がそういう土台の上にあぐらをかいているインチキタックスヘブンなのですが、カソリックの場合、これがプロテスタントを生む訳です。
フリーメイソンとは元々商工会みたいなものだった。
これをオカルト化したのがイルミナティ。
この中にカソリックの代表=イエズス会を、啓蒙主義の代表=メーソン組織=古式黄金薔薇十字団で囲った。
要するにイエズス会は、そういう性質=ローマンカソリックの仮面を被った、亜流啓蒙主義だと言う事です。
んんんん・・・・
難しいですね・・・
例えば、今のネット社会、これがフリーメイソンみたいなもんなんですよ。
自由に意見の言える社交場。
超国家主義と言えますね?
国じゃなくて、ネットという世界でやり取りして居る訳です。
そういう考え方を超国家主義といい、その反対を国家主義といいます。
国家主義の場合、欧州ではドイツ、フランス、イタリア、オーストリア等々を指し、超国家主義は、イエズス会、フリーメイソン、イルミナティを指します。
この超国家主義の中に、さらに対立軸を形成し、啓蒙するのです。
イエズス会VSイルミナティー
これは、今のネット社会で例えるなら、ちょっとレベルは下がりますが、ネトウヨVS中韓人の罵り合いみたいな、相反する者達なのです。
しかし、この相反する勢力の双方の背後に居るのは、同じ勢力だという事。
国家主義は国家主義で、日本VS韓国、アメリカVSロシアみたいな対立軸が有る訳です。
というか、そのように誘導されているんですね。
ただ、これを分解し、ディテールの一つ一つまで理解するのは大変な知識と透察力を要します。
今回の記事では、大本の言う、日本は世界の雛形であるというジョークを否定する目的で書いています。
日本が世界を動かしている訳が無いことは誰でも分かる事です。
しかし、大本はなぜか、日本は世界の雛形という。
この話自体ぶっ飛んでますよね?こんなこと国際的な場で言ったら爆笑ですよ。
さて、江戸時代が始まる当時のヨーロッパ情勢です。
全然関係ないと思われていますが、ヨーロッパの情勢が日本の歴史を動かしています。
16世紀~17世紀当時、スペインに対抗する、オランダ覇権の時代が始まります。
カール5世の息子フィリペ2世にスペイン王位を与え、当時のオランダはスペイン・ハプスブルク家の支配下にありました。
フィリペとはフィリピンの国名にもなった人物ですね(ここでは関係ないですが・・・)。
このフィリペの時代に80年戦争が有り、オランダの北部が独立国となりました。
この中にベルギーとオランダに股がったブラバント州というのが有って、これが以前の記事に書きました、ヘッセンのルーツが経てきた一部なんですが・・・
★・・・あまり脱線すると怒られるので、話を元に戻します。
この80年戦争と30年戦争はオーバーラップしています。
80年戦争の最後の30年が30年戦争です。
八十年戦争(はちじゅうねんせんそう、蘭:Tachtigjarige Oorlog)は、1568年から1648年にかけて(1609年から1621年までの12年間の休戦を挟む)ネーデルラント諸州がスペインに対して反乱を起こした戦争。これをきっかけに後のオランダが誕生したため、オランダ独立戦争と呼ばれることもある[1]。この反乱の結果として、ネーデルラント17州の北部7州はネーデルラント連邦共和国として独立することになった。北部7州は、1581年にスペイン国王フェリペ2世の統治権を否認し、1648年のヴェストファーレン条約によって独立を承認された。
80年戦争はオランダ独立戦争と呼ばれる事も有る訳です。
30年戦争で一番得をしたのはヘッセン。
ヘッセンの先祖はブラバント。
オランダ東インド会社の創立が1602年です。
これが世界初の株式会社です。
イギリス東インド会社は株式会社ではなく勅許会社です。
江戸時代が始まったのが1603年です
1600年頃までに北部7州はネーデルラント連邦共和国として実質的に独立を果たした。共和国が成立してもスペインとの戦争は終わらなかった。ネーデルラント連邦共和国は1602年、連合東インド会社(オランダ東インド会社)を設立してアジアに進出し、ポルトガル(1580年からスペインと同君連合)とのオランダ・ポルトガル戦争(英語版)(1602年 - 1663年)で香辛料貿易を奪取して、世界の海に覇を唱えた。このため貿易の富がアムステルダムに流入して、17世紀の共和国は黄金時代を迎えることとなる。1609年にはスペインとの12年停戦協定(英語版)が結ばれた。
オランダの独立直後にオランダ東インド会社が創立しているのです。
そして、1609年にはその日本支店を開店。
オランダによる日本の独占が始まります。
商業がメインではなく、政治的な独占です。
オランダが流すヨーロッパの情報が江戸幕府にとってほぼ唯一の情報な訳です。
イギリスも同じように1613年に東インド会社、日本支店を開店しているではないか?という意見が出ます。
そうです。その通りです。
しかし、イギリスは誰の国だと思いますか?
ロス茶でしょうか?
かの有名なロス茶のイギリス国債売買によるイギリス乗っ取り事件で本当にロス茶がイギリスを乗っ取ったと思いますか?
答えはNOです。NO-NO-NO-なんです。
ロス茶は確かにフランスにイギリスが負けたという誤情報を流し、イギリス国債を一旦暴落させ、買い戻し、膨大な利益をあげました。
しかし、その後、イギリス国債を売り払い、英国がデフォルトして、債権回収に英国資産差し押さえにならなければ影響力は出ないですよね。
ロス茶は英国債を売ってない訳ですよ。
握ったままです。
ですので、英国債を持っているだけでは、イギリスを乗っ取ったとは言えない訳です。
日本と中国が米国債を持っているのと一緒です。
日中はアメリカを乗っ取っていませんよね?
話を戻して、イギリスは誰の国なのか?
その答えはオランダなんです。
いや、国で括っちゃうと間違えますので、的確に言うならオラニエ公なんです。
でも、これは少し後の時代の話ですから、16~17世紀の話をします。
★オラニエ公というのは、ヘッセン家ですよ。
(Wikipediaより)
ヘッセン家の人々はわずかな例外を除き、宗教改革初期以来の敬虔なプロテスタント信徒の家系であった。フィリップ1世、モーリッツ、ヴィルヘルム5世はいずれもフス派のボヘミア王イジー・ス・ポジェブラトの血を引く女性と結婚している。またヴィルヘルム6世以後、歴代のヘッセン=カッセル家の当主の母親は、全員がカルヴァン派信徒で八十年戦争を開戦期に指導したオラニエ公ウィレム1世(沈黙公)の子孫である。
このように、ヘッセン家がオランダ、オラニエ公の正体であり、これがイギリスを乗っ取るんです。
オランダがイギリスを乗っ取った?
馬鹿じゃないのと思われるでしょうが、これが事実という事は、ちょっと調べれば、普通に書いてあることなんですね。
名無し先生のポイント・オブ・ヴューが無ければ、当然、こんなことは調べようが有りませんが・・・
さて、江戸時代が始まり、すっかりオランダとべったりになった日本、これがオランダ覇権持代とぴったり重なり、そしてイギリス覇権になったらなったで、イギリスとべったりになる日本。
感心しますね、ここまで操れるんですから。
で、オランダ=オラニエ公=ヘッセン家がイギリスを乗っ取ることに成功する訳ですがそこのところを説明します。
普墺戦争ですね。
普墺戦争(ふおうせんそう、独: Deutscher Krieg)は、1866年に起こったプロイセン王国とオーストリア帝国との戦争。当初は、オーストリアを盟主とするドイツ連邦が脱退したプロイセンに宣戦するという普独戦争ともいうべき形で開始されたが、その後ドイツ連邦内にもプロイセン側につく領邦が相次ぎ、連邦を二分しての統一主導権争いとなった。ケーニヒグレーツの戦い(サドワの戦い)でプロイセン軍がオーストリア軍に勝利し、戦争は急速に終結した。「7週間戦争」や「プロイセン=オーストリア戦争」[1]とも呼ばれる。この戦争によってドイツ統一はオーストリアを除外してプロイセン中心に進められることになった。
この戦争の勝者がビスマルク率いるプロイセン。
明治維新1868年、普墺戦争1866年6月15日プロイセンが宣戦布告、8月23日プラハ条約締結。プロイセンはオーストリアに対して領土や賠償金を要求しなかったが、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国全域とハノーファー王国、ヘッセン選帝侯国、ナッサウ公国(en) 、フランクフルト自由市を領有してドイツ東西のプロイセン領の統合を達成し、オーストリアを統一ドイツから排除した。オーストリアは同年10月12日、イタリア王国と個別に講和条約(ウィーン条約)を結び、ヴェネツィア地方をイタリアに割譲した。ハノーファー王ゲオルク5世、ヘッセン選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム1世、ナッサウ公アドルフ(後にルクセンブルク大公を継承)はこれにより廃位された。
1866年、この年のうちに普墺戦争→プラハ条約締→ウィーン条約が交わされます。
欧州覇権争いの結果がこの状況。
その翌年が明治維新。
オーストリアというハプスブグ家の本拠地がドイツ圏側から排除され、イタリアとの講和も結ばされました。
そしてオーストリアはヴェネチアを失います。
ハノーヴァーといえば今でも続くイギリス王家、ウィンザーのことです。
ハノーヴァー家(House of Hanover)は、ドイツのヴェルフ家(ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家)の流れを汲む神聖ローマ帝国の諸侯の家系で、1692年に成立したハノーファー公国(選帝侯国、後に王国)の君主の家系であったが、1714年にステュアート朝に代わってイギリスの王家となり、ハノーファーとイギリスの君主を兼ねる同君連合体制をとった。ハノーファーではサリカ法を採り、女子の継承を認めていなかったため、1837年のヴィクトリア女王のイギリス王即位をもって同君連合を解消し、ハノーファー王家はイギリス王家から分枝した。
1901年のヴィクトリアの死後は、夫(王配)であったアルバート公の家名を取って、サクス=コバーグ=ゴータ朝と称される。第一次世界大戦中に、敵国ドイツ帝国の領邦ザクセン=コーブルク=ゴータ公国の名が冠されている家名を避け、1917年に王宮の所在地ウィンザーにちなみウィンザー家と家名を改称した。これらは別項で扱うが、ヴィクトリアの血統が断絶したわけでないため、ハノーヴァー朝の継続と見なされることもある。
女街のヴェルフ家の流れを汲むハノーヴァーの資金、ヴェルフ基金を普墺戦争の勝者ビスマルクのプロイセンが奪う。
これが英国の乗っ取りを決定的にするのです。
ロス茶の英国債売買も同時期に有りますが、実はこのハノーヴァーの資金没収が英国乗っ取りの決定打なんです。
そして、オーストリアからヴェネチアを奪ったイタリア側にいた人間。
これがサヴォイなんです。
サヴォイと英国がまったく繋がらなかったのですが、名無し先生のお導きにより、ジャコパイトに見いだす事が出来ました。
ジャコバイト王位継承者の一覧では、1688年の名誉革命によってグレートブリテン島を追われたジェームズ2世および7世王とその後継者、およびその支持者(ジャコバイト)が主張した、イングランドおよびスコットランドの名目的な王位の継承者を列挙する。ジェームズとその後継者たちに対する乾杯時の発声は「海のかなたの王(The King over the Water)」であった。
王位請求者
ステュアート家
名誉革命以後も、イングランド、スコットランド、アイルランドおよびフランスの王たることを主張した。
★いかがでしょうか?
このようにサヴォイが絡んでるんですね。
1824年1月10日の父ヴィットーリオ・エマヌエーレ(サヴォイ)の死にともない、長女マリーア・ベアトリーチェがジャコバイトの主張するところの「イングランド女王メアリー3世およびスコットランド女王メアリー2世」となった。
すごい話ですよ。
ロス茶による乗っ取り?
そんなんは表面的な出来事にすぎず、奥ではこんなことが起きていました。
この結果、日本に明治維新が起こります。
イギリスが起こす訳ですが、説明しましたように、オランダ、いや、オラニエ、サヴォイ、ヴェルフ、そして破れたはずのヘッセンが背後に居るのです。
ヘッセンは、普墺戦争でオーストリア側についていたとしかWikipediaには書かれていませんが、両方に付いてるんです。
このオラニエの出自がドイツのヘッセン家ですからね。
そして、これがオラニエ公=オランダ=プロテスタント同盟側=メーソン=東インド会社側となり、後ろに付いた南朝側が官軍になります。
欧州の情勢が一段落ついた後に明治維新が起こります。
日本政府はこれらの欧州のやりかたをお手本に明治政府を作ったんですね。
まとめますと、まず、17世紀にオランダ東インド会社での交易に於ける資金稼ぎがあり、18世紀になるとロス茶を矢面に立たせ活躍。19世紀にビスマルクがハノーヴァ王朝から没収した資金を貯えて、東南アジア諸国を植民地化した。
日本は植民地にはなっていませんが、事実上は欧州マスターマインドに操られていたんです。
ロス茶じゃないんですよ。
また、日本は世界の雛形であるという事が全く嘘であるということが分かると思います。
日本は欧米の影響で時代が変わっているというのが本当のところです。
超長くなりましたの、この辺で失礼します。
今回の記事では書ききれなかった事はテーマを変えて次回の記事にでも書きます。
それでは。
付録(勝手に転載)http://www.lcv.ne.jp/~kawahara/site1028/explanatns1.html