藤原氏の正体と野望
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最近知ったのですが、、、、
ガテン系ガールズグループ「フィフス・ハーモニー」は、2012年7月、オーディション番組『Xファクター』で優勝を逃した者たちで組まれたユニット。
下記の『Work it』はBillboard Hot 100で最高12位を記録。ベビメタちゃんの39位の上をいっているわけだが、まぁ、ベビメタちゃんの米国TVでの露出は深夜番組1回だけでコレであり、今後が楽しみなのだ(ふふふふ)。
(意外とアンチが多い、、、、Youtube評価で分かる)
このフィフス・ハーモニーから連想するのが藤原五摂家ですな(爆)。
江戸時代には摂関職を五摂家に文面(禁中並公家諸法度)で限定化させ、仲良く持ち回りしていましたが、明治期になるとイエズス会側に付いていた近衛家は没落し借金漬けとなった。近衛文麿は共産主義に嵌って覇権挽回を企てたが失敗し服毒自殺を図っている。
現在、3トップの一角は九条家のみですが、日本会議を通じ、戦後GHQの指導の元に3トップの一角を占めるに至った在日を締め出し、旧家を復活させて再び五摂家体制に持っていこうとしている。
明治維新でメーソン(九条家)、イエズス会(近衛家)側に分かれていた為、どちらかが残れば他家の救済が出来る訳であり、両建てするには3トップに最低2つのポジションを占めていないとならない。これが客家の手法。
この同族愛が和製フィフス・ハーモニーのハーモニーたる由縁です。
藤原氏はガテン系の正反対に位置する公家トップの家格ですが、この藤原氏の出自がずっと謎。しかし、最近よく読む「本物黒酢」(香港在住の画家の水原紫織さん)のツイを読んでいて謎の一厘が解けてきた。
いままで藤原氏の出自としてあるのは、、、
1)天神系・天児屋命(アメノコヤネ)を祖とする中臣氏末裔 【一般解】
2)藤原鎌足は進駐してきた唐軍将軍・郭務悰 【八切史観】
3)鎌足=百済王子・豊璋 【関裕二説】
4)鎌足=豊璋で、天智天皇の子を孕んだ妃(実母・皇極天皇)を賜り不比等が誕生 【語り部説】
1)は出雲社家の千家からコヤネからの40代分の系図を買って接続したに過ぎず、真っ赤な嘘である。それは神官一族である筈の藤原氏が春日大社と興福寺の2つを持っていることから伺い知れる。っていうか、両建ての観点からは2つ持たないと気が済まないのでしょう。
2)は白村江敗戦(663年)から幾分経った669年に「大唐が郭務悰ら2000余人を遣わしてきた」、671年11月にも「唐国の使人郭務悰等600人、送使沙宅孫登等1400人、総計2000人が船47隻に乗り比知島に停泊」と記されていて、郭務悰が日本に来たことは確かだが、藤原鎌足が沙門智祥を遣わして品物を郭務悰に贈ると対応しているので、鎌足と郭務悰は別人物だと思う。
3)は最も正しいと考えていた説ですが、百済系で中大兄皇子と懇意だった藤原氏が天武朝には冷遇されていたようだが、、何故、中央から排除されなかったのかが疑問。しかも、最近は名無し先生言説に感化されており、藤原氏=李氏という風に見ているので、百済系では辻褄が合わなくなってきている。
4)が一番エキサイティングな内容ですが、同母妹(間人皇女)との不倫関係にあった天智天皇なので、実にアリエール話だと思っています。
※当時は異母ならば結婚はOKでした。
このような状況下で出てきたのが、藤原鎌足=武士カクという本物黒酢氏の説。当然、武士カクは白村江敗戦で進駐してきた唐の流れになりますね。そうなると、天智天皇との談山神社での密談は嘘っぱちとなるわけだが、、、、
そして、この鎌足の娘が唐の後宮で側室となり皇后になった則天武后(武則天・武昭儀)なのだという。これが本当ならば、その後、唐の玄宗皇帝から寵愛を受けた楊貴妃が阿倍仲麻呂と共に安史の乱を逃れて日本に亡命してきたという伝説は本当にあったのかもしれない(滝汗)。
武士カク、則天武后の出自である武氏は、関隴貴族集団(武川鎮軍閥)の傍流だが代々財産家であったという。幼い頃の照(媚娘)は父から高度な教育を与えられて育った。この関隴貴族集団は北魏首都・平城を北の柔然から防衛する為に匈奴・鮮卑系の名族を移住させ軍政を行わせて防衛を行っていた。この6つのうちの1つが武川鎮軍閥。隋も唐も支配者集団は変わらず関隴系であった。則天武后も関隴系であったが傍流であり、当時もっとも家格が高いとされた山東の崔氏・盧氏・李氏・鄭氏の4姓による支配は変わらなかった。則天武后はその勢力の影響を削ぐ為に科挙を導入して人材登用した。
照(則天武后)は唐の第二代皇帝・太宗(天河汗)の後宮に最も位の低い側室として入り、権某術数を用いながら最後には后となった。大宗皇帝が亡くなった後、則天武后は女性の道士(坤道)となり道教寺院(道観)で修行することとなったが、その後、再び後宮に入り、三代皇帝・高宗の后となったという女傑。
道教寺院には、皇帝太宗の寵愛を受けた則天武后が649年に太宗崩御すると道教の道士となり、仙人の住む瀛州(日本)で出産し、その地で修行をしたという伝承が残っている。
この則天武后が藤原鎌足の娘であるということなのだが、全く唖然としてしまう程の衝撃的な内容です。
※鎌足には氷上娘、五百重娘、耳面刀自、斗売娘の4人の娘がいたが、このどれかなのだろうか?
つまり、藤原不比等の姉が則天武后ちゅ~わけだす。
(中国№1女優のファン・ビンビンが演じる則天武后)
実は、この説には裏付けがあって、能の『海人/海女』のストーリーでは以下のようになっている。
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藤原不比等[淡海公]の子、房前(ふさざき)の大臣は、亡母を追善しようと、讃岐の国[香川県]志度(しど)の浦を訪れます。
志度の浦で大臣一行は、ひとりの女の海人に出会いました。一行としばし問答した後、海人は従者から海に入って海松布(みるめ)を刈るよう頼まれ、そこから思い出したように、かつてこの浦であった出来事を語り始めます。淡海公の妹君が唐帝の后になったことから贈られた面向不背(めんこうふはい)の玉が龍宮に奪われ、それを取り返すために淡海公が身分を隠してこの浦に住んだこと、淡海公と結ばれた海人が一人の男子をもうけたこと、そして子を淡海公の世継ぎにするため、自らの命を投げ打って玉を取り返したこと……。語りつつ、玉取りの様子を真似て見せた海人は、ついに自分こそが房前の大臣の母であると名乗り、涙のうちに房前の大臣に手紙を渡し、海中に姿を消しました。
※註 古語の妹は姉、妹の両方を指す言葉
http://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_024.html
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則天武后は中国史上唯一の女帝ですが、天皇という道教用語を初めて導入したことでも知られる。それまでの皇帝・皇后から天皇・天后とすることで、皇后の政(まつりごと)に対する関与がより強力なものとなった。非常に頭が切れる女性ではあったが、自分の子を殺して后の地位を手に入れる...等、冷血非情な女性で中国三大悪女として知られる。
この天皇という名称は、日本でもそれまでの大倭から「日本」へと国名を改めた天武天皇が大宝律令で「天皇」号が法制化される直前から使い始めた名称ですが、ここに何らかの繋がりがある筈。
実は、その日本という国号も則天武后が与えたと中国の史書『史記正義』(唐の張守節著 736年成立)には「武后改倭國為日本國(武后が倭国を改め日本国と為す)」「倭國武皇后改曰日本國(倭国は、武皇后、改めて日本国と曰い)」と記されているが、遣唐使の粟田真人が謁見の折り(空海も随行)、国号を「倭国」を改め「日本」にしたいと申し出た。則天武后が「日本」と命名したかまでは分からないが、承認を与えたのは確かだろう。
※津軽の安藤氏も天皇認定で「日之本将軍」を自称し、また豊臣秀吉の手紙でも奥州を「日本」と表現したように、オイラは日本の名の大元は奥州の「日之本」だと思っているが、、、
白村江の戦いで負けた倭・百済連合軍のその後は、百済は滅亡し、倭は進駐軍を受け入れた。進駐の証が大宰府に置かれた筑紫都督府です。当然、負けた天智天皇は周囲を高い山に囲われた近江大津京に逃げ込み、668年1月に天智天皇として即位している。その後、壬申の乱で天武天皇が勝ち、大宝律令の発布。その後も唐の都「長安」を模して坊条制からなる藤原京や平城京が造られ、段々と中華色が濃くなっていく。
ここに唐の関与を強く感じる。
天武天皇は頻繁に吉野に行き、道教修行したというが、多分、ここで唐から密約を受けていたのだろう。そして蜂起したのが壬申の乱。
藤原不比等は実は鎌足の子ではなく、天智天皇の落胤であるとの説があって、『公卿補任』の不比等の項には「実は天智天皇の皇子と云々、内大臣大職冠鎌足の二男一名史、母は車持国子君の女、与志古娘也、車持夫人」とあり、『大鏡』では天智天皇が妊娠中の女御を鎌足に下げ渡す際、「生まれた子が男ならばそなたの子とし、女ならば朕のものとする」と言ったという伝説(実際に男子=不比等が生まれた)を伝える。『帝王編年記』『尊卑分脈』などの記載も同様である。(Wikipediaより抜粋)
その孕んだ妃(鏡王女)を皇極天皇(宝女王 重祚して斉明天皇)としたのが語り部ですが、オイラもこの説に従っていましたが、二度も天皇位にあった者であり実母を下賜されるという点はずっと疑念を抱いていた。
※鏡王女の素性は謎に包まれており、鏡王の娘である額田女王(天武天皇妃)の姉という説があるが、『日本書紀』等には2人が姉妹だという記述はない。鏡王女=額田女王という説もありますが、額田女王は壬申の乱の功績で藤原(中臣)大嶋に藤原姓と袴を下賜したと語り部は説き同一人物ではなさそう。そこで出てきたのが宝女王の下賜ですね。
孕んだ則天武后が父親・鎌足の元への里帰り(?)した話が、天智天皇の子を孕んだ女御下賜の伝承の元になったのではないだろうか?
そうなると、、、不比等は則天武后の子であり、その父親は二代皇帝・太宗。つまり、藤原氏は唐王朝の血筋ということになる。藤(とう)氏が「唐」から来ているという根拠にも為り得る話だが、日本のオーナーは日本人の顔をした渡来人であり、国を跨いた少数民族支配という名無し先生の話と一致する。
鎌足が長子・定恵を差し置いて、血筋のよい二男(本当は孫)の不比等に家督を譲った理由もこれで明確になるし、藤原氏が豊臣秀吉を養子に迎え関白職を譲ったが、その引換条件として朝鮮出兵を行ったのも、明治から大陸に進出(半侵攻)したのも、唐の再興という藤原氏の野望があった故だろう。
則天武后の名は照であり、藤原氏がそれを称える為に天照大神を創設したというのだが、、、、確かに明治維新になるまで天皇は誰1人として伊勢神宮に参拝していない。ここが藤原氏の祖を祀る廟であったからでしょうか?
そして、この武氏は鮮卑(烏桓と同族)であるという。鮮卑は紀元前3世紀から6世紀にかけて中国北部に存在した遊牧騎馬民族で北魏を建国している。唐は漢族の王朝と云われていますが、実際には鮮卑の王朝。数代前に中国に防衛の為に移住し特権を持った貴族(関隴貴族集団)から興っています。
その唐を打ち立てたのが李淵であり、漢民族末裔であることを主張していますが、これは中原を支配する正当性を主張する為に為されたものであり、実際は鮮卑系の出自。
そして、同族の烏桓では「棟梁」を意味する騎馬民族の言葉が「タイラ」、、、こちらは藤原式家に関わってくる。
やっと見えてきましたね。
李淵(高祖)-李世民(太宗)-藤原不比等-房前(北家)-・・・・-五摂家
という系譜であり、つまり藤原氏=李氏。そして李氏とは「Levy レビ族」の漢字名でもある。これが和製フィフス・ハーモニーの正体。人形峠のサンカ(山窩)で蘭学者の箕作奎吾を祖とする現天皇家よりずっと貴種となってしまうのだが、、、(汗)
実は、秦の始皇帝も鮮卑であり、同じく「赢」という姓を持つ徐福も鮮卑。中国五帝の一人とされる少昊から「赢」姓は始まっている。少昊から出た姓として、嬴、梁、桑、秦、谭、徐、黄、江、李、赵、萧、舒...等がある。つまり、秦の始皇帝も徐福も少昊の子孫ということ。
この少昊(しょうこう)は東夷族の領主で黄帝の子。ピラミッド(金字塔)に埋葬されたと云われるが、それは東海の外れの瀛州だとされる。
東海三神山の瀛州山の名は、ここに起源がありそうですね(ふふふふ)。当然、オイラが瀛州山だと比定する石巻山はピラミッド型の山であり、そして東海三神山のある東三河はV字谷の中央構造線が走る神仙の地であり、道教の聖地でもあることから、石巻山は中国五帝の少昊の陵墓だと睨む(笑)。
日本最古の神社である大神神社が石巻山を「奥の院」として崇める理由にもなる内容です。
(石巻山)
『山海経』において、一目人は少昊の末裔の一族であると記されていますが、以前オイラが霊視した石巻山の姿と関係していて驚愕ですwww
(一目人)
■たたらの神 (煩フル過去記事)
http://aioi.blog6.fc2.com/blog-date-200911.html
藤原不比等と唐の只ならぬ関係は、唐が送ったという3つの宝物に現れている。国ではなく寺院に贈り物をしている点が非常に面妖であり、則天武后の話に真実味を添える。
能の『海士』によると、、、、
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天武の昔、淡海公藤原不比等は、唐の高宗妃から送られた面向不背の玉が、志度沖で竜神に奪われたため、身分をかくして都から志度の浦を訪れ、純情可憐の海女と恋仲になり、一子房前が生れた。淡海公から事情を明かされた海女は、瀬戸の海にもぐり竜神とたたかい玉を取り返したが、竜神のため傷つき真珠島で命を果てた。
今度は藤原房前が亡き母のルーツであるという讃州志度浦を訪れると、一人の海人が現れ「藤原不比等公の御妹が唐の帝の后になった折、三つの宝が唐から贈られましたが、そのうち『面向不背の玉』だけは、竜宮に盗られてしまいました。そこで不比等公は忍び姿でこの浦に下向され、賤しい海人と契ってできた子が房前であると明かす。
房前の母が竜王に盗られた明珠を取り返すため海に潜り、自らの命と引き替えに玉を取り返したさまを再現する。そうして、自分こそその母の霊であることを明かすと、海人は房前に手紙を託し、海中へと消えていった。手紙には自分があの世で苦しんでおり、供養をして欲しい旨が綴られていた。房前が供養をしていると、今や竜女に変身した母の霊が現れ、法華経の功徳によって救われたことを喜ぶ。
藤原不比等公の御妹(紅白女)が唐の帝の后(則天武后)になった折、三つの宝が唐から贈られたとある。このうち二つは無事興福寺に到着し、残るひとつは讃岐志度の沖で竜王に盗られた。
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3つの宝物の由来と藤原房前の誕生譚が語られている。史実では房前の母は蘇我娼子であり、 武智麻呂、房前、宇合を生んだと云われる。決して海女ではないのだが、、、、(笑)
で、この3つの宝物とは、、、、、
■金鼓華原磬
袈裟を掛けるまで鳴り止まない楽器
■花原磐泗濱石
墨をすると水が湧き出てくる硯
■面向不背の玉
どこから見てもその像が正面を向く釈迦如来像を収めた玉(厨子)
(花原磐泗濱石の画像は見当たらなかった、、、)
この3つの宝は唐の皇帝・太宗から送られたとあるが、不比等の手によって興福寺に収められており、ただ、面向不背の玉は金堂の釈迦像の仏頭の中に安置されたが、平安末期に焼失したとされていたが、昭和51年(1976年)滋賀県竹生島の宝厳寺に安置されていたことが判明。玉以外の2つは現在でも興福寺に収蔵され、面向不背の玉は竹生島宝物館に収蔵されている。
この唐の全面バックアップがあった為、藤原氏は廷臣トップの家格にまで上り詰めたのであろう。
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藤原氏の正体と野望
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