煩悩フルスロットルさん最新、賀茂氏。マヨのぼやきさんところの、S氏や名無し先生、飛鳥説と比較して参考になりますね。Φ(´゜π゜`)φ
http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-2685.html
語り部内容の系図を書いていてふと気づいたことがある。
それは神祇氏族である賀茂氏のことです。
語り部説では賀茂氏発祥は神虫(カムイ)麿で、一般的には「鴨蝦夷」として知られる者だという。この神虫麿が壬申の乱の戦いで天武軍に従軍して勝利を収めたので、記念して三川(東三河)の照山に社を建て「神神社」として祀ったのが始まり。その後、社は元からあった「王伴神社」とともに麓に遷座され、創建されたのが豊橋賀茂神社。つまり、賀茂氏発祥は三川であると以前の記事に書きました。
※八名郡照山の南麓には、元々、大伴氏の祖神・大伴明神が祀られており、その後、賀茂別雷神が勧請された。旧八名郡に鎮座する賀茂神社について、、『賀茂本記』に「三河大伴直、白雉元(六五〇)年、八名郡大照山の草木を掃い云々」と記されているという。
■鴨蝦夷
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%A8%E8%9D%A6%E5%A4%B7
確かに、それはそれで間違いはない。
しかし、賀茂氏には天神系と地祇系の2種があり、「天神系」は京都の上賀茂神社・下鴨神社の社家で京都の葛野を出自とする賀茂県主系。祭神は賀茂別雷神(上賀茂)と玉依姫命・賀茂建角身命(下鴨)であるが、玉依姫命と賀茂建角身は賀茂別雷神の母と祖父であるとされる。
※出自で分けると、賀茂県主系、高賀茂系、播磨賀茂系の3種あるという。
もう1つは奈良県葛城の高鴨神社の社家の鴨氏、通称・高賀茂氏ですが、祭神は迦毛大神(アヂスキタカヒコネ)。その他として事代主命(一言主、葛城垂見)も配祀している「地祇系」。「迦毛大神」は大国主命(荒田別)と宗像三女神のタキリビメの間の子とい云われることから、高賀茂氏とは出雲王朝系の家系であることが分かる。
(高鴨神社 この上の高台には高天原と云われる平地がある)
実際、語り部は出雲王朝直系末裔の葛城氏である鞍作毛人(蘇我入鹿)の次男・大田田禰子の子である神虫麿(鴨蝦夷)としているので、完全に符合する。この地祇系統からは陰陽道の賀茂忠行(清明の師匠)が出ているが、末裔は徳川家康の出自である松平郷の松平氏にも繋がるのです。徳川が賀茂氏(鴨氏)と云われる所以でもある。
オイラが神虫麿で述べたのは、どうも後者の高賀茂氏のことであったようだ(滝汗)。
この2つの系統の賀茂氏は別種だとも言われるが、『山城風土記』には、「葛城を離れ、山代岡田を経て、乙訓の久我に入りその山手(現在の長岡京)に落ち着きその後山代葛野郡に入り最終的には愛宕郡の現在賀茂神社あたりに落ち着いた」と記されていて、どうもハッキリしないのです。「カモ(賀茂・鴨・迦毛)」とは「カムイ(神)」から来る言葉であるのは間違いないしと睨んでいますが、鳥系の姓は神祇祭祀者が天と地を繋ぐ者である故に相応しい姓でもある。
以上のことから、神祇を扱う者に対し平氏や源氏のように恩賜姓として与えるものが「賀茂氏」なのかもしれない。そう考えれば、源氏のように祖が異なるのも当たり前となる。飛鳥昭雄氏の説はこの2つの賀茂氏がごちゃ混ぜになってしまい混乱している感じがしますね。まぁ、どちらも陰陽使いという点では共通しており、高賀茂(鴨氏)が道教をベースにした表の陰陽道なのに対し、賀茂県主の方は裏の陰陽道である漢波羅ですが、これはユダヤ教の奥義カバラと同じもの。
さてさて、賀茂県主の祖・賀茂別雷神は記紀にも記されていない神ですが、賀茂別雷神を祖先とする賀茂県主系が大嘗祭などの天皇重要祭祀を一手に取り仕切っている点からも実に謎の氏族。この日本最大の謎が分かれば、日本建国の秘密が分かるとも云われる所以です。
下鴨神社境内には、摂社・河合神社があり、ここの末社「任部社(とべしゃ)」と呼ばれる八咫烏(やたのからす)をまつる神社がありますが、飛鳥情報では日本の古代からの秘密結社・八咫烏はこの下鴨神社に属していると云う(ふふふふ)。社伝では八咫烏とは賀茂建角身命のことだとされているが、確かに、建角身命と玉依姫を祀る下鴨神社には八咫烏神社があって、上賀茂にはないわけですね。
語り部によれば、八咫烏とは壬申の乱の200年前、三川の照山で徐福国(大漢国・扶桑国)討伐に出向いた初期大王家の倭讃(景行天皇)が本陣を置き、ここで徐福国首脳との会談を開いた場でもあるが、この照山(捕鳥山)の周辺の弥生人を恭順化させ、初期大王家の味方にしていたがこれが八咫烏。元々は鵜匠を頭にスリーマンセル(3人1組)で行動する鵜飼たちのこと。その黒い衣装と3人1組から「三本脚の大きな(八咫=150cm)烏」とされたという。
※鵜飼いは全国10何か所あるが、何故、古事記の時代から続く長良川系の鵜匠だけが国家公務員(長良川6人、愛知県犬山が2~3人)なのか?の謎が、これで解けてくるw
また、同じく八咫烏をトレードマークにしているのが熊野大社ですが、ここに祀られている熊野大権化とは実は徐福のこと。そして徐福国にある太陽が産まれるという扶桑樹を目指して日本列島に大挙して大陸から渡ってきたのが倭人と呼ばれる長江出身の中国人(苗族)であり、これが弥生人の正体ですが、この倭人が九州から上陸して三川の徐福国を臨む地にまで進出し魏の調停を後ろ立てに無理矢理建国してしまったのが邪馬台国と記される倭国です。
太陽には烏が住んでいると伝承されていることから「烏(カラス)」とは恭順化した弥生人を指す言葉であると語り部はいう。
万葉集に神武天皇が詠んだ一首があるが、神武東征とは邪馬台国討伐と徐福国討伐時の内容をまとめて記したもの。
楯並(たたな)めて 伊那佐の山の 木の間よも
い行きまもらひ 戦えば われはや餓(え)ぬ
島つ鳥 鵜飼いがとも 今助(す)けに来ね
(現代語訳)
楯を並べて射るという、伊那佐の山に登り、樹の間から敵をうかがいつつ行軍し、戦ったので、俺はもう腹ぺこだ。鵜飼いの仲間どもよ、はやく助けに来てくれよ。
豊橋の横に三ヶ日みかんで有名な引佐郡(現・浜松市北区)があるが、徐福国討伐も終盤に差し掛かった頃、徐福国の本隊が引佐山に逃げ込み、そこでの戦いが上のような逼迫した状況であり、鵜飼(八咫烏=恭順化した弥生人)が食料を運び込んだことで、辛くも戦に勝ったという話。この時から八咫烏は大王家を護る、つまり、天皇制護持の請け負う秘密組織(弥生人故に外観的にバレ難いという利点あり)となったのであろう。
※照山近くに江島という地名があるが、かつてここは「鵜飼島」と呼ばれ、照山を守る神社として神武天皇の主戦力をなした天忍日命を祭る大伴神社があった。この大伴神社はその後、照山、豊橋賀茂神社に遷座した。ちなみに大伴氏(王伴氏)の太祖は金露首・九男の倭武日で「天忍日命」である。
天神系、地祇系のいずれの賀茂氏も三川の照山(捕鳥山)での事跡が発祥であることには変わりはない。
天神系・・・徐福国討伐時の本陣、恭順化した弥生人=八咫烏の起源
地祇系・・・壬申の乱での戦勝記念で神虫麿が「神神社」創建が起源
この2つの賀茂氏が上と下からサンドイッチ!しているのが日本という国。
三川の照山(捕鳥山)のある豊橋市章は▽と△からなることを何度も書きましたが、この照山の事跡を暗示しているかのような図案ですね(ふふふふ)。また上下賀茂神社のある京都市の市章はダビデの星(六芒星)を彷彿とさせる意匠。京都北部の丹波の福知山市などはそのものズバリの六芒星となっている。
今でも日本の真の都は京都ですが、これは皇統奉公衆の本拠地が京都であることからです。実際、遷都宣言もされておらず、東京は東方面へ行幸した行宮地に過ぎないのです。いずれ天皇は京都に戻ってくる筈ですが、3.11の原発事故被災がその契機になるであろうことは誰もがウスウス感じていることですね。
飛鳥昭雄氏と面会した八咫烏の人の話では「賀茂氏とはレビ族だ」と自称しているそうで、このことから飛鳥氏は賀茂氏は忌部末裔であると断じている。しかし、語り部の話の内容かからは、どうも賀茂氏の祖・賀茂別雷神の妻の父(建角身命)とは、弥生人のような感じがしないでもない(笑)。
忌部氏の祖は忌豊富であると語り部はいい、倭旨(金首露)が列島渡来時に連れてきた八柱(子供、少名彦名)の一人だという。この忌豊富とは記紀では「天富命」と記される者であろう。天富命は天太玉命の孫であり、天太玉命の配下には五神がいて、それぞれが全国に散って各地の忌部氏祖となったという。天富命は阿波の土着した天日鷲命【阿波忌部氏】を伴ってさらに東国に赴き、そこに太玉命社を建立して移住先を阿波と同じ読みの安房国と称したという。
(天太玉命の孫)
・天富命 【安房忌部氏】
(天太玉命配下の五神)
・天日鷲命 【阿波忌部氏】
・手置帆負命 【讃岐忌部氏】
・彦狭知命 【紀伊忌部氏】
・櫛明玉命 【出雲忌部氏】
・天目一筒命 【筑紫・伊勢忌部氏】
天太玉命とは、王治王朝を開いた倭得玉のことでもありますが、上の伝からは忌部氏は王治王朝廃止時に神祇継承させた物部氏と同族となる。「忌部と物部は同族なり」と八咫烏がいうのも納得ではある。ただ、忌豊富(天富命)に関しては、語り部は金露首の子と記しており、また、倭得玉、倭仁、倭豊玉、倭武日らのように六男、七男、八男、九男というような子を示す表記はなく、本当に金首露(扶余依羅)の子供なのか判然としない。しかし、血縁ではない天太玉配下の五神は間違いなく神祇祭祀氏族の者であり、これがレビ族の者であるというのは納得の行く話だ。
では、忌部氏と古代祭祀を争った中臣氏はどうか?
中臣氏は丹波道主から別れた氏族で鹿島神宮・香取神宮の神官になっている。その後の八綱田【出雲王朝一代目】の時に分家したのが海部氏であり、そのまた分家が度会氏。海部氏の籠神社も度会氏の伊勢外宮も出雲系神社であるのが、ここから分かりますね。
話が忌部氏や中臣氏にまで及んでしまったが、ここで話を元の賀茂県主に戻そう。
『山城国風土記』によれば、賀茂建角身命と伊可古夜日女(いかこやひめ)の間には玉依彦と玉依姫の二子があったが、ある日、玉依姫が小川で遊んでいると上流から丹塗りの矢が流れて来て、彼女はこれを家に持って帰って床に置いたところ懐妊して男の子・賀茂別雷命を産んだという。これが賀茂県主の祖。子供は大きくなて、7日7晩の宴会時に祖父・建角身命から本当の父に酒を飲ませよと言われるや否や、男の子は天井を突き抜け天に昇っていった。これにより丹塗り矢の正体は乙訓郡の火雷神であることが分かり、彼は「賀茂別雷神」と名付けられたという。これが「丹塗り矢伝説」と呼ばれるものですが、似たような話が奈良県桜井市の大神神社にもあるが、こちらは川から流れて来た「丹塗りの矢」がホト【女陰】に刺さって死んでしまう。
この丹塗りの矢は、「丹」で水銀(辰砂)を求めて山の民である縄文人(アイヌ人)を示し、「矢」で騎馬民族スキタイを示している。つまり、縄文人に渡来要請された騎馬民族スキタイ(初期大王家)が「丹塗りの矢」の正体なのです。
(丹塗りの矢が突くのは必ずホトと決まっている)
この火雷神は松尾大社の祭神・松尾大神でもある。京都嵐山にある松尾大社は秦氏系神社ですが、秦伊呂具=賀茂伊呂具、秦鯨=賀茂久治良、秦都理=賀茂都理らが同一人物であるように秦氏と賀茂氏(天神系)は婚姻を通じて一体化しているのはよく知られているところ。まぁ、平安京を造成する際に秦氏と賀茂氏の領地を寄進して京都は作られたといいますが、御所(今の御所の500m西側)は元々秦氏の屋敷があったところ。御所と上下賀茂神社は鴨川を挟んで、こっち側と向こう側に分かれていますが、多分、秦氏と賀茂氏の領地境界線が鴨川だったのであろう。 葛野郡【嵐山のあたり】と愛宕郡【北区・左京区】は賀茂県主系の出自とされている場所なのです。
※賀茂上下神社のある地域は、かつての愛宕郡。
もう1つの本拠地は乙訓(おとくに)群ですが、ここはは京都南方の長岡市の南側に位置し、京都競馬場とサントリー山崎蒸留所の挟まれた地域。かつて、ここには継体天皇の宮があったとされる場所でもある。
ちなみに、サントリーの名は創業者の鳥井信治郎の「トリイさん」を逆にしたという俗説がありますが、本当のところは「太陽(サン)と鳥(カラス)」であるという。サントリーも三井家と同様に八咫烏=皇統奉公衆に関わっていそうです(ふふふふ)。
※実際、サントリーは独立色は強いが三井グループに属している。
(サントリー・爆)
この乙訓の名は葛野(かどの)郡から分離した際に、元の葛野を「兄国」、分離した方を「弟国」としたことに由来すると云われ、弟国評の木簡が出土したことから大宝律令(701年)以前には既に兄国評と弟国評として分れて存在していたことが分かります。
何故、兄・弟と名付けられたのか? オイラが思うに地祇系の縄文アイヌ人系の出雲王朝直系の葛城氏や秦氏はエドム人というエサウ末裔の兄部族であり、騎馬民族スキタイの初期大王家はヘブル人のヤコブ末裔の弟部族であるところから来ていると睨んでいる。
この地名から賀茂県主とは初期大王家の血筋の者であることが分かる。
実際、賀茂神社の伝えるところによると、賀茂県主の太祖は「天神玉命」から始まるという。これは先に述べたように、天照大神の岩戸開きの神事に由来する神の名で「天児屋命」が丹波道主、「天太玉命」が王治得玉(尾張氏の祖)、「天櫛玉命」が小治豊玉(宇佐氏の祖)であることから、似ている「天神玉命」もこの時の名であることは容易に推測できる。しかし記紀や『先代旧事』や 『新撰姓氏録』にはこの名はない。ただ、似ている「天神立命」というのはあるが、、、、
この「天神立命」とは大倭豊王朝二代目の倭仁のことであろうとオイラは思っているが、、、、
「天神玉命=天神立命」ではないのか?
以上のことから、賀茂県主の出自は大倭豊王朝(倭仁)の分家筋で祭祀を扱うようになった氏族に遡ることができるのですが、この氏族には配下として徐福国討伐時に恭順化させた弥生人(八咫烏)が宛てがわれたのかもしれません。だからこそ、そのトップが「八咫烏」と呼ばれたのかもしれない。まぁ、あくまでこれは推測です。
やがて、この「恭順化した弥生人=八咫烏」が秘密結社化していくが、これが飛鳥氏のいう秘密結社「八咫烏」。オイラが思うに、この八咫烏が穢多・非人・サンカ等の「まつろわぬ民」をまとめていると思うが、その組織形態はクズシリ、クズコ、ムレコの各親分(やぞう)として3人がサンカの頭領(アヤタチ)がいて、それが秘密結社「八咫烏」の裏天皇であり、更にその上には大親分(おおやぞう)と呼ばれる大烏がいると云われる。現在は下鴨神社の大宮司、鎌倉八幡宮の大宮司、熱田神宮大宮司の曾孫の広瀬祐也(フリーメーソン33位階)の3人が裏天皇だとされている。
大烏とは、金鵄であり、現在はKという人物だというは、、、トビは猛禽類であり鷹の仲間でもあり、八咫烏の「烏」とは自ら異なる系統に属する。「白い鷹」とも呼ばれる秦氏のことが「金鵄」であると云われるが納得のいく話です。秦氏とは三川の徐福技術を継承して殖産興行的に経済を成り立たせ国体を側面支援する一族らの総称であり、垂直的な血胤的氏族ではない。まぁ、賀茂氏と秦氏、藤原氏と秦氏のように姻戚関係を結んでいることは間違いないが、、、強いていえば、この国に古代から存在する皇統護持のインナーグループ。それは藤原摂関家、三井財閥、賀茂県主...いろいろな氏族にまで跨っている筈です。
※賀茂県主系の賀茂氏は、初期大王族が持ち込んだレビ族・忌部氏の神事を継承し、更に、出雲系神社の籠神社の「藤祭」を奪って「葵祭(旧・賀茂祭)」として定着させ、出雲王朝最後の王・荒田別の子・縣主塩古以来の「蚕の社」の神事を「糺の森と」共に下鴨神社に移した。こうして各氏族に伝わる様々な神事を担わせるようにして賀茂神社神事は増強され、国体護持を標榜する皇統奉公衆の牙城とされていったのであろう。八咫烏をシンボルとする件の熊野本宮にしても、賀茂県主系と表裏関係にある高賀茂(役小角が祖)-吉野(蔵王権現は役小角が見出す)-熊野というラインで抑えているのだろう。これが臣民を使役する長吏として穢多・非人を使い、下層民(被支配者階層)をそこから決して抜き出せない「メビウスの輪」のようなエンドレス状態にして、その上に支配者層が君臨するという「天皇-エタシステム」の全貌。この要が下鴨神社であるとなる。
つまり、秦氏=皇統奉公衆である。
(旗竿の白黒が八咫烏、先の金玉が金鵄、旗が天皇家=天照大神の末裔を示すという日本の国旗。旗は旗竿が無ければ棚引かない。秦氏の「秦」とは秦の始皇帝の大陸技術=徐福国の技術の「秦」を示す以外にも「旗(幡)」という意味もあった。)
さてさて、以上、賀茂県主の出自について洞察して述べてきたが、1つは初期大王家(扶余系)に繋がることは間違いなさそうなのですが、百済系大王の世となっても隆盛を極めているのはチトおかしい気がする。やはり肝心な部分は未だに謎なのです。ここに公式な記録では決して知れない改竄・隠蔽が施されていると感じる。
う~む、一体、どの氏族と接続したらいいのやら、、、(滝汗)
語り部は「(兄である草香と敵対して破って)こうして目は王朝の警察任務を賜る。記紀の物部目の事で彼の息子から、熊野氏・賀茂氏・荒山、荒甲・・火矢の名手が出る。熊野氏…実名熊野乙世は、賀茂大角とも言う大物主系賀茂氏祖」と云っていることがトドメのヒントとなった。物部氏から賀茂氏(天神系)が出ているのだな、、、(ニタリ)。
で、賀茂県主の系図を記すと、、、こうなる。
(扶余系を出自とする神祇氏族【賀茂県主】が、百済系天皇を護持する点が未だに謎なのだが、、、国体護持という観点からは、既に滅亡してしまった扶余系を立てることを諦めたのかもしれない。それが桓武天皇の平安京遷都時の秦氏との婚姻を通じて土地提供につながったのではないのか? この業績で大伴氏・宇佐氏・尾張氏・物部氏・紀氏・忌部氏・橘氏、、、等の他の初期大王家血族とは違って、中央で生き延びることが出来たのかもしれない。そして、賀茂県主系の賀茂氏はレビ族である忌部氏神事を継承しつつ、他の氏族の神事を盛り込みながら皇統(国体)護持の牙城化したのだろう。)