煩悩くんフルスロットルさんの、名無し先生考察シリーズ、最新も参考になりますね。Φ(´゜π゜`)φ
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未だ語り部言説と名無し先生の論説との擦り合せに四苦八苦しております。
語り部説の優れた点は、徐福、邪馬台国からの歴史をスムーズに説明可能な点。ただ、語り部も家伝(?)をベースに自らの研究内容を補完した形跡が多々あり、特に一般流布されている「ミ・ガド(ガドから)→ミガド」「狛犬→一角獣→エフライム族」という「日ユ同祖論」の内容に影響を受けた感じで、あまり根拠がないまま「初期大王家(地祇系)=ガド族、後期大王家(天孫族)=エフライム族」にしているとも思える。
※日ユ同祖論以外にも、ベニスの商人=ユダヤ人という話や始皇帝の実父が商人の呂不韋であり、それは「ヘブライ人」であるという説からも、こういった歪められた刷り込み(?)が起きる。
この比定では扶余国→新羅(秦韓)から列島渡来してきた初期大王家を輩出した民族は、北イスラエル滅亡後にアッシリア捕囚され、そのアッシリア陥落後にシルクロードを延々と大移動して扶余国まで民族大移動したことになるが、そのような文献記録がない点で弱い。騎馬民族スキタイと合流同化して移動したのか? あるいはアイデルバーグが提唱した「シルクロード商人=ユダヤ」のように商隊に合流し商業的に営みながら移住を図ったのか?
だが、実際にシルクロードの交易ルートを経済支配したのはイラン系民族のゾグド人であり、決してユダヤではない。彼らはオアシス国家を支配統治していて、ここに他民族が入り込む余地はない。中国では彼らのような西方異民族のことを専ら「胡人」と呼ぶが、大方はソグド人のことを指す。
しかし、名無し先生が奉公衆から聞いた内容は、、、
シルクロードはペリシテ人(客家)が作り上げた交易ルートであり、階段式神殿などの灌漑施設(オアシス)はエジプト由来の土木技術を駆使して彼らが作り上げた。この隊商を唄った『月の沙漠』の「金と銀との鞍置いて・・・」という部分に、現代の通貨制度の原点ともいえる硬貨に関する示唆があるとのこと。
これが本当ならば、「ソグド人=シルクロード」という等式がもろくも崩れ去ってしまう。
通常、シルクロードは経済支配したソグド人が作り上げたように見えるが、ソグド人がシルクロードを支配したのは4~8世紀。しかしシルクロードのオアシス都市の灌漑施設の建設は紀元前であり、そこには数百年の時間的ギャップがありソグド人が作り上げたものとは言い切れない。一方、ペリシテ人がパレスチナの地を追い払われたのが紀元前7世紀。まだ、こちらの方がまた可能性がありますね。
つまり、ペリシテ人が作り上げた交易ルートをその後ソグド人が継承(簒奪)したのか? あるいはペリシテ人=ソグド人なのか? 何かペリシテ人とソグド人を結ぶ線があるのか知りたいところです。
ソグド語(現在は死語)は中世イラン語や中世ペルシャ語に属する言語ですが、一方、ソグド文字はアラム文字の草書を元に考案された。同様にフェニキア文字、ヘブライ文字もアラム文字から派生している。ソグド人がシルクロードを支配した為にソグド語・ソグド文字は中央アジアの国際共通語となり、それ故、ソグド文字→ウイグル文字→モンゴル文字→満州文字へと文字が派生創作されていった。ソグド人はソグド文字という立派な文字を持ちながらも自らの歴史を書き記すことがなく、その社会の実態は謎とされてきた。
※日本語のカタカナがヘブライ文字にそっくりという話がありますが、そうなるとカタカナはアラム文字の仲間となりますね。
以上のように、ペリシテ人はソグド人である可能性も無きにしもあらずといったところ。ただ、その間には1000年近い時間的ギャップがあり、等式で結ぶにはこの期間の穴埋め作業がどうしても必要。
ソグド人の身体的特徴は色黒の肌、深目、高鼻、多鬚。宗教的にはゾロアスター教を信仰。「安」「史」「康」「米」「何」という姓はソグド人だと云われ、唐の玄宗皇帝に対しクーデターを起こした安禄山はソグド人だったという。「昭武九姓」と呼ばれる9つのオアシス都市国家の国王は全てゾグド人だったが、彼らの祖先は月氏。紀元前2世紀、敦煌付近にいた月氏はに匈奴に駆逐されて二手に別れ、ひとつがイシク湖周辺へ逃れて大月氏、もうひとつが南山羌(現在の青海省)に留まって小月氏となったという。ゾグド人はこの大月氏の末裔。
※小月氏の末裔が中原から下ってきたと云われる客家ではないだろうか? そして、ある一族は北方に行き朝鮮半島経由で日本に来た。これが初期大王家か?
(トンガリコーンのような帽子がソグド人の特徴)
ソグド人の色黒の肌という箇所にハム系ミツライム人の名残を感じるのだが、、、、
で、このソグド人が日本に来ていた。それが安如宝(如法)という僧侶で碧眼(青い目)だったという。元々、彼は孤児であったが、唐の律宗の僧鑑真に拾われて師事し、鑑真とともに754年に日本へ来朝。東大寺戒壇院で受戒後、下野国薬師寺に戒壇が設置される時に日本には授戒可能な僧侶がそれ程いなかった為、下野国(栃木県)へ派遣された。しかし鑑真の死により唐招提寺に戻ったという。
この安如宝が浅草寺を創建したコーヒールンバに唄われるペリシテ人僧侶、、、
勝海上人だったのかもしれません。
※ただし、浅草寺創建は645年であり、若干時間的差異(100年)があるのだが、、、(汗) 浅草寺が創建年を古くサバを読んでいるだけかぁ? それともそれ以前に別のペリシテ人僧侶が来ていたのだろうか?
さてさて、話は大月氏に戻るが、、、
大月氏は5つに別れたが、貴霜翕侯(クシャンきゅうこう)が他を滅ぼし君臨。これがクシャナ朝であり、この王朝の後継王朝がキダーラ朝でいずれも中央アジア~北インドまでを支配した。この流れが後のソグド人へと繋がる。
大月氏らはコインを発行していたが、クシャナ朝が支配的だったことで最大発行枚数のコインはクシャーナ朝のコインとなり、広く中央アジアに流通していた。これらのコインが瓶(かめ)に入れられ、オアシス都市間の決済の為にシルクロードを行き来していたのかもしれません。
あるいは、金と銀の瓶がヒモで結び付けられていることから、地域による金と銀の交換レートの違いによるサヤトリを暗喩しているのかもしれません。
※実際、この交換レートの違いで日本は江戸期に莫大な富の海外流出を経験した。その仲立ちをしていたのが日本各地のキリシタン大名。
月氏(大月氏・小月氏)は名前のごとく月を崇拝していた。
っていうか、酷暑の砂漠をキャラバン(隊商)が移動するのは専ら月の出る夜であり、彼らは月明かりを頼りにしていたから必然的に月を崇拝していて「月氏」という名になったのかもしれません。
ペリシテ人 → 月氏 → 大月氏 → ソグド人
ペリシテ人 → 月氏 → 小月氏 →
客家
となった可能性は著しく高くなった。しかし、もっと文明や技術的な分野にまで深く切り込まなくては判明しない。
中国とヨーロッパを結ぶシルクロードにはオアシス都市国家が存在しますが、その水源は自然湧水する泉によって都市が自然に出来たわけではなく、何もない砂漠地に交易ルートを作る為に計画的・人工的に作られた灌漑施設によるもの。
その秘密はカレーズと呼ばれる潅漑地下水道。カレースは20~30メートルの間隔で竪坑を掘り、その間を掘り進んで地下トンネルでつなげ、山麓の扇状地の地下水にまで到達させ、水の蒸発を防ぎながら都市にまで誘導する地下水路なのです。この豊富な雪解け水の地下水によってオアシス都市は人工的に作られたのです。
これが紀元前に作られたことに驚嘆する。
冬の間に固まった泥が水の流れを塞ぐ為に、一年に一度、春にカレーズの浚渫作業を行う。水流はアオシス都市の生命線で、停止すれば即、死を意味する。浚渫された泥は竪坑まで運ばれ、滑車で上げられ地表に排出されるが、長い年月の間に浚渫された泥がうず高く聳え、まるで蟻塚のような外観あの土の盛り上がりが一直線状に点在する光景が拡がる。
この用な地下水路が、長いものは延々数十キロも伸びオアシス都市にまで達する。このようにしてシルクロード沿いのオアシス都市はこのようにして計画的に作られたのです。
(膨大な雪解け水だからこそ、ここまでの緑化が可能)
これらトルファン、新彊...のカレーズの元はイランの「カナート」だと云われ、そのカナートも元は北アフリカの「フォガラ」ではないかと云われる。全て同様な地下水路なのですが、古さから言えば、この灌漑技術の発祥はエジプトということになる。となると、当時のファラオがハム系だった故に、同じハム系でエジプト文化圏のペリシテ人の関与の可能性が非常に高くなる。
実は、このカレーズ(カナート)は日本にも存在する。
古いものでは飛鳥京跡苑池への石組み地下水路があり、南池噴水装置につながっている。飛鳥京自体がペルシャ風の様相を呈していとも云われ、古事記にはタラミタ(太良未太)もモンケコシ(文買古子)という中世ペルシャ語の建築用語が記載されている。中世ペルシャ語といえばソグド語です。やはり、シルクロードから多くのソグド人が来ていたのだろう。
それ以外にも、マンボと呼ばれる日本で独自に発達してきた水路トンネル技術があります。マンボは三重県の鈴鹿山脈麓、岐阜県の垂井盆地、愛知県の知多半島に多く分布していますが、中でも三重県のいなべ近郊はマンボの集中地帯。その数は確認されているもので170箇所、総数は300とも800とも云われている。
何故、飛鳥京や尾張近郊には地下水路があるのか?
どこからこの技術を導入したのか?
それは、、、初期大王家の仕業というのがオイラの答。
初期大王家は扶余国→新羅→加羅経由で日本渡来した金首露王(扶余依羅)から始まりますが、新羅の慶州客家(ペリシテ人)とも懇意だったと思われ、それ故に灌漑技術を取り入れることが出来たのかもしれない。
初期大王家が奉じていたのが道教と波斯教(東方キリスト教)。美濃尾張の本巣市は継体天皇の手植え桜「薄墨桜」のある地として有名ですが、ここは初期大王家の上陸地であり、それ故、本教(キリスト教)の巣(本拠地)でもある。そして飛鳥京を造営した天武天皇はこの初期大王家(扶余・地祇族)が出自なのです。
※天武と覇を争った天智天皇は後期大王家(百済・天孫族)。天武は三河の大海氏に預けられた故に「大海人皇子」と称されたが、この大海氏は「海の民」ペリシテ人だったのかもしれない。
また、日本二十六聖人というのがありますが、これはサン=フェリペ号事件発生を機に豊臣秀吉が発した禁教令に伴い26人のキリスト教信者が京都・大阪で捕捉され長崎まで徒歩で連れられて磔刑に処された人たちの列聖された呼び名。日本よりバチカンでの方がよく知られている。実はこの日本人磔刑者の多くが伊勢・尾張の者であるのです。つまり、伊勢・尾張はキリスト教(本教)のメッカだったということになるのですが、この理由には「本教(キリスト教)」を受け入れ易い歴史的背景があり、それが「本教の巣」ではないかとオイラは睨んでいる。
さてさて、そろそろ結論に至らねばなるまい。
ペリシテ人はゾロアスター教やマニ教だけでなく、海の神タゴン、風と嵐の神バアル、富と豊穣の神アシュタルテを信仰したが、彼らは別名「海の民」と呼ばれるが、彼らの一派で地中海で海上交易を行っていたのがフェニキア人。彼らもまたバアルを祀っていて、いづれもハム系(黒人種)である。
つまり、陸地にいるのがペリシテ人で、海洋商売しているのがフェニキア人。いづれもペリシテ人であり、東洋では混血が進みペリシテ人は月氏となり、突厥に押され西方に移動した大月氏からソグド人、中国に残った小月氏から客家となったのだろう。
シルクロードには「海の道」というものもあり、こちらはスパイスロードと呼ばれるが、「海の民」であるペリシテ人=フェニキア人がこの交易路を作った可能性が高い。
名無し先生によると、フェニキア人(カルタゴ人)はスウェーデン南部を本拠地とするヤぺテ系(白人種)と行動を共にしていたという。彼らはバルト海、地中海だけでなく紀元前1000年には希望峰を回ってアフリカ大陸を一周し、更にインド、上海、青森を経てアメリカ大陸まで航海していた。北イスラエル滅亡時、陸路で移動した者とは別にこのフェニキア人に寄生して行動を共にした一派がいて、彼らは既に白人種と混血が進んだイスラエル人だったのですが、スペイン、ポルトガルを経てハンガリー、ルーマニア、ボヘミア、チェコ等へ移動。これがアシュケナジーユダヤの本当の出自であり、ハザール人がユダヤ教に改宗したのがアシュケナジーではないという。
※青森に上陸したのが、このスウェーデン南部のヤペテ系で天神族となる。
(フェニキア【ツロ】とパレスチナ【ガザ】は隣同士)
ここで注意しなくてはならないのは、アシュケナジー・ユダヤが南王国のユダ族出自ではなく、北王国が出自である点。ユダヤ人とはユダ族のことだけを指し、本来ならば南王国再建で満足すべき筈なのですが、何故かペリシテ人の祖地・パレスチナをも無法占拠しているのです。
ここにイスラエル問題の欺瞞性がある。
ギリシャ人のプルタルコス(AD46~127年)によれば、フェニキア人とは「支配者に対しては従順でありながら、配下の者に対しては非情で、危険となると卑屈、カッとなると凶暴。こうと思い込むと梃でも動かない。自分に対して厳格、ユーモアとか親切などには無縁の民」と書かれ、富を蓄える事には熱心だが、それを何に使うかを考えておらず、芸術・文化・遺跡も残さなかったとギリシャ、ローマ人は軽蔑していた。これはフェニキア人が商人の寄り合いのような民族で、国家意識とかいうものが希薄だったことに起因する。
フェニキア人とイスラエル人との関係はソロモン王の時代にまで遡り、旧約聖書の第二歴代誌の9章20~21にはこう記されている。
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9:20
ソロモン王が飲み物に用いる器はみな金であった。レバノンの森の宮殿にあった器物もすべて純金であった。銀はソロモンの時代には、価値あるものとはみなされていなかった。
9:21
王は、フラムのしもべたちを乗せてタルシシュへ行く船を持っており、三年に一度、タルシシュの船が金、銀、象牙、さる、くじゃくを運んで来たからである。
※タルシシュは地中海の南西の海岸で今のスペインにある町。
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つまり、ソロモン王は自分の船団を建造してフェニキア人であるツロの王フラム(ヒラム)に自分の船団を任せて交易を行っていたということです。この蜜月関係から北イスラエル滅亡時にフェニキア人が助けたという話にまで繋がってくるのです。
※ツロ・・・フェニキア(今のレバノン)にあった都市国家。「ティルス」とも表記。ダビデ、ソロモン王の時代に友好関係にあり、エルサレム神殿の建築資材としてレバノン杉を供給。
現代において、アシュケナジー・ユダヤ(実は失われた十支族)がユダヤ人に成り済まして、客家(ペリシテ人=フェニキア人)と行動を共にする理由は、何千年にも渡る密約というか、暗黙の了解なのである。ただ、あくまでペリシテ人(客家)が「主」でユダヤは「従」。ユダヤはペリシテ人の国際的ネットワークを支援する囮に過ぎず、またパレスチナの占拠はペリシテ人の祖地奪回という意味もあるのかもしれない。
以上から、名無し先生の比定の方に軍配があがり、初期大王家、後期大王家を定義し直すと、、、
■初期大王家(地祇系)
陸側に逃げペリシテ人(ソドク人)に合流した十支族の王族家系
北王国→ローマ→扶余国→新羅→加羅→日本に渡来
天孫族の渡来で制圧されエタ・ヒニン化
ハム系ミツライムを祖とするペリシテ人=ソグド人=フェニキア人=客家と懇意
緑のカラス
キリスト教(神道)派
天武天皇系
【イエズス会の傀儡】
■後期大王家(天孫族)
南王国のユダ族の王族家系
摂家137公家システム
仏教派
天智天皇系
【メーソンの傀儡】
となり、今後はこの定義に従っていく。
※新羅→出雲という箇所は語り部説と大きく食い違う点であり、まだ充分納得出来ていない点なので敢えて記さなかったが、この箇所も今後洞察せねばなるまい。
シルクロードの最終到達窓口が住吉神社ですが、ここを篤く祀ったのが平家であり、平家はペルシャ人だという噂があるが、これをフェニキア人やペリシテ人、ソグド人と置き換えても実に納得の行く話ではある。そして住吉神社の神紋はオリオン座の三ツ星を表す「右三階松(裏神紋が左三階松)」であり、これはオイラん家の家紋でもある。
そう、実は私はペリシテ人(ソグド人)末裔だったのだす~(超爆)
い、いや、それ以前にオイラはソドク人なのだす~~っ!
※ソドク・・・ソニョシデ・ドク、つまり「少女時代オタク」の意味。韓国語では「オタク」を日本語の音を使い「ドク」という。