久しぶり更新の、煩悩くんフルスロットルさん最新、名無し先生的考察、かなり、長文ですが。参考になりますね。
徐福とスサノオ
http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-2819.html
オイラが徐福フェチであり、またスサノオフェチなのは今までの記事で公開した通り(爆)。
ただ語り部の語る歴史は、出雲神族末裔の富氏の秘密伝承や名無し先生の話と一致しない部分も多々あり、また東三川において徐福関連遺跡が全然出てこない点で怪しい雲行き状態ではある。なので今回、少し語り部説から離れて洞察していこうと思う。
特に一致しない箇所は出雲に関してですね。
出雲王朝の成り立ちや王がどうもアンマッチなのです。特に出雲で一子相伝された富氏の内容はその性質上、看過出来ないものであり、この辺をすっきりしないことには、、、、オイラの洞察内容に翳りが出る。
当然、カラス自
らの言説に基づく内容なのですが、名無し先生によると日本への渡来人の血筋勢力は大きく分けて3つあるという。この血筋を基とし国家を跨いだ形でアジアを
利権区分化したのが【天神系・地祇系・天孫系】の3つの区分。それぞれの勢力にはトップがいて、それが日本の3人の天皇というわけです。
これにオイラの今までの洞察内容を加えたのが下記です。
【天神系】 第1陣
大
陸の地殻変動により現在とは陸地の状態が大分異なり、バルト海沿岸を出自としアラスカ周りで日本列島に入った、1万年の時を超える朝廷で現在443代目。
日本列島到着第一陣は、現在の中国、ロシア方面を産地とする黒曜石を矢じりの材料として日本に持ち込み、青森の十三湊を拠点として日本全国に交易。縄文時
代の武器の元締めで、仙台辺りに都を築いていた。紀元前2500年ごろスウェーデン南部からはるばる海路で日本の東北へ来た部族があり、その後
BC1000年ごろ九州へ上陸した部族がいた。聖書に突然登場する「海の民」がこれらの動きの一つで、ヤペテ系に相当する流れ。地中海方面に向かいサル
ディーニャを中継基地にしていた「海の民」はここから世界中を航海。そして第2,3陣の祖にもなっている。
※「海の民」とはヴァイキング(デーン人)、客家(ペリシテ人)、フェニキア人、エトルリア人...等の三国間貿易商人の集合体。
※ドルイド神官団を輩出したのは「蛇神アトゥム(ラー)」を祀るエドム人とエラム人(シュシャン人)。
構成主体: 三菱閥???
天皇: 玉置神社の奥の院
バック: ヘッセン=ナッサウ勢力(マウントバッテン、サヴォイ...等の欧州貴族)
【地祇系】 第2陣
北
イスラエル族はシルクロード、朝鮮半島を経て日本列島に到着し出雲に都を作った。
広義には天神系の流れからの分かれで紀元前数千年頃にまとまり、別ルートで日本に辿りついたオロチョン、ウィルタ(オロッコ)
、ナナイ、エヴェンキ、シボ...等のツングース系狩猟民族も含む。
※北イスラエル族はサルゴン2世により北王国滅亡しアッシリア捕囚(BC722年)。捕囚後、許されてBC7世紀のアッシリアを出た。
文化伝達手段: 神楽(→猿楽→能→歌舞伎)
構成主体: 北朝(藤原北家・新羅・源氏)、旧帝国陸軍、皇道派、近衛閥、サンカ、エタ、ヒニン、卍党(大本...等)、寺院仏閣、テレビ東京
天皇: サンカの大元様(スイス在住)
バック: イエズス会、香港資本
【天孫系】 第3陣
紀元1世紀にローマを出た南イスラエル海洋族は稲作と天孫降臨伝説を日本列島にもたらした。ダビデの父エッサイ(イエス・キリストの両親の祖先にあたる)からの流れ。
※ファリサイ派・・・反ローマ、サドカイ(サドク)派・・・親ローマ(ローマに順応している裕福な上級階級が主体)
※
ネブカドネザル王によりバビロン捕囚(BC586年)され、その後のユダヤ戦争(AC66~74年)で負け南ユダ国はローマ帝国の属国化。70年にはエル
サレム神殿は完全破壊。神殿が無くなり依り処を失った神殿派レビ族は霧散し、ローマ帝国中枢部に入り込んだ。レビ族内でもアロン直系末裔のサドカイ(サド
ク)派とダビデを敬うイズハル末裔のサムエル派には深い確執がある。
※「エッサイの根」はエッセネ派。イエスの母マリアは、エッセネ派の祭司の
娘。父ヨセフはエッセネ派のナガー(アラム語の学者)。エッセネ派は大祭司を世襲していたザドク家の精神を受け継ぐ宗教的エリート集団。ハスモン朝がザド
ク家出身者以外の者を大祭司に任命した事に抗議して死海北西部砂漠の丘陵地帯・クムランに隠凄した集団。エッセネ派はユダヤ教の一派とされているが、死海
文書から見えてくる教義は、天上の主・メルキゼデブ(マイトレーヤ)が、世界最終戦争で悪と戦うというものでミトラ教そのものに近い。
文化伝達手段: 浄瑠璃(→文楽)
構成主体: 南朝(藤原式家・百済・平氏)、旧帝国海軍、統制派、九条閥、国家神道
天皇: 今上天皇(明仁)
バック: メーソン、英国資本
過去記事でオイラは「地祇系」をローマ~新羅経由と何度か書いてしまっていたが、これは新羅の遺跡がローマ文化が入っていることから深く思い込んでしまっていた為。これは間違いでした。正しくはローマ発は「天孫系」でした(汗)。
海の民=フェニキュア人であり、彼らは祖を同じくするユダヤ系。
古くはハム系のペリシテ人も含まれる。このフェニキア人はカルタゴで文明を作っている。ポエニ人とはフェニキュア人を指すローマ人の言葉であるが、初期の
王制ローマ(紀元前753年 -
紀元前509年)の王7人のうち最後の3人の王は異民族のエトルリア人であったとされ、「海の民」はエトルリア(イタリア半島中部の都市国家群)に向かっ
た者とサルディーニャに残った者に分かれたことから、エトルリア人とは元々は「海の民」であった。
(サルディーニャ島 テンプル騎士団と同じマーク!)
このエトルリア人の異民族支配を駆逐し建てたのが共和制ローマ(紀元前509年 - 紀元前27年)。
これはラテン人による反逆ですが、共和制というものの実際は貴族(パトリキ)からなる元老院が政治独占した寡頭支配国家。
兵装自弁した自由農民か
らなる重装歩兵が当時のローマ軍の主力でしたが、彼らは自前で資金を賄い戦争に参加。これがローマ市民権を得る為であり、またローマ市民の責務であった。
戦勝を重ね領土拡大し帝国が強勢化するにつれ、彼らプレブス(平民)の発言力は次第に高まっていった。当時、政治を独占していたパトリキ(貴族)に対し
て、自分たちの政治参加を要求し始め貴族は徐々に平民に譲歩。平民の権利を擁護する「護民官」を設置し、十二表法で慣習法を明文化。さらに、紀元前367
年のリキニウス・セクスティウス法でコンスルの一人をプレブス(平民)から選出することが定められ、紀元前287年のホルテンシウス法によって、トリブス
民会の決定が元老院の承認を得ずにローマ国法になることが定められる事態にまで至った。
しかし、3次に
渡るポエニ戦争(紀元前264年から紀元前241年)で戦争が長引き、働き手がなかなか帰ってこない農家は農地荒廃し収入激減。さらに戦勝によって新たに
加わった属国からの輸入品で農作物価格は暴落。これらのことから没落して農地を手放す農家が続出。その土地を貴族が買い取って属国から買い取った奴隷を使
役し大農場経営(ラティフンディウム)するようになっていった。
平民の台頭を極度に嫌うのが貴族(真の支配階級)
※王族は貴族の神輿、王冠に過ぎない。
つまり、ポエニ戦争とは平民の富や発言権を簒奪し地位安定を図った貴族がカルタゴ支配層と組んだデキレースなのかもしれない。その後に起きたユダヤ戦争も同様か? まぁ、裏で糸を引いている者がいると睨む。そして、今、こういうことが日本でも起きようとしている?
国際商業国家カルタゴの戦力は傭兵が
基本。第三次ポエニ戦争で「マゴ家」(バルカ一族)をはじめとする国際商業金融家たちは厖大な資産を伴ってイベリア半島へ脱出し、多くの都市国家を建設。
その最大の1つがバルセロナですが、元々はハンニバル(バールの栄光)の父・ハミルカル・バルカが建設した都市でもある。彼らの拠点都市国家「ヴェネチア
共和国」からローマ帝国内に入り込み、次第にローマ帝国を内部から経済的に侵食していった。ローマ帝国版図は「海の民」の通商領域に沿岸国家を合わせた強
大なものとなっている。
ローマ帝国とは古代のNWOだった。
※ヴェネチア・カーニバルはカルタゴ同様の仮面文化。「300人委員会」もカルタゴ起源。それ以外にも両国家は経済形態が共通で政体も類似している。
黙示録では預言者(レ
ビ族)がユダヤ滅亡を声高に語っていますが、これは預言が当たったというよりも、ローマを操ってユダヤ王国を滅ぼさせる計画を言っているだけのこと。同様
な通商国家であるユダ国という古い殻を壊しているだけであり、ローマ帝国という新しい法人に取り込むためのもの。預言自体がマッチポンプだったわけです。
預言(予言)には必ず裏がある(ふふふふ)。
さてさて、3つの渡来勢力の話に戻るが、ここで特筆すべき内容は下線部の「地祇系(北イスラエル族)が出雲に都を作った」という箇所。
確かに出雲には大量の銅矛・銅鐸を出土した加茂岩倉遺跡や荒神谷遺跡、巨大な3本柱を束ねた出雲大社の中古時代の柱跡もあり、ここに強大な王権が存在したことは確かなことです。
それ以外にも出雲にはヒトデの
ような特異な形状を持ち、当時の最高技術を駆使して造成された「四隅突出型墳丘墓」があり、ここからガラス製の勾玉や腕輪などの副葬品、鮮やかな朱..等
が出土しているように何らかの渡来勢力の痕跡が認められる。特に.岐阜県本巣市の船来山古墳群と同じく初期大王家(北イスラエル族)の香りがプンプンする
のです。
(四隅突出型墳丘墓 「出雲弥生の森博物館」のジオラマ。諏訪の御柱祭の原点がここにある。)
(出雲王?、、、、額に角がある貴人)
しかも、これらは2100~1900年前(紀元前1世紀~紀元2世紀)と卑弥呼の時代(3世紀)より以前のもの。確かに名無し先生の言われるように、出雲には北イスラエル族が都を作った痕跡が色濃く残っていますね。
※出雲系の縄文人は古墳を作らない
この古墳形状は異様だ。
前方後円墳がユダヤ三種の神器「マナの壷」を模ったものならば、これもまた何かを模ったものだろう。
※実際にはマナ壷はマナセ族のものであり、その他も全て北イスラエル王国の所有物。
(マナの壷)
そ、そうか、、、これは契約の祭壇だ!
(四隅突出型墳丘墓)
旧約聖書「出エジプト記」の27章(新共同訳)にはこうある。
*****************************************
27:01 アカシヤ材で祭壇を造りなさい。縦五アンマ、横五アンマの正方形、高さは三アンマとする。
27:02 祭壇の四隅にそれぞれ角を作り、祭壇から生えているように作り、全体を青銅で覆う。
27:03 灰を取る壺、十能、鉢、肉刺し、火皿などの祭具はすべて青銅で作る。
27:04 祭壇の下部には青銅の網目作りの格子を付ける。その網の四隅に青銅の環四個を取り付ける。
27:05 網目格子は祭壇の半ばの高さにある、張り出した棚の下の部分に付ける。
27:06 祭壇を担ぐためにアカシヤ材の棒を作り、それを青銅で覆う。
27:07 この棒を環に差し込み、祭壇を運ぶとき、その両側に棒があるように整えておく。
27:08 祭壇は板で造り、中を空洞にする。山であなたに示されたとおりに造りなさい。
*****************************************
下線部の「祭壇の角から生えたような形状」が四隅突出型墳丘墓なのです。
また「縦五アンマ、横五アンマの正方形、高さは三アンマ」から5:5:3の
比率であることが分かり、「祭壇を担ぐためにアカシヤ材の棒」があることから可搬性祭壇であることも分かる。以上から出雲に渡ってきた者たちは、聖書の民
であるイスラエル人のうち北王国【地祇系】の者たちが祭壇を携えて来たことが分かる。このように日本列島へは契約の箱(聖櫃アーク)を安置する祭壇、マナ
壷....等の神器がゾクゾクと運ばれてきたのだろう。
一方、富氏が語る内容では龍蛇族(出雲神族)は、、、
紀元前2000年(約
4000年前)の出来事として、「この世が一夜にして氷の山になった。大先祖であるクナトノ神は、その難を避けるため、一族を引き連れて移動を始めた。東
の彼方から氷の山を越え、海沿いに歩いた。そうして何代もかかって、ようやくたどりついたのが出雲の地であった。これは、今から4000年も前のことであ
る。我々は祖国を高天原と呼ぶが、これは遠い海の彼方だと伝えている。」とある。さらに富氏は「東北の山や湖に関する伝承が多いことから、ベーリング海を
渡り、北海道、東北、そして出雲へとやって来たのだろう。」ともいう。
この辺は名無し先生の内容とも一致。
実際、雲伯方言は中国方言に囲まれる形で存在しているが、雲伯方言は東北方言と共通する特徴(ズーズー弁、裏日本式発音)であり、それが飛地状に分布している。こでは彼らが東北出自であることの証左でもあるが、この裏日本地域に押し込められたともいえる。
出雲神族は高貴な人は風葬で弔い、藤と竹で編んだ籠に遺体を収め高い山の常緑樹(檜・杉など)に吊るした。3年過ぎるとこれを降ろし洗骨し山に埋め、木がご神木となり、山が神(祖霊)の座す磐座となった。また、子供や妊産婦は石棺に入れ再生を願い宍道湖に沈める「水蔡」だったという。
(バリ島のトルニャン村の風葬)
BC2500
年頃に朝鮮半島を経由して帰還した出雲神族が大和族に滅ぼされる前に祀っていた神は久郡戸(クナト)大神であり、これは伊弉諾、伊弉美大神の長男であって
出雲王朝の始祖でもあるという。現在では出雲井神社に祀られているが、出雲井神社は出雲大社の東の宇伽山(ウガヤマ)の麓にある。
ウガとは「蛇」の
ことであり、稲荷神の宇迦之御魂神のウガでもあり、文字通り宇迦之御魂神とは「蛇の御魂」。また、大神神社も主祭神の大物主大神は蛇神。更に、伊勢斎宮に
夜な夜な訪れ斉王と交った伊勢神宮の祭神も蛇神だと言われるが、これらも全て同じ蛇神なのだろう。実際、作者不詳の能「三輪」ではキリ(終りの部分)の歌
には、「思えば伊勢と三輪の神。一体分身の御事。いわくら(磐座・言わくら)や」の言葉があり、三輪は伊勢神宮の元であることが伺える。
※血統補完システムである「斉宮」に訪れた男神とは、伊勢神宮に入った皇族のことでしょうね(笑)。
その他、富氏極秘家伝の内容を列挙すると、、、、
※現在、富家は消滅し花田家に一子相伝は継承されたが、花田家も消滅し、今は春日家が継承中。出雲にはこういった日本の歴史を解く家柄が点在している。
■スサノオは出雲神族から遅れて朝鮮半島から砂鉄を求めて須佐の港に渡来し、出雲神族を敗り、婚姻により混合。
■スサノオは須佐地方の一首長に過ぎず、オオクニヌシとは血縁は無い。渡来人でありオオクニヌシと敵対関係にあったが、記紀の作者が出雲親族と結びつける手段としてスサノオをオオクニヌシの父、又は祖神としたため両者の戦いをヤマタ大蛇退治の形で描いた。
■スサノオはオオカラ国(任那加羅)の王子で、名をツヌガアラシト、別名をウシキアラシチカンキ。
ソナカシチ=牛のように角の出ている貴人(朝鮮語で、ソ=牛 ナカ=出て来る シチは尊称)
ツヌガアラシト=角がある人
ウシキアリ=額に角があること
「韓国史」の中で韓国の学者は、弁韓及び辰韓人たちが、かぶった冠の前面に角状のものがついているのを見てこう呼んだ。と述べている。垂仁天皇の条には「御間城(みまき:垂仁)天皇の世に額に角がある人が船に乗って越国(福井県)
の笥飯:けひ(気比)浦にやってきた。そこで、この地を角館(つぬが:敦賀)と言う」とある。
■神話の「国譲り」の場として有名な稲佐浜で
天孫族の大軍団から使者として来た武甕槌命が、この砂浜にホコを突き立て「否(いな)、然(さ)」と迫った。私の先祖は、侵略者の目の前で抗議の自殺をし
た。コトシロヌシは天孫族にのろいの言葉を残し海へ飛び込んで自殺した。の時の模様を再現するのが美保神社の青柴垣の神事である。
■出雲族は大和族神武に敗れる前には当時の日本で出雲帝国と思われるほど近畿(伊勢を含む)、北九州、山陰、北陸(越)などを支配しており、鍛冶や製鉄技術を持つ集団で、武器(剣)の生産量が一番だった。
■大和や紀伊は出雲の分国」出雲王朝は北九州から新潟にいたる地域を領有していた。
■富家、神門臣家の2家が土着の出雲族
■出雲大社が杵築(きつき)へ移ったのは、霊亀二年(716)のことで、それまでは熊野にありクナトノ大神を祀っていた。
天孫族も、この神は畏敬しており、常磐国などの東国は、この神が開拓したもので、香取神宮の主祭神(普都大神)ともなっている。
■
オオクニヌシはオオナムチ・ウツクシタマ・アシハラシコオ・ヤチホコ・オオモノヌシ・など多くの名前を持つ。オオクニヌシは代名詞で十七代に渡り何人もい
た。上記の名前も実名ではない。クナトノ大神も五十代。オオクニヌシが「大黒様」、コトシロヌシが「えびす様」になったのは平安末期のことで、出雲は平田
市鰐淵寺が一時、大社を領有し本地垂迹説から七福神の一人として仕立てあげた。
■藤原氏は帰化人。氏素姓を高める為にどうしても天つ神の
系譜が欲しかった。最初は天ノコヤネノ命を祖神とし、次にタケミカヅチを担ぎだした。大社社家(千家氏)は祖神のコヤネから40代を藤原氏に奪われたが、
その権力に抵抗できず(黙認?)。ミカヅチは作り出された神であり記紀に載せられた。
■サンカは出雲神族の諜報機関だった。
■
タケミナカタは北陸路を北に向かい越後に入り、姫川を上って千国街道(別名糸魚川街道、松本街道とも)から信濃に入った。諏訪の先住民である守屋一族は出
雲族の侵略だといっている。「諏訪大明神絵詞」では守屋(洩矢)氏とタケミナカタとの戦いの様子を語っており結果はタケミナカタの勝ちであったが、タケミ
ナカタ系は大祝(おおはふり)という象徴的な地位に祭りあげられて諏訪神社の祭祀の実権は守屋氏が握っていた。
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なかなか重大な内容ばかりです。
斎木雲州(谷戸貞彦日大教授)が出雲や丹後などの旧家に直接出向いて聞いてきた伝承をもとに書いた本である『出雲と大和のあけぼの』にも、富氏家伝が掲載されており、そこには、、、、
富家の伝承では、スサノオは、紀元前2世紀頃、始皇帝の頃の秦国から出雲に渡来し、大名持であった八千矛命の娘である高照光姫を娶って、高照光姫はイソタケル(天香語山命)を産んだという。その後、秦国に戻ったスサノオは、再び日本に上陸し、北九州に住んだという。
(『出雲と大和のあけぼの』より)
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これは非常に重要な証言です。
紀元前2世紀、始皇帝の頃の秦国から2度日本渡来、、、、、これは徐福を彷彿とさせる。しかも蘇民将来の話でも一度南方へ行った後に再び訪れ、印のない家は皆殺しにしたという話になっている。これも徐福の2度の来日を彷彿とさせる。
う~む、徐福=スサノオ(牛頭天王)だったのか?
これは恋人がサンタクロースだった時以上の衝撃です。
実際、徐福は秦始皇帝に不老不死の薬を探しに行くと称して日本に亡命し、五穀を日本に伝えたとされている。また日本神話では高天原から新羅経由で日本に来たスサノオの髭は杉に、胸毛は檜に、尻毛は板(まき)に、眉毛は楠....と植林したとあり、スサノオと徐福はイメージがダブルのです。