徐福とスサノオ
http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-2819.html
ただ、九州居住となると佐賀県の徐福伝承が俄然優位となってしまう、、、、
※佐賀・金立山の伝承では徐福は大明国秦始皇帝の第3皇子となっている。
三河徐福説の最大の危機だす(爆汗)
徐福=スサノオ説は『伯耆国風土記』にも載っていて、それによると秦国から渡来した徐福は、事前に部下の穂日(ホヒ)を出雲王国に遣わして、徐福の上陸許可を得るという周到な準備をしたという。
その後、徐福と穂日お
よび穂日の息子タケヒナドリたちは、謀をして出雲王国第八代の主王(オオナモチ)の八千矛(記紀では大国主と書かれた)や副王(少彦)の八重波津身(記紀
では言代主と書かれた)を誘い出して、別々に幽閉し殺したという。徐福の集団の一部は、伯耆国の夜見の島や相見の郡にも移り住み、彼らの子孫が住んだ米子
市やその近辺には、徐福の名にちなんで「福」の字の入った地名が付けられ、福市や福原の地名となって残っているという。
徐福上陸地が石見の国(島根県太田市)の五十猛海岸の神島ですが、、、、
(五十猛海岸の神島)
う~む、流石にここには上陸しないだろうwww
しかも、徐福が目指した蓬莱山、方丈山、エイ州山の東海三神山に比定できそうな山はこの近辺には存在しない。浅利富士と呼ばれる至宝山もあるにはあるが、標高256mでは威容に欠ける。徐福本隊はここには定住しなかったと見る。
これも真の徐福上陸地を隠す為に伝承移転さ
せられたものの1つに過ぎなのではないか? 日本にはこういった風土記が多く全国に24箇所の徐福上陸地の伝承がある。近くの丹後半島東岸の東には「常世
島」と呼ばれている「冠島」がありますが、『丹後国風土記』には徐福の一行はこの島で仙薬を見つけ、丹後半島へ上陸したと言われている。また冠島は海部氏
の祖「天火明命」の降臨地とされる地でもあるが、大きさからいってまだコチラの方が合っている感じ。
富氏が「出雲大社が杵築(きつき)へ移ったのは、霊亀二年(716)のことで、それまでは熊野にありクナトノ大神を祀っていた。」「大和や紀伊は出雲の分国」とあるように、古代出雲は紀伊半島をも支配下に置き、ナガスネヒコが統治していただろうと思う。その名残が葛城郡の葛城氏やダンノダイラや大神神社ですね。ナガスネヒコ敗退後は、祖地・十和田に移住して東日流外三郡を束ねているが、その末裔がアテルイだろう。
※アテルイ(大墓公阿弖利爲・たものきみあてりい)・・・平安時代初期の蝦夷の軍事指導者。坂上田村麻呂に敗れて降伏し、処刑された。
ただ、このクナトノ大神を祀る熊野と
は、紀伊半島の熊野ではなく、島根県松江市八雲町熊野にある出雲国一宮・熊野大社のことで、『延喜式神名帳』には「熊野座神社」と記される程に古く神社。
出雲大社宮司が熊野大社を訪れ新嘗祭で使う神聖な火を起す臼と杵を受け取る儀式「鑽火祭(さんかさい)」が毎年10月に行われますが、「熊野大社>>>出
雲大社」という上下関係でもある。出雲の熊野村から紀伊半島へ移住した際に勧請したという伝承があり、出雲熊野→紀伊熊野という流れが本当のところではな
いか。ちなみに、出雲の熊野大社の祭神は「伊邪那伎日真名子」(イザナギが可愛がる御子の意)でスサノオ。つまり、紀伊の熊野もスサノオを祀っているとい
うことになりますね。
ここから分かることは、、、
櫛御気野命=伊邪那伎日真名子=スサノオ=家津美御子
櫛御気野命の「御気」は御食または御木の
意味であり、「ケ(家)」は食物の意味。このことから植林神・農業神・食物神を意味しますが、豊受大神や稲荷神も食物神ですね。一般に家津美御子は「食の
御子」=食物神と解されているが、船の用材を司る「船玉神」としての「樹木の神」の方が濃厚であると熊野本宮・九鬼宮司はいう。
紀の国は「木の国」。これなどスサノオが自らの毛(ケ)を使い樹木を植林した話を連想させるが、食物が五穀を日本列島に持ち込んだのは徐福。やはり熊野大神とは徐福なのだろう。そして、それはスサノオとして崇められたということか、、、、オイラのマン毛狂写輪眼にはそう映る。
「樹木」かぁ、、、
アニメNARUTOの木遁忍術の千住柱間を彷彿とさせる話ですが、これは忍術を始めた「六道仙人」の元ネタは徐福だったというオチになりそう(爆)。
※
六道仙人の肉体能力は2つに分けられ、「眼」は火遁使いでスサノオを極限技とする写輪眼のうちは一族に、「体」は木遁忍術の千住一族に引き継がれた。また
六道仙人のチャクラは魔像(大魔神)に一旦は封じられ、その後更に10個に分けられたが、その最大のものが九尾妖狐(ダキニ天)。火遁と木遁が六道仙人
(徐福)解読のポイントでもあるが、これは「火(穂)の国」と「木(紀)の国」の関係の解読に他ならない。やはり日本の謎を解くには三川が最重要ポイント
なのだ(爆)。そして「火(穂)の国」と「木(紀)の国」の融合地点には「神島」があるが、木と火は日本武尊が火攻めに遭った際に草薙剣で難を逃れたよう
に「火(穂)の国」と「木(紀)の国」は熱田神宮の草薙剣で燃え盛る状態を防がれているのかもしれない。
(角のある六道仙人の姿はスサノオやモーゼを彷彿。名の「羽衣」も豊受大神の「トユケ(天女)」を彷彿とさせるが、羽衣伝説伝承地は渡来人の上陸地でもあり、徐福もまた秦国からの渡来人であった。)
さてさて、引き続き『出雲と大和のあけぼの』に載っている富氏家伝やその他の伝承をみて見ると、、、、
■4000年前、クナト王は
古代インドのクナ地方を治めていたドラヴィダ族の王。インドにおけるアーリア人圧迫の際、黒曜石貿易に携わっていたブリヤート人の先導のもと、大勢の部下
を連れゴビ砂漠を越え、中国を移動してシベリアのアムール川を下り、津軽半島に上陸して移住。その子孫が出雲地方に住み着いた。これが出雲神族で龍蛇
(ナーガ)とサルタヒコ(ガネーシャ)信仰をしていた。
※「鼻の長い動物の住む国から来た」という伝承がある。ドラヴィダ語で「サルタ=鼻の長い」の意味
■上陸した徐福は「火明かり」と名乗り、出雲王朝の高照姫(第七代大名持ちの天の冬衣と宗像三姉妹の田心姫との間に生まれた姫君)を奥方に迎え、高照姫が生まれた息子が「五十猛(いそたけ)」とある。徐福の父親は「徐猛(じょもう)」といい、そこから一字取られて付けたと言われている。(富氏家伝)
■徐福の息子・五十猛は香語山と名前を替え、海部(アマベ)家となり、母違いの次男・穂穂出見(ホホデミ)は九州物部家となり、その子孫が東征して大和入りして大和王朝を打ち立てた。約150年の間をおいた前後2回の物部の大和への移動を記紀では神武東征の神話に作り変えられたという。
■徐福の忠実な部下だった穂日の
子孫は、出雲の臣を名乗り藤原不比等に取り入って、702年出雲臣果安は晴れて出雲国造となる。この系図の中でオオクニシの子に「ホアカリ」がおり、天火
明命(ホアカリ)は度会氏や海部氏・尾張氏の祖先。つまり彼らは同族。この尾張氏や海部氏の系図の中にヒミコ(ヒメコ)がいて、祖先はオオクニヌシとな
る。
以上を簡単に系図にまとめてみると下図のようになる。
(黄色部がオオナモチ大名持で出雲王)
この系図では徐福(スサノオ)は宗像三姉妹と全て関係している(汗)。
これは出雲王朝と徐福一族が合体一体化したようなもの。しかも、徐福の九州末裔が物部氏であり、上洛して先に大和王となっていた同族の【海部王朝】を倒して大和朝廷をうち建てたという。
徐福は七代大名持の八千矛を猪目洞窟に幽閉して餓死させているが、このようにして出雲を騙して乗っ取った大泥棒なのが徐福(スサノオ)なのだそうだ。う~む、冷静沈着な学者肌の方士という徐福のイメージが180度変わってしまう話だす。
(宗像三姉妹とは弥生期のキャッツアイ、、、い、いやこれはワイルドボアー(猪)・アイだな)
まぁ、宗像三姉妹は架空人物と
いうのがオイラの説ですが、この三姉妹は弁才天にも模されていますが、「天河秘曼陀羅」の弁才天は「三つの頭を持つ蛇」と描かれるように女性の持つ3つの
面である「若い娘・子どもを生む女性・老婆」を表す女神でもあり、これが宗像三姉妹として表現されていると見る。そして、それがオリオン座の3つ星で表現
され、さらに航海の安全を祈る西洋のセイレーン的なものとして住吉三神となったと睨んでいる。
(「天河秘曼陀羅」 弁才天とはまさにキングギドラ)
以上が出雲の徐福渡来の概略ですが、この話は飛鳥昭雄氏が八咫烏幹部から聞いた「物部氏は徐福と来たれり!」の話とも一致する。飛鳥氏は卑弥呼は徐福の血筋から出ているとも述べているが、このことは出雲伝承の中にも出て来る話で、今まで洞察してきた語り部内容とは180度違う内容であり、オイラは正直戸惑いを感じている。
徐福は最初若狭湾に到着し、その後、出雲に移動したという。あるいは、採取に出雲に上陸し、その後、子孫が丹後半島に移住したという話もあり、この辺は伝承によりマチマチである。
若狭湾で徐福伝承があるのは新井崎ですね。しかし、飛鳥氏が主張する日本列島逆転(反時計回りに高速移動)からは、魏史倭人伝当時の日本は90度逆転して沖縄の位置にあったといい、これでは若狭湾は中国大陸の反対側となってしまい飛鳥氏自身の説との整合性が取れない。
オイラは語り部説の熊野や三川が徐福上陸地だと睨んで、渡来伝承の真実がそっくりそのまま若狭湾や九州に移されたという立場を取っていますが、そうしないと本巣市の船来山の集合古墳群や同じく本巣市の継体天皇手植えの「薄墨桜」の説明が付かない。
『出雲風土記』を
見る限り、徐福末裔が出雲から熊野経由で三川へ移住してきて、三川の鳳来寺山や東海三神山、湯谷と名付けただけのようにも思える。う~む、依然に比べかな
りトーンダウンしてしまったが、そのぐらい四隅突出型墳丘墓の衝撃は大きい。だた、徐福渡来と墳丘墓建造年代には100~200年程の差が存在する。やは
り徐福ではないのだろう。
ここで語り部説を加味して考え直してみると、、、
【地祇系】 北イスラエル族末裔
■第1波(前15世紀):オロチョン、エヴェンキ等のツングース系
朝鮮半島→東北に移住
■第2波(前2世紀):秦始皇帝特命で徐福来日(初回)
中国→佐賀上陸(後に北九州への移住) 【前線基地化】
※徐福も始皇帝も姓が「瀛」氏で彼らは同族
■第3波(前2世紀):徐福移住渡来(2回目)
中国→熊野上陸→三川定住(徐福国)
※真の神仙郷を見出し、任務を放棄して帰国せず
■第4波(前1~2世紀):秦人渡来
辰韓・弁韓→丹後上陸→出雲(須佐)上陸→出雲神族混合→葛城・熊野移住
※応神14年(283年)、秦氏の祖は弓月君を祖とし百済より百二十県の人を率いて帰化したの記述。正しくは辰韓(後の新羅)の秦人だろう。これが出雲風土記や富氏伝承の元となった?
■第5波(4世紀):加羅から金首露王渡来
扶余→加羅経由→本巣居住→邪馬台国(4世紀)/徐福国討伐(5世紀)→出雲国譲り(6世紀)→初期大王家(上宮)
※新羅(356年 - 935年)は金官加羅から王を出す。
第3波が出雲神族と習合した渡来系でしょうか、、、、あくまで推測です(笑)。
天皇家の紋章と
して、獅子(ライオン)と一角獣(ユニコーン)の紋章があるという話があるが、獅子は古代イスラエルの10支族のユダ族の紋章であり、一角獣は北イスラエ
ル王国の王族の紋章。
上賀茂神社の本殿にも一角獣の狛犬の姿が描かれている。つまり、徐福もその後渡来した秦人も初期大王家(扶余王家)も北イスラエル族の角を生やした一角獣
のような姿(兜前面に角)をしていた為にスサノオ(角のある貴人)とされたのではないか?
記紀はこれら1~5波全てを「秦氏」として1つにまとめ上げ、歴史の闇に葬った。また風土記も「新羅系渡来人=徐福=出雲王朝」として1つにまとめた。これ故、「地祇系=スサノオ=徐福」としても決して間違いではない。
古事記・日本書記に先立つこと7年前、日本各地に風土記を
書かせて提出させたのは大和朝廷であり、この書の内容は歴史的事実そのままを記したわけではなく、ある程度、朝廷の意向(藤原不比等の意向)に沿って編纂
され記されたと睨んでいる。古事記・日本書記の歴史改竄がばれても風土記というセーフティネットが構築されており、ここで本当の歴史を完全封印するという
手の込んだ形を取っているのかもしれない。
※古事記・日本書記と風土記の間には大きな差異がある。人々はこの差異の間に封じ込め。双頭と陰陽。
まだまだ三川徐福国の目はあるのだす~。
いづれにせよ、彼らに共通しているのは道教を奉じ、バアル神である蚩尤(しゆう)を崇め、大地に銅鐸を埋めて祭りの日に掘り起こして祭祀をしていたのだろう。この特徴から彼ら北イスラエル族は「地祇系」と称されるようになったのではないかと睨んでいるのだが、、、、ただ「契約の祭壇」との関係は不明(汗)。
(三遠式銅鐸が出雲の地でも大量に見つかっている点が不可解な部分)
ナーガ(龍
蛇)を祀り、サルタヒコ(ガネーシャ)信仰を持つトラヴィダ人が「出雲神族」の正体だったのですが、彼らがエドム人の東北に辿り着き、そのまま南下して出
雲の地に到達。そこへ秦国から逃れて来た秦人(北イスラエル人末裔)がやって来て、出雲神族は婚姻を通じて平和的に取り込みを図ったつもりが、逆に王は殺
され国は乗っ取られてしまった。
この強盛化した王朝が出雲王朝ではないか!
※その後、6世紀に国譲りが起き、出雲大社建造(7世紀)へと繋がっていく。
その後、秦人が乗っ取った出雲王朝と初期大王家の間で国譲りが
為された際、建御名方神(末裔が諏訪氏)が逃げ延びたのが第二出雲王朝とも言われる諏訪の地。諏訪湖底に武田菱に似た「海底遺構」がありますが、これは四
隅突出型墳丘墓を模して諏訪大社上下二社とその神宮寺(東照寺)と社坊(小坂観音院)をX型に配したのではないだろうか?
※元々、諏訪は縄文時代から続く守矢(洩矢)氏の拠点だった。
(諏訪湖は契約の祭壇?)
少しまとめてみよう。
熊野大神(熊野権現)=家津美御子=櫛御気野命=伊邪那伎日真名子=スサノオ
ということは前に書いた通り。
だが、これは下記の怒涛の内容も意味する。
徐福=ニニギ=スサノオ=国常立尊=艮の金神
つまり、徐福始め長屋王までの北イスラエル族こそが鬼門に封じられた「金神」であった。
※佐賀の徐福渡来地は「金立」と呼び、金神との関係を伺わせる。
熊野出身の九鬼家と関連が深い綾部の大本は、熊野本宮の麓に鬼門大金神(玉
置の祭神、国常立尊)を祀ったいることから、上記内容の証明にもなりそうですね。契約の祭壇やマナ壷を日本列島に持ち込んだ北イスラエル族(徐福~秦人~
初期大王家)は南ユダ族によって東北に封印され、傘下の勢力は自陣営の下に取り込まれた。その状況を漢人末裔である綾部のサンカ・アヤタチである上田家が
大本・黒住...等を興し復権を図ったのかもしれない。そして今、北イスラエル族の封印が解け物部神道の復活を通じエルサレム神殿の「三種の神器」が揃っ
て世に出ようとしているのだろう。
※サンカの異称であるオゲ、ホンス、テンハの裏意は「徐福を訝る」「午族は国父を呪う」「午族は倭本族を厭う」ことあり、サンカの異称は大和王権側から見ての蔑称か呪称であり、この異称はサンカの社会的処遇に一致している。
↧
後編 徐福とスサノオ
↧