オカルト編の前に、煩悩くんフルスロットルさん最新、日本の支配階級の、名無し先生的考察、チェックですね。
李氏日本
http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-2850.html
前記事で迂闊にも「秦氏=北レビ族、賀茂氏=南レビ族」なんて書いてしまいましたが、実はまだまだオイラの中ではよく分かっていないのです。
オイラが未だ悩んでいるのがレビ族のこと。
南北に分かれて渡来した筈で、これらがどの氏族になるか全く分からない。
少なくともレビ族は中国では李と
いう姓だったらしい。明代(1368年-1644年)には、ユダヤ人は皇帝から 艾、石、高、金、李、張、趙
の7つの姓を授けられ、これらは今日でも見識することが出来、これらの姓は本来のユダヤ人の氏族の姓 Ezra, Shimon, Cohen,
Gilbert, Levy, Joshua, Jonathan をそれぞれ中国風にしたものである。
つまり、李姓がLevy族(レビ)に与えられた姓だった。
で、今のところ、オイラが絞った候補は以下の4つの氏族。
■藤原氏
■忌部氏
■秦氏
■賀茂氏
洞察するには、過去の日本列島への渡来状況が必要ですね。高度自給自足ブログ様が書かれた名無し先生が教えた内容をベースに語り部説で不足部分を補うと、、、、
(名無し先生)
・天皇家は大化の改新で藤原家に乗っ取られた
・大化の改新までは縄文人、紀元前にシナイ半島を追われ中国北部を通り渡来したイスラエル族
・安土桃山時代までがユダ族と韓国経由で渡来したエフライム族
・もう一方のエフライムは百済から来て山口県を仕切っていた大内氏
(語り部)
・【上宮】 初期大王家(扶
余系ガド族)・・・扶余王族(ヘブル人、ガド族。主にスキタイ騎馬民族と混血。金文化継承)はシルクロードを通り中国、朝鮮の順に到達。扶余依慮は宇垣
(烏桓)に領地を譲り東の鮮卑の領地を求めて進撃するが壊滅的打撃を受け投身自殺。その子扶余依羅は馬韓の辰王の協力の元に加羅国を建国。更に新天地を求
め、倭人と夷人で三王朝を組む邇波国の邇波氏を頼り遣いを送って新三王朝を交渉。交渉成立させると邇波氏は外洋航海船(徐福技術)からなる水軍を率いて金
海に到着。依羅(金首露王)は長男・居登に五男(五瀬モデル)・玄に扶余国を任せ、妃の許黄玉(インド・アユダ国王女)と四男と六男~十男迄率いて日本
列島へ傀儡王として招聘され、馬も搬送しイヘヤ湾(伊勢湾)へ向かう。邪馬台国を討ち取り倭を継承して大倭と改め「倭旨」と名乗る。道教を奉じ、人民恭順
化用に波斯キリスト教を表面上信仰。
・【下宮】 後期大王家(百済烏桓系エフライム族)・・・百済人
の祖は北イスラエル国の亡国後、南回りで雲南経由しチベットへそのまま南下しインドを経由し、ここで小乗仏教信仰開始。更にタイを経由し中国南部から中国
入りし烏桓騎馬民族として勢力を伸ばすが、国は滅ぼされ漢民族と同化。扶余依慮は宇垣(烏桓)、後世の百済王族に領土を明け渡し百済国勃興。その百済王家
王子の百済昆支(倭武)が初期大王家に婿入り。百済王族は小乗仏教信仰故に「嘘も方便」であり口達者で残虐性大きかった。
以前、オイラはこの百済渡来の後期大王家を「百済」をキーにして、単純に「天孫系」としてしまったが、天孫系=南ユダ国=ユダ族&ベニヤミン族であり、ガド族もエフライム族も北イスラエル族だった(滝汗)。
つまり、初期大王家も後期大王家も同じ地祇系。
乙巳の変(実際には大化の改新は壬申の乱の後)でエフライム族【後期大王家】がクーデターを起こし蘇我入鹿(鞍作毛人)を暗殺し政権を握ったが、壬申の乱で再びガド族【初期対王家】が政権を手にし戻し、藤原四兄弟に嵌められて長屋王の自刃でガド族直系王族は滅亡。
その後、天武天皇と
藤原の娘(宮子:実際には天武と賀茂氏の三川時代の御落胤を養女)の血を引く聖武天皇が立ったが、聖武后である不比等と県犬養三千代(橘三千代)の間の
子・藤原光明子(実は美努王と橘三千代の子)の計らいで母・宮子と30年ぶりに再会。この時、母・宮子から出自のことを聞くに及び藤原憎しの「反藤原」と
なり天武色が強くなってしまったという思惑が外れたこともあった。その後、宇佐神宮から中継ぎの巫女である孝謙/称徳天皇(高野新笠)を経て白壁王(光仁
天皇)が偽証即位して皇位を継承。その子が桓武天皇。ここに百済エフライム王族=天皇家の外戚として君臨し始めたレビ族大祭司=藤原家の天下が始まった。
このエフライム族の天皇位を継承し藤原氏が后を輩出するという構造が室町末期まで続く。
その後、九鬼とか伊達とかの細川とかの七曜・九曜紋の客家系の出自不明の豪族がのし上がって来て信長・秀吉の30年の南朝政権が出来る。これが「安土桃山時代までがユダ族と韓国経由で渡来したエフライム族」という内容ですね。
ここからは藤原氏はユダ族となりそうな感じです。
ちょっと図式化してみた。
この状態では名無し先生の話と語り部説は何の矛盾もなくピッタリ当て嵌まる。
語り部の方が少し詳細かな。
初期大王家(ガド族)は長屋王で
滅亡したが、この時から天皇の色が「戦う王」から「神祇する王」に変化し、地下水路をめぐらしたペルシャ色の強い宮殿建築物から唐風を経て純和風に代わっ
ていった。。これもガド族からエフライム族に政権が移ったからだろう。というのも、ガド族は家畜を多く所有し、イスラエル国境周辺部を与えられた為、戦い
には常に先鋒を務めていた。一方、エフライム族は王を輩出していた為、戦いよりも祭祀に重きを置いていたという感じか。
大内氏の祖は百済26代の聖王の第3王子・琳聖太子と称しているが、この王子は架空人物であり、大内氏はエフライム族で間違いはないが、王家の者かどうかははなはだ怪しい。ただ、渡来後スグに多々良姓と大内県を与えられたことから、百済エフライム王族の可能性は高い。
藤原一族で幕末には武家伝奏、明治以降は伯爵家であった廣橋家の興光氏が伝来口伝の日本史を友人に語ったという内容がある。興光父君はもと内務省のエリート官僚で、東條内閣の秘書官、その後、千葉県最後の官選知事を勤めた廣橋眞光氏、母方の祖父は中川宮の孫、もと梨本宮守正殿下であり、母君は李方子さんの妹に当る。
廣橋、梨本宮、李、、、日韓合同朝廷の長男を輩出した日本のベルファシ勢力ど真ん中なところから出た暴露話ですが、真摯に傾聴するに値する内容です。
1)天皇家は北支から満州、朝鮮を経て日本にやって来た。
2)藤原氏は中国系と朝鮮系に分かれていて中国系の方が威張っていた。
3)南朝とか北朝とかいっても我々の祖先はどちらにもいたから、いま明治天皇が南朝でもまごついたりしない。
4)戦争によって日本のおかれた惨状は家康の鎖国がもたらしたものである。
5)孝明天皇は伊藤と岩倉が殺した(興光氏父君の眞光氏の言)
6)鳥羽伏見の戦い以後の明治天皇は睦仁ではない。すり替えた天皇
7)伊藤の爵位ばらまきは天皇すり代えの口止め料という性格
8)シンガポール陥落のときルーズベルトが特使を以て講和を申入れた。東條はそれを受けようとしたがヒロヒトは2.26事件の体験から、軍の叛乱を恐れて継戦を命じた。この時天皇に継戦を迫った親独派の将校グループがあった。
下線部の2)3)4)6)は初耳です。
それ以外は知っていて、正しい内容と思われることから、その他も正しい可能性は高い。
順不同に洞察してみます。
4)戦争によって日本のおかれた惨状は家康の鎖国がもたらしたものである。
家康の鎖国はイエズス会からメーソンのオランダへの乗り換えから起きている。
6)鳥羽伏見の戦い以後の明治天皇は睦仁ではない。すり替えた天皇
す
り替え説はネットでは良く知られた内容ですが、その多くは長州・田布施の大室寅之祐であるという話。ただ、その他にも田安(徳川)慶頼の子だとか、様々な
ものがある。本当のことを隠す為に撹乱情報での情報操作もあって、何かが本当なのかは一般人には容易には判らない状況。
まぁ、全てが本当の話のようにも聞こえるのだが、、、(滝汗)。
■明治天皇(1852年11月3日 - 1912年7月30日) 享年60歳
■鳥羽伏見の戦い・・・明治元年(1868年) 明治天皇16歳
享年60歳は少し若すぎのような気がする。
云われてみれば、確かに明治天皇の顔は変わってしまっている。
(左と中央(16歳)は同一人物【大室寅之祐】だが、右には特徴的な眉と口元が無い)
更に、左と中央の大室は明治4年の横須賀行幸時にフランス人が撮影した明治天皇と全く似ていない。頭の形がまるで異なる。入れ替わりがあったのか?
(浅黒く巨漢の男が白粉と口紅をして異様だったという)
いったい明治天皇とは何者なのだろうか?
そういえば、『日本製原爆完成全文』の榎本東州氏が以下のことをチラリと書いていました。ただ、氏の場合はもっと過激な内容です。「原田祖岳はやがて、久邇宮◎子女王(明治天皇即ち西郷隆盛の
子供で、久邇宮家で養育された。その事が後に宮中某重大事件の原因となるが、関東大震災後に◎仁天皇の后となる。)と肉体関係を結び、◎子皇后は原田祖岳
の子“◎仁親王”を生んだ。実質的には玉座に就き。昭和の弓削道鏡として、国民を召集し、不敬罪・国家総動員法・国民精神総動員法・統制法を振り回し、日
本国民を世界大戦の泥沼へと導き、最後は広島・長崎で人類史上第1号と成る、日本製原子爆弾の製造を完成させ使用した。」とあるが(滝汗)、何処まで信用
出来るかは不明だ。
※東州氏が述べる明仁・美智子・堤義明の三人は「原田祖岳」の子供というのは、宇多田光がビル・クリントンと藤圭子との間の隠し子というレベルのガセ情報だろう。
オイラは以前の記事では「西郷隆盛=明治天皇」に関しては否定側に立ったが、、、実は有り得る話なのかもしれない。
明治天皇も西郷隆盛(西郷南州)も180㎝を超える巨漢だったと云われ、一般的な西郷隆盛のイメージは下図のようなギロリとしな眼と太い眉毛が特徴の人物だが、これはキヨッソーネが西郷の親族から合成して描いた肖像画だったというのは良く知られた話。
身長に関しては歴史的人物に関して現存する鎧や衣服などの遺物、当時の記録、遺骨などから推定されたものがある。
■織田信長 170cm 痩せていて筋肉質。また、青年のころは女のような美男子だった。
■徳川家康 158cm 60kg 小太りだが、6人で扱うような重さの鉄砲を1人で使いこなすほど腕力があったという。狸に似ている。
■豊臣秀吉 154cm 痩せていて眼光は鋭い。
■前田利家 180cm 引き締まった体格の美男子。
■前田慶次 163cm 190cmを超える大男とも言われていたが、現存する鎧から推定するとこのぐらいである。
■加藤清正 159cm 鎧から推定。意外と小さい。
■真田幸村 160cm 豪傑だった父親とは違い平凡な顔で、「頼りなさそう」と言われており、本人も気にしていたという。
■上杉謙信 156cm 小柄だったが、面会した僧侶は「鬼か天狗のようで身の毛もよだつほど恐ろしい」と記録しており、 かなり威圧感のある風貌だったらしい。
■小島弥太郎 194cm 上杉軍随一の怪力を誇り、「鬼小島」と恐れられた。力士のような体格だったという。 武田信玄がけしかけた狂犬の口を掴んで地面に叩きつけて殺した話は有名。
■藤堂高虎 188cm 体重113㎏ 生まれた頃には他の赤ちゃんの2倍の大きさだったという。
■伊達政宗 159cm 遺骨が現存しており、正確な数値がわかっている。 また、腕や足の筋肉付着部分の骨がかなり発達しており、鍛えられたたくましい体格であったことがわかる。
■斉藤義龍 197cm 馬に乗ると足が地面に着く。「六尺五寸殿」と呼ばれていた。
■石田三成 156cm 出っ歯で色白。軟弱だった。
■豊臣秀頼 197cm 161㎏ 秀吉の息子とは思えない。ろくに動くこともできないほどの肥満体であったとされる。
■長宗我部元親 185cm 色白でおとなしく、女のようだったという。
■山県昌景 130cm 「武田の小男」と恐れられた怪人。胴体が異様に短く、上唇が縦に裂けていたというから、 さぞ恐ろしかっただろう。 奇襲攻撃により徳川家康を脱糞させた。
■浅井長政 181cm
■徳川吉宗 183cm
■石川五右衛門 207cm
■大塩平八郎 217cm
■生月鯨太左エ門 227cm
■西郷隆盛 182cm
■大久保利通 183cm
■福沢諭吉 173cm
■武市半平太 183cm
■山岡鉄舟 188cm
■近衛文麿 180cm
(比較用)
■川合俊一 195㎝
■ダルビッシュ 193㎝
■ジャイアント馬場 209㎝
■細川護煕 175cm
当時の平均身長158cmの時代で180cm超の前田利家、前田慶次、藤堂高虎、斉藤義龍(マムシの道三の子)、近衛文麿の高身長ぶりが渡来系である根拠ともなる話です。
この高身長というスタイルの良さが武将にとってはリーチが長くなる為に実戦では優位性を生み出し、下克上の戦国時代は渡来系が成り上がるにはベスティな環境であった。その成り上がりの筆頭格が180cmでイケメンだった前田利家だすな。
前記事で迂闊にも「秦氏=北レビ族、賀茂氏=南レビ族」なんて書いてしまいましたが、実はまだまだオイラの中ではよく分かっていないのです。
オイラが未だ悩んでいるのがレビ族のこと。
南北に分かれて渡来した筈で、これらがどの氏族になるか全く分からない。
少なくともレビ族は中国では李と
いう姓だったらしい。明代(1368年-1644年)には、ユダヤ人は皇帝から 艾、石、高、金、李、張、趙
の7つの姓を授けられ、これらは今日でも見識することが出来、これらの姓は本来のユダヤ人の氏族の姓 Ezra, Shimon, Cohen,
Gilbert, Levy, Joshua, Jonathan をそれぞれ中国風にしたものである。
つまり、李姓がLevy族(レビ)に与えられた姓だった。
で、今のところ、オイラが絞った候補は以下の4つの氏族。
■藤原氏
■忌部氏
■秦氏
■賀茂氏
洞察するには、過去の日本列島への渡来状況が必要ですね。高度自給自足ブログ様が書かれた名無し先生が教えた内容をベースに語り部説で不足部分を補うと、、、、
(名無し先生)
・天皇家は大化の改新で藤原家に乗っ取られた
・大化の改新までは縄文人、紀元前にシナイ半島を追われ中国北部を通り渡来したイスラエル族
・安土桃山時代までがユダ族と韓国経由で渡来したエフライム族
・もう一方のエフライムは百済から来て山口県を仕切っていた大内氏
(語り部)
・【上宮】 初期大王家(扶
余系ガド族)・・・扶余王族(ヘブル人、ガド族。主にスキタイ騎馬民族と混血。金文化継承)はシルクロードを通り中国、朝鮮の順に到達。扶余依慮は宇垣
(烏桓)に領地を譲り東の鮮卑の領地を求めて進撃するが壊滅的打撃を受け投身自殺。その子扶余依羅は馬韓の辰王の協力の元に加羅国を建国。更に新天地を求
め、倭人と夷人で三王朝を組む邇波国の邇波氏を頼り遣いを送って新三王朝を交渉。交渉成立させると邇波氏は外洋航海船(徐福技術)からなる水軍を率いて金
海に到着。依羅(金首露王)は長男・居登に五男(五瀬モデル)・玄に扶余国を任せ、妃の許黄玉(インド・アユダ国王女)と四男と六男~十男迄率いて日本
列島へ傀儡王として招聘され、馬も搬送しイヘヤ湾(伊勢湾)へ向かう。邪馬台国を討ち取り倭を継承して大倭と改め「倭旨」と名乗る。道教を奉じ、人民恭順
化用に波斯キリスト教を表面上信仰。
・【下宮】 後期大王家(百済烏桓系エフライム族)・・・百済人
の祖は北イスラエル国の亡国後、南回りで雲南経由しチベットへそのまま南下しインドを経由し、ここで小乗仏教信仰開始。更にタイを経由し中国南部から中国
入りし烏桓騎馬民族として勢力を伸ばすが、国は滅ぼされ漢民族と同化。扶余依慮は宇垣(烏桓)、後世の百済王族に領土を明け渡し百済国勃興。その百済王家
王子の百済昆支(倭武)が初期大王家に婿入り。百済王族は小乗仏教信仰故に「嘘も方便」であり口達者で残虐性大きかった。
以前、オイラはこの百済渡来の後期大王家を「百済」をキーにして、単純に「天孫系」としてしまったが、天孫系=南ユダ国=ユダ族&ベニヤミン族であり、ガド族もエフライム族も北イスラエル族だった(滝汗)。
つまり、初期大王家も後期大王家も同じ地祇系。
乙巳の変(実際には大化の改新は壬申の乱の後)でエフライム族【後期大王家】がクーデターを起こし蘇我入鹿(鞍作毛人)を暗殺し政権を握ったが、壬申の乱で再びガド族【初期対王家】が政権を手にし戻し、藤原四兄弟に嵌められて長屋王の自刃でガド族直系王族は滅亡。
その後、天武天皇と
藤原の娘(宮子:実際には天武と賀茂氏の三川時代の御落胤を養女)の血を引く聖武天皇が立ったが、聖武后である不比等と県犬養三千代(橘三千代)の間の
子・藤原光明子(実は美努王と橘三千代の子)の計らいで母・宮子と30年ぶりに再会。この時、母・宮子から出自のことを聞くに及び藤原憎しの「反藤原」と
なり天武色が強くなってしまったという思惑が外れたこともあった。その後、宇佐神宮から中継ぎの巫女である孝謙/称徳天皇(高野新笠)を経て白壁王(光仁
天皇)が偽証即位して皇位を継承。その子が桓武天皇。ここに百済エフライム王族=天皇家の外戚として君臨し始めたレビ族大祭司=藤原家の天下が始まった。
このエフライム族の天皇位を継承し藤原氏が后を輩出するという構造が室町末期まで続く。
その後、九鬼とか伊達とかの細川とかの七曜・九曜紋の客家系の出自不明の豪族がのし上がって来て信長・秀吉の30年の南朝政権が出来る。これが「安土桃山時代までがユダ族と韓国経由で渡来したエフライム族」という内容ですね。
ここからは藤原氏はユダ族となりそうな感じです。
ちょっと図式化してみた。
この状態では名無し先生の話と語り部説は何の矛盾もなくピッタリ当て嵌まる。
語り部の方が少し詳細かな。
初期大王家(ガド族)は長屋王で
滅亡したが、この時から天皇の色が「戦う王」から「神祇する王」に変化し、地下水路をめぐらしたペルシャ色の強い宮殿建築物から唐風を経て純和風に代わっ
ていった。。これもガド族からエフライム族に政権が移ったからだろう。というのも、ガド族は家畜を多く所有し、イスラエル国境周辺部を与えられた為、戦い
には常に先鋒を務めていた。一方、エフライム族は王を輩出していた為、戦いよりも祭祀に重きを置いていたという感じか。
大内氏の祖は百済26代の聖王の第3王子・琳聖太子と称しているが、この王子は架空人物であり、大内氏はエフライム族で間違いはないが、王家の者かどうかははなはだ怪しい。ただ、渡来後スグに多々良姓と大内県を与えられたことから、百済エフライム王族の可能性は高い。
藤原一族で幕末には武家伝奏、明治以降は伯爵家であった廣橋家の興光氏が伝来口伝の日本史を友人に語ったという内容がある。興光父君はもと内務省のエリート官僚で、東條内閣の秘書官、その後、千葉県最後の官選知事を勤めた廣橋眞光氏、母方の祖父は中川宮の孫、もと梨本宮守正殿下であり、母君は李方子さんの妹に当る。
廣橋、梨本宮、李、、、日韓合同朝廷の長男を輩出した日本のベルファシ勢力ど真ん中なところから出た暴露話ですが、真摯に傾聴するに値する内容です。
1)天皇家は北支から満州、朝鮮を経て日本にやって来た。
2)藤原氏は中国系と朝鮮系に分かれていて中国系の方が威張っていた。
3)南朝とか北朝とかいっても我々の祖先はどちらにもいたから、いま明治天皇が南朝でもまごついたりしない。
4)戦争によって日本のおかれた惨状は家康の鎖国がもたらしたものである。
5)孝明天皇は伊藤と岩倉が殺した(興光氏父君の眞光氏の言)
6)鳥羽伏見の戦い以後の明治天皇は睦仁ではない。すり替えた天皇
7)伊藤の爵位ばらまきは天皇すり代えの口止め料という性格
8)シンガポール陥落のときルーズベルトが特使を以て講和を申入れた。東條はそれを受けようとしたがヒロヒトは2.26事件の体験から、軍の叛乱を恐れて継戦を命じた。この時天皇に継戦を迫った親独派の将校グループがあった。
下線部の2)3)4)6)は初耳です。
それ以外は知っていて、正しい内容と思われることから、その他も正しい可能性は高い。
順不同に洞察してみます。
4)戦争によって日本のおかれた惨状は家康の鎖国がもたらしたものである。
家康の鎖国はイエズス会からメーソンのオランダへの乗り換えから起きている。
6)鳥羽伏見の戦い以後の明治天皇は睦仁ではない。すり替えた天皇
す
り替え説はネットでは良く知られた内容ですが、その多くは長州・田布施の大室寅之祐であるという話。ただ、その他にも田安(徳川)慶頼の子だとか、様々な
ものがある。本当のことを隠す為に撹乱情報での情報操作もあって、何かが本当なのかは一般人には容易には判らない状況。
まぁ、全てが本当の話のようにも聞こえるのだが、、、(滝汗)。
■明治天皇(1852年11月3日 - 1912年7月30日) 享年60歳
■鳥羽伏見の戦い・・・明治元年(1868年) 明治天皇16歳
享年60歳は少し若すぎのような気がする。
云われてみれば、確かに明治天皇の顔は変わってしまっている。
(左と中央(16歳)は同一人物【大室寅之祐】だが、右には特徴的な眉と口元が無い)
更に、左と中央の大室は明治4年の横須賀行幸時にフランス人が撮影した明治天皇と全く似ていない。頭の形がまるで異なる。入れ替わりがあったのか?
(浅黒く巨漢の男が白粉と口紅をして異様だったという)
いったい明治天皇とは何者なのだろうか?
そういえば、『日本製原爆完成全文』の榎本東州氏が以下のことをチラリと書いていました。ただ、氏の場合はもっと過激な内容です。「原田祖岳はやがて、久邇宮◎子女王(明治天皇即ち西郷隆盛の
子供で、久邇宮家で養育された。その事が後に宮中某重大事件の原因となるが、関東大震災後に◎仁天皇の后となる。)と肉体関係を結び、◎子皇后は原田祖岳
の子“◎仁親王”を生んだ。実質的には玉座に就き。昭和の弓削道鏡として、国民を召集し、不敬罪・国家総動員法・国民精神総動員法・統制法を振り回し、日
本国民を世界大戦の泥沼へと導き、最後は広島・長崎で人類史上第1号と成る、日本製原子爆弾の製造を完成させ使用した。」とあるが(滝汗)、何処まで信用
出来るかは不明だ。
※東州氏が述べる明仁・美智子・堤義明の三人は「原田祖岳」の子供というのは、宇多田光がビル・クリントンと藤圭子との間の隠し子というレベルのガセ情報だろう。
オイラは以前の記事では「西郷隆盛=明治天皇」に関しては否定側に立ったが、、、実は有り得る話なのかもしれない。
明治天皇も西郷隆盛(西郷南州)も180㎝を超える巨漢だったと云われ、一般的な西郷隆盛のイメージは下図のようなギロリとしな眼と太い眉毛が特徴の人物だが、これはキヨッソーネが西郷の親族から合成して描いた肖像画だったというのは良く知られた話。
身長に関しては歴史的人物に関して現存する鎧や衣服などの遺物、当時の記録、遺骨などから推定されたものがある。
■織田信長 170cm 痩せていて筋肉質。また、青年のころは女のような美男子だった。
■徳川家康 158cm 60kg 小太りだが、6人で扱うような重さの鉄砲を1人で使いこなすほど腕力があったという。狸に似ている。
■豊臣秀吉 154cm 痩せていて眼光は鋭い。
■前田利家 180cm 引き締まった体格の美男子。
■前田慶次 163cm 190cmを超える大男とも言われていたが、現存する鎧から推定するとこのぐらいである。
■加藤清正 159cm 鎧から推定。意外と小さい。
■真田幸村 160cm 豪傑だった父親とは違い平凡な顔で、「頼りなさそう」と言われており、本人も気にしていたという。
■上杉謙信 156cm 小柄だったが、面会した僧侶は「鬼か天狗のようで身の毛もよだつほど恐ろしい」と記録しており、 かなり威圧感のある風貌だったらしい。
■小島弥太郎 194cm 上杉軍随一の怪力を誇り、「鬼小島」と恐れられた。力士のような体格だったという。 武田信玄がけしかけた狂犬の口を掴んで地面に叩きつけて殺した話は有名。
■藤堂高虎 188cm 体重113㎏ 生まれた頃には他の赤ちゃんの2倍の大きさだったという。
■伊達政宗 159cm 遺骨が現存しており、正確な数値がわかっている。 また、腕や足の筋肉付着部分の骨がかなり発達しており、鍛えられたたくましい体格であったことがわかる。
■斉藤義龍 197cm 馬に乗ると足が地面に着く。「六尺五寸殿」と呼ばれていた。
■石田三成 156cm 出っ歯で色白。軟弱だった。
■豊臣秀頼 197cm 161㎏ 秀吉の息子とは思えない。ろくに動くこともできないほどの肥満体であったとされる。
■長宗我部元親 185cm 色白でおとなしく、女のようだったという。
■山県昌景 130cm 「武田の小男」と恐れられた怪人。胴体が異様に短く、上唇が縦に裂けていたというから、 さぞ恐ろしかっただろう。 奇襲攻撃により徳川家康を脱糞させた。
■浅井長政 181cm
■徳川吉宗 183cm
■石川五右衛門 207cm
■大塩平八郎 217cm
■生月鯨太左エ門 227cm
■西郷隆盛 182cm
■大久保利通 183cm
■福沢諭吉 173cm
■武市半平太 183cm
■山岡鉄舟 188cm
■近衛文麿 180cm
(比較用)
■川合俊一 195㎝
■ダルビッシュ 193㎝
■ジャイアント馬場 209㎝
■細川護煕 175cm
当時の平均身長158cmの時代で180cm超の前田利家、前田慶次、藤堂高虎、斉藤義龍(マムシの道三の子)、近衛文麿の高身長ぶりが渡来系である根拠ともなる話です。
この高身長というスタイルの良さが武将にとってはリーチが長くなる為に実戦では優位性を生み出し、下克上の戦国時代は渡来系が成り上がるにはベスティな環境であった。その成り上がりの筆頭格が180cmでイケメンだった前田利家だすな。
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李氏日本
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