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後半 【面白いのは福沢諭吉より義息子・福沢桃介 目には目を、ベルファシにはベルファシを】

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【面白いのは福沢諭吉より義息子・福沢桃介 目には目を、ベルファシにはベルファシを】 (02/02)
http://jfcoach.blog49.fc2.com/blog-entry-295.html
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下記は福沢諭吉一家のプロファイル

福沢諭吉 (ふくざわゆきち)

【生没】 1835(天保5)-1901(明治34)
【出身】 摂津国(大坂)
【実父】 福沢百助
【実母】 順
【妻子】 福沢錦(妻)、福沢一太郎(子)、福沢捨次郎(子)、福沢三八(子)、福沢さと(子)、福沢ふさ(子)、福沢俊(子)、福沢たき(子)、福沢みつ(子)など
【略伝】
 叔父中村術平の養子となって中村を称するが、後に福沢姓に復する。
 1854(安政元)年より長崎で蘭学を学び、その後、大坂に出て緒方洪庵の適塾に入り、塾頭を務める。1860(万延元)年には軍艦奉行木村摂津守の従者として咸臨丸で渡米、その後も欧州への使節団などに同行して各国に学び、『西洋事情』などを著す一方、1858(安政5)年に開いた蘭学塾で洋学の普及に務めた。
 1868(明治元)年には塾名を慶應義塾とし、維新後は教育活動や執筆活動に携わって『学問のすゝめ』など多くの著書を記した。

福沢 錦 (ふくざわきん)

【生没】 1845(弘化2)-(1924(大正13)
【出身】 豊前国(中津)
【実父】 土岐太郎八
【略伝】
 福沢諭吉の妻。
 1861(文久元)年に諭吉に嫁いだ。

福沢一太郎 (ふくざわいちたろう)

【生没】 1863(文久3)-1938(昭和13)
【実父】 福沢諭吉
【実母】 福沢錦
【略伝】
 福沢諭吉の長男。
 慶應義塾を卒業後、アメリカに留学。帰国後は雑誌「少年」の主幹などを経て、1907(明治40)年に慶應義塾社頭に就任して晩年まで務めた。

福沢捨次郎 (ふくざわすてじろう)

【生没】 1865(慶応2)-(1926(大正15)
【出身】 武蔵国(江戸)
【実父】 福沢諭吉
【実母】 福沢錦
【略伝】
 福沢諭吉の次男。
 慶應義塾を卒業後、アメリカに留学。帰国後、技師として山陽鉄道に入るが、1901(明治34)年の父諭吉の死により時事新報社の経営を引き継ぐ。
 その後、慶應義塾評議員や理事などを務めた。

福沢さと (ふくざわさと)

【生没】 1868(明治元)-(1953(昭和28)
【実父】 福沢諭吉
【実母】 福沢錦
【略伝】
 福沢諭吉の長女。
 中村貞吉に嫁いだ。

福沢ふさ (ふくざわふさ)

【生没】 1870(明治3)-(1955(昭和30)
【実父】 福沢諭吉
【実母】 福沢錦
【妻子】 福沢桃介(夫)
【略伝】
 福沢諭吉の次女。
 岩崎桃介を婿に迎えたが夫婦仲はあまり良くなかったようで、後年、桃介は川上貞奴と暮らした。

福沢 俊 (ふくざわとし)

【生没】 1873(明治6)-(1954(昭和29)
【実父】 福沢諭吉
【実母】 福沢錦
【妻子】 清岡邦之助(夫)
【略伝】
 福沢諭吉の三女。

福沢たき (ふくざわたき)

【生没】 1876(明治9)-
【実父】 福沢諭吉
【実母】 福沢錦
【略伝】
 福沢諭吉の四女。
 後の産業組合中央会会頭志立鉄次郎に嫁ぎ、東京YWCA会長を務めた。

福沢みつ (ふくざわみつ)

【生没】 1879(明治12)-1907(明治40)
【実父】 福沢諭吉
【実母】 福沢錦
【略伝】
 福沢諭吉の五女。
 潮田伝五郎に嫁いだ。

福沢三八 (ふくざわさんぱち)

【生没】 1881(明治14)-1962(昭和37)
【実父】 福沢諭吉
【実母】 福沢錦
【略伝】
 福沢諭吉の三男。
 慶應義塾を卒業後、イギリスなどへ留学。数学を学び、1906(明治39)年より慶應義塾大教授を務めた。

福沢大四郎(ふくざわだいしろう)

【生没】 1883(明治16)-1960(昭和35)
【実父】 福沢諭吉
【実母】 福沢錦
【略伝】
福澤諭吉の四男。
慶応義塾政治科を卒業後、ハーバード大学大学院へ留学。'08鐘紡から日本製鋼所に入り、対英通信事務主任兼重役付秘書となる。その後、'10日本瓦斯専務、千代田火災監査役、明正社・日本加工製紙各社長を歴任。 '28(S3)交詢社常議員に選任され時事新報・昭和電力・相模鉄道各取締役、豊国セメント監査役、国際工業代表を経て'31慶応義塾評議員に挙げられ、'50内山商事社長のち同取締役、ドツヂェンドセイモール社顧問を兼ねる。

福沢桃介 (ふくざわももすけ)

【生没】 1868(明治元)-1938(昭和13)
【出身】 武蔵国(吉見)
【実父】 岩崎紀一
【実母】 サダ
【妻子】 福沢房子(妻)
【別称】 岩崎桃介
【略伝】
 慶應義塾に学んで福沢諭吉の目に留まり、後に諭吉の次女房子を妻に迎え、福沢家に入る(諭吉の養子とはなっていない)。
 その後、実業家として成功し、愛知電気鉄道や大同電力などの社長を歴任して「電力王」の異名をとった一方で、帝国劇場会長、衆議院議員を務めるなど多方面で活躍した。
 妻房子とは不仲だったようで、後年は川上貞奴と暮らした。


繰り返しになりますが、簿外資金置き場である特別会計の中でも、メーソンは主に⚪️資金特別会計法を使うんです。

原発を日本に作る時のキャピタルもこれを通して入れたんです。

世間では正力松太郎ばかりが騒がれますが、彼は下っ端で、中心的役割は福沢諭吉の息子の桃介です。

福沢諭吉の義理の息子、娘婿、岩崎桃介が電力の鬼とか言われた松永安左エ門を表に立ててやったんです。

関西電力ホームページより(Wikipediaの文章より臨場感があるので)

電力王 福沢桃介

1 慶応義塾へ入学

  桃介が15歳の時、桃介が通っていた中学校が廃校となり、隣人である榎本(役場の下級書記をしている新知識人)より慶応義塾入学を強く勧められました。この青年は、西洋文化の事にも詳しく、桃介の才覚を高く評価しており、桃介も榎本の勧めにより慶応義塾への進学を決意しました。
進学のため東京に上京した桃介は、ロンドンの目抜き通りに似せた美しい赤いレンガの街や85基のガス灯がきらめく華やかな通りを見ても「なんだ!東京とは、こんなものか」と軽蔑のまなざしでながめるのでした。
当時の慶応義塾は、1万4千坪もの広大な敷地に建てられた日本一の洋学校でしたが、その慶応義塾を前に桃介は、「これが日本一の洋学校か!心ある若者の的になっている慶応義塾とはこんな程度か!」とあなどりの声をもらしました。しかし、胸の内では、さすがの桃介も興奮でふるえているのでした。
慶応義塾の寄宿舎での生活は、士族の子が多いためか、それぞれが肩を怒らせて大言壮語し、ちょっとしたことで喧嘩がおきるありさまでした。桃介は、年少組で、整った顔つきと華奢な体格から、貧弱に見られがちでしたが、人一倍負けん気の強い彼は、しばしば凄腕の先輩に組み付いては、その負けん気を発揮したことから一目をおかれておりました。
上京して2年が経ち、桃介は18歳になりました。貧しいながら充実した学生生活を送っていた桃介ですが、遠慮がちに故郷の両親に余分の送金をお願いし、初めて洋服を購入しました。その洋服姿で桃介はよく演説会を聞きにいきました。
ある日、浅草橋で演説会を傾聴した帰り、両国橋を渡り、夕陽を浴びながら南本所を堅川沿いに荒川の近くまできたとき、黄昏の林の道で、馬上の女性が十数頭の野犬にかこまれ、馬から振り落とされそうになっていました。桃介は凶暴な野犬の群に向かって突進し野犬を追い払い助けました。このときの女性が後の大女優貞奴であり、貞奴との初めての出会いでした。

2 福沢家へ養子を承諾

  品川の海を見下ろす慶応義塾の運動場で、賑やかに体育競技会が開かれました。慶応義塾としては第1回目の体育会でした。長ズボンにメリヤスの純白のシャツを着て出場した桃介に「白っぽいばかりじゃ勢いがない」と絵のうまい学友が、背中いっぱいにたてがみをなびかせ、口を大きくあけて吠えているライオンの首を描いてくれました。
この体育会には、来賓とともに福沢諭吉とその家族が居並んでいました。福沢家では、冗談まじりではありましたが、この体育会で次女お房の婿を見つけよう、という話がなされおり、いちはやく桃介に目をつけたのでした。
福沢家の白羽の矢がたった桃介でしたが、桃介はその結婚話に条件をつけ、洋行の望みと引き換えに縁談を進める決意を固めたのでした。

3 北海道炭礦鉄道へ就職

  洋行中、当時アメリカ最大の鉄道会社 ペンシルバニア鉄道は、鉄道事業のノウハウを学ぼうとする東洋人の福沢桃介に最大級の好意を示してくれました。
洋行途中の桃介に父の訃報が届き、母も他界したという知らせをうけ、両親の相次ぐ訃報は桃介にとって衝撃的な出来事でした。これをきっかけに桃介は洋行の期限を少し縮めて2年8ケ月で帰国し、直ちに、お房と結婚式を挙げました。
その後、北海道炭礦鉄道株式会社へ諭吉の段取りにより入社しました。入社当時桃介の月給は、百円。極めて破格で、この破天荒な待遇は、福沢諭吉の七光であり、先輩や友人からは、「月給泥棒」と呼ばれていました。

4 北海道炭礦鉄道 東京支社開設。買炭係支配人として東京転勤

  房の慢性ホームシックは、妊娠も重なり重症となったある日、開設されたばかりの東京支社へと転勤になりました。(諭吉夫妻の計らいだったのでしょう)翌明治24年1月5日、両親宅で無事長男を出産し、名は駒吉としました。
桃介の東京支社での肩書きは「買炭係支配人」。当時、2部門にわかれていましたが、炭鉱部門が不振で、当時の北海道とその周辺には、石炭を大量に購入する工場がなく、東京支社の開設は、その余剰石炭を東京や関西方面に売りさばき、さらに海外まで輸出することにありました。
桃介は、慶応義塾の大先輩井上角五郎専務の参謀となり、石炭の販売から海外輸出を一手に指揮する猛烈ぶりを発揮しました。こうして桃介の奮闘は、会社の業績を飛躍させ、かつて月給泥棒と皮肉った連中もこの活躍を素直に受け入れ認識をあらためました。
明治27年7月、日清戦争が勃発、国内輸送は、完全に麻痺、会社は桃介の果敢な奔走により、イギリス籍の貨物船を購入しました。8月初旬、桃介は船の受け渡し式に出るため、横浜の埠頭に停泊している船の甲板で洋上の入道雲を見上げたとき、軽いめまいに襲われ、のどにあついものを感じ、掌と甲板に真っ赤な血が飛び散りました。愕然とする桃介。27歳の夏の出来事でした。

5 肺結核療養のため養生園へ入院、在院3ケ月の後、大磯に転地

 桃介は、かなり進行している肺結核と診断され、当時、伝染病研究の権威である北里柴三郎の養生園へ入院しました。入院中、桃介は仕事への責任感の強さから、看護婦の目をかすめて病院を抜け出したりしては、興奮と疲れで病状をぶり返しておりました。
そんな桃介を第一の親友である田端重晟は熱意をもって見守っていました。こうしたことなどをきっかけに桃介は、憑き物が落ちたように素直になり、療養に専念していきました。養生園での入院生活はおよそ8ケ月、その後大磯海岸にて転地療養しました。
入院中、桃介は、福沢家というものの重圧から解放されたいという願いから断固として福沢家の人々のお見舞いを謝絶しておりました。

6 京橋三十間堀で丸三商会経営

 桃介の病は、およそ3年の療養生活で完治しました。桃介は北海道炭礦鉄道を休職の後、退職し、王子製紙の取締役となりましたが2年ほどで辞任しました。その後、「丸三商会」を松永安左エ門とともに開業し順調に業績を伸ばしていきました。当時丸三商会は米国の貿易商社アメリカントレードカンパニーの下請けで、中国大連に木材を送るのがおもな仕事でした。
ある日、商社との間で現在の金額にして20億円におよぶ仕事が入りましたがその後、商社は丸三商会との取引を断ってきました。
それは、東京興信所の一枚の信用調査書が原因で、丸三商会を破産に追い込むものでした。その後、丸三商会は、桃介に代わって義弟の清岡邦之助が社長となって再興を計りましたが結局、倒産してしまいました。桃介も、この事で心労と過労と不眠が重なり、肺結核を再発させてしまいました。

7 福沢諭吉先生没す

  明治34年元旦、三田の本邸では、福沢一族が集まり、桃介も妻子を連れて素直に年賀におもむいていました。
数え年で68歳を迎える諭吉は、「いよいよ20世紀になった。われわれは古いことは一切忘れてしまい、これからは覚悟を新たにして、大いに進むことを考えようではないか」と力強く挨拶しました。数日後の1月25日、諭吉は脳溢血の再発で危篤に陥り、2月3日永眠しました。
諭吉の死を境に一門の桃介を見る目も期待にかわり、亡き父を遠く越えられない諭吉二世たちの間にあって、桃介は誰の目にもずば抜けた駿馬に見えました。
偉大なる諭吉の圧力から解放された桃介は、冷静に自分自身を見つめる余裕を持つに至っていました。これが桃介の、おそまきながら「独立自尊」のスタートでした。

8 北海道炭礪鉄道会社に再入社

  桃介は「一歩後退、二歩前進」の考えで、北海道炭礦鉄道に復帰しました。この3度目の復帰は、桃介自身の地に落ちた信用を回復させる絶好の機会となり、退職までの5年間で、株式相場により巨万の富を隠し持っていました。
明治40年に株価が暴落し、それを予期したかのように桃介は、相場から足を洗いました.その後、桃介の忠告を聞かず、無一文になっていた松永を、関西旅行に連れ出しました.桃介にとってもこの旅は虚業家から実業家へ転進するステップとなったのです。実業家への転身は、試行錯誤の連続で、暴落成金の評判が広がると、各方面から事業話が持ち込まれ、会社設立に参加し、権利株により確実な利益を上げたことから、「権利株泥棒」と悪評がたった事もありました。

(管理人コメント:まるでロスチャイルドみたい・・・)

9 名古屋電燈株主名簿に登録

 桃介と松永の九州における鉄道事業成功の後、桃介は名古屋の東京系銀行や在住の慶応閥の要請をうけ名古屋電燈に乗り込みました。当時の名古屋電燈は、名古屋地方有数の近代企業で、日本の電力事業でも2番目に許可を得た会社でした。しかし、桃介は、名古屋士族との確執から半年で名古屋電燈を後にし、この間に電力に関するノウハウを蓄積しました。

(管理人コメント:会社乗っ取り疑惑で名古屋の既得権益から弾かれた・・・)

10 「三社合併」と大同電力誕生による木曽川開発

 木曽電気興業、日本水力、大阪送電を合併し大同電力が発足されました。大同電力は木曽川水系の水力を開発し、関西、中京等に電力供給(卸売)することで発展しました。
大同電力によって開発された電源の主流は、水力発電で、その大半が木曽川水系で占められております。大同電力社長である桃介は、木曽川の電源開発に情熱を燃やし「一河川一会社主義」のもと、河水を余すことなく、それぞれ適地に発電所を建設し、河水の有効利用をはかりました。そのために、桃介は木曽川の水利権を獲得しました。
木曽川水系で桃介によって建設された発電所は、賤母、大桑、須原、桃山、読書、大井、落合の7発電所であります。

(管理人コメント:既得権益享受者になった・・・)

11 大井発電所建設

 大井発電所は、わが国初の本格的な高えん堤をもつダム式発電所で後の木曽川水系のダム建設技術はもとより、わが国におけるダム建設技術の先駆的役割を果たすこととなりました。
大正10年に着工しながらも。大正13年12月の完成までの間、幾度か洪水に見舞われ仮設橋が倒壊したり、また、関東大震災(大正12年9月)に伴う金融情勢の悪化により建設資金の調達が困難となったため、民間企業としてはじめて米国(ジロン・リード社)で外債を発行し、資金不足を切り抜けるなど、幾多の困難を克服しての完成でありました。この間の経緯については大井ダムえん堤傍に立つ紀功碑の銅板に深く刻み込まれています。

(管理人コメント:国内金融が途絶し、日本初の米国モルガン財閥や大物からの外債投資を呼び込んだ・・・)

関西電力ホームページ転載以上

この松永安左エ門の孫が亀井静香が金融大臣をやってた時の秘書で、数年前名無し先生に⚫️⚫️⚫️銀行の頭取の氏家を引き合わせた人間です。

震災復興の為に氏家が間違いなく資金を受け取り、民の為に頑張ると私に言っておきながら、目の前で断られて、面子を潰されたのが、この松永安左エ門の孫です。

話が逸れました。

この福沢諭吉の義の息子、福沢桃介は、日清戦後に株で大儲けし、日清紡績、関西電力、中部電力、東邦ガス、名古屋鉄道、大同特殊鋼、東亞合成、大井ダム等を立ち上げた凄腕ビジネスマン。

正力松太郎のバックに電力の鬼と言われた松永安左エ門がいて、そのバックに福沢諭吉の息子が居たわけです。

ですが、これだけでは彼がベルファシかどうかなんて決められないんです。

要は、彼が何を誰のためにやってきたのか?

結果的に彼の関わった日本、地方、企業、従業員がどうなったかなんです。

仮に彼が相当のワルで、拝金主義であったとしても、福沢諭吉には関係の無い事。

エジソンとも交流があった福沢桃介ですが、エジソン自体、本当は発明家ではなく、テスラが本物の発明家であったわけで、エジソンはビジネスマンだった訳です。

Wikipediaより

桃介は関東大震災の影響で金融の道が閉ざされた時には、対日感情が悪化しつつあったアメリカに乗り込み、前代未聞の2万5千ドルもの外資導入に成功している。彼は前大統領タフト、モルガン財閥の大番頭ラモンドら政財界の大物らを前に、世界最大の富強を誇るアメリカを称えた後で、「しかし、アメリカは、黄金の毒素によって、今にローマのように衰亡する道を歩いている」と即興の演説を始め、「そのアメリカから、金の毒を、わずかながら取り出してやろうとする私は、実は貴国から感謝されていいはずです」とぶち上げ、大喝采を受ける。

Wikipediaおわり

まさにベルファシと渡り合って、日本、特に西日本の骨幹産業を作った人物ですね。

この時代に関東大震災復興資金を調達している実績も含めすばらしい。

私のようなくだらない人間から見ると、やはり福沢桃介は偉大です。

率直に言いますと、岩崎弥太郎、渋沢栄一、安田善次郎、浅野総一郎、福沢諭吉といった、人たちの考えは私には知りかねます。

ただ、当時の日本を列強と比較し、その遅れを率直に認め、当時の日本の周辺国が植民地化される中、それらとは一線を画し、同調しながら日本を西洋人が見た”文明国”になるよう、彼らに利用されつつも、日本を発展させたことは事実です。

当時の列強は、やはり何と言ってもイギリスであり、インドや中国(香港)といった大国を事実上の植民地にしていたわけです。

お分かりのように、マウントバッテンがサッスーンにインドのアヘンを中国に蔓延させ、ジャーディン・マセソンが武器で大活躍をしていた時代。

ベルファシ全盛期です。

彼らが幕末にかけて日本をどのようにしようとしていたか、それは説明する必要はありません。

まさに、世界の中心であるイギリスがフリーメイソンを入れて支配しようとしたとか、その程度の情報しかネットでは流れていません。

そうです、フリーメイソンは存在しましたし、今も存在します。

だから、福沢諭吉の周辺にも当然、フリーメイソンがいました。

常にベルファシを相手に仕事をしていました。

なので、利用され、利用するということは暗黙の了解。

これは現代の商売でも常識です。

それは福沢諭吉の登場以前からの問題ですから。

綺麗事を言う青二才では相手にもされません。

幕末の徳川慶喜の英断が日本が植民地になる運命を変えた?

坂本龍馬が立ち回ったおかげで薩長同盟ができ、それが日本を救った?

以前の名無し先生のコメントで下記のような文章があります。

基地問題に関しては、時間を取れる時でないと、お答えしても誤解を招く事になりますので、今回は差し控えさせて頂きます。

その上で、あえて沖縄に関して述べるならば、外地の中で最も内地に近い存在と言うのが適当と考えます。あえて分かり易い様、外地と言う呼称を使いましたが、これは日本国に編入されていない外地が、他に多く存在すると言う意味で申しております。

それらの地に居住する方々は、未だ日本人を名乗る事も出来ず、又は日本人(大和民族)である事に気付きもせず暮しておられるケースも多くございます。この原因は、米国による間接統治などではなく、日本国内からアジア広域に裏支配権を持つ方々の勢力争い、権益維持に帰する処が大きいと感じております。

この影響の及ぶ範囲は、中国、ロシアを含むユーラシア大陸から東南アジアを経て南洋諸島まで及ぶ範囲に広く分布しております。そして時には、欧州、南北米大陸にも閨閥化し浸食しておるわけです。敗戦後、米国の言いなりになる弱者を演じておりますが、その様な処に真実は無いという意味です。

しかし反面、日本国と言う小さな島国を本拠地に広域を裏支配する層のおかげで、他国と異なる強い経済力を維持してきた事は否定できません。

この恩恵にあずかる事を良しとする者達にとっては、カースト制度の維持こそが愛国心であり、儒教的な意味に於いての忠義心、正義である訳です。

中には大和民族こそが神に愛された特別な種族であるとの言い回しをする者まで現れます。こうした日本列島を中心に展開する、広域既得権益者により現在の沖縄情勢が生まれていると認識しております。

名無し先生コメント以上

福沢諭吉は、脱儒教的な考えを前面に押し出した人物。

それまでの日本は、水戸学にも見られるように儒教的教えがメインだった。

そこへ、英国を始めとする、列強の考え方をもたらした。

それが福沢諭吉の最大の特徴です。

実際に、アヘン戦争で中国は英国に簡単に負けた。

時代は中華思想の時代から、新時代に移行していたのでした。

客家を取り込み、まさに名無し先生のおっしゃるような、その恩恵にあずかる事を良しとし、日本式カースト制度を愛国心と称し安定していた徳川政府にも、一部に異議を唱える者が出てきました。

これが、福沢諭吉であり、その他の維新派の人々でした。

坂本龍馬はフリーメイソンだった!!っていう、短絡的な結論ではなく、誰に乗せられて、何故、暗殺されたのか?

答えは、誰かに乗せられて、途中でその誰かにとって裏切りと取れる方向に走ったから殺されたのです。

英国式を勧めていた福沢諭吉と強引に政変でビスマルク・ドイツ式を日本憲法にした伊藤博文。

明治維新よりずっとずっと以前の時代からイエズス会が日本に幅を利かせていましたし、これが初めての日本裏操作では無かった訳です。

イエズス会はバテレン追放令や禁教令で追い出されます。

その黒幕が新たな裏操作組織、フリーメイソンです。

結果的にイエズス会(フランシスコ会)をバックに伊達政宗が天下を取りに出ることはありませんでした。

背後でヘッセンによる調整があったのかどうかはわかりません。

伊達政宗を最後に、イエズス会は日本での力を弱めていきます。

禁教令の緩和

幕末、開国が始まると禁教令の緩和が取られ始めた。

1859年(安政6年)、幕府は開港場居留地において外国人の信仰の自由を認め、宣教師の来日を許可した。

カトリック教会はパリ外国宣教会を通して宣教師を派遣し、フランス横浜領事館付通訳兼司祭として来日したS・B・ジラールは江戸入りしている。またジラールは1862年1月(文久元年12月)に横浜天主堂を建立している。

その他にも「隠れキリシタンの発見」で有名なベルナール・プティジャンは、1862年に来日し、1864年に大浦天主堂を建立している。

アメリカ、イギリス、カナダ、オランダからはプロテスタントの宣教師が来日している。

正教会からは1861年ニコライ・カサートキンが函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭として来日し、後に日本ハリストス正教会を設立している。

ただし、信仰の自由及び、活動が認められたのはあくまで外国人居留地であって、依然日本人に対する布教や日本人の信仰は禁止されていた。

プティジャンは大浦天主堂で隠れキリシタンを発見して密かに信徒として匿ったが、それが結果として1867年(江戸幕府の最晩年)に浦上村の信徒が幕府に発覚するきっかけとなり、大きな問題となる(浦上四番崩れ)。

この一件は間もなく大政奉還によって明治政府に委ねられ、明治政府の禁教令に大きな影響を与えることとなる(後述)。
明治政府による禁教令とその廃止。

明治政府は大政奉還の翌明治元年3月15日(慶応4年、1868年4月7日)に高札・五榜の掲示を出す。ここではいくつかの江戸幕府の政策を継承することが記されており、禁教令もまた、その第三項「切支丹邪宗門厳禁」において継承されていた。

前年の「浦上四番崩れ」への対処は信徒の弾圧という形で継承され、明治政府は信徒を流罪とした(さらに流刑先では拷問や私刑が横行した)。

禁教及び浦上四番崩れは諸外国の反発を招き、明治6年(1873年)に制度としての高札が廃止されるのと同時に明治政府によるキリスト教の禁止も取り止められた(一説には、この諸外国の反発が高札の制度その物が廃止された理由として挙げられている)。

その後、日本人へのキリスト教の布教が行われるようになるが、明治政府としてキリスト教の活動を公式に認めるのは1899年の「神仏道以外の宣教宣布並堂宇会堂に関する規定」によってである。

Wikipediaより。

こうして、日本にイエズス会系、その他のキリスト系の大学が次々と設立。

上智大学

1549年、イエズス会の宣教師であったフランシスコ・ザビエルが日本での高等教育機関開設を構想したものの、日本の禁教により適わず、改めて1900年代にローマ教皇ピウス10世が日本での高等教育機関設立をイエズス会に託したことで1913年に設立された。中部地方のカトリック・ミッション校である南山大学と姉妹関係があるほか、各国のイエズス会系校と提携関係がある。

私事ですが、マニラでホテルを始め、様々な事業をグループ展開する友人(60代・日本人)は、娘をこの上智大学に外人枠で留学させました。

息子は慶応義塾ニューヨーク学院高等学校で勉強(?)中です。

ここだけの話ですが(笑)、お金があれば、受験無しで入学可能です。

その代わり、卒業するには何千万円もかかるそうです(汗)。

多くの日本の芸能人のご子息がいるらしいですよ。

友人から聞いた(本当の?)お話です。

かなり長くなってしまいましたので、いきなり締めますが、時代は流れ、福沢諭吉の思いとはかけ離れたのか、かけ離れていないのか、社交界はこのように発展し続けています。

差別化することにより優越感を得る。

そして、様々な都市伝説が噂されています。

当然です。

彼らは、自分たちは一般市民とは違うのだという、一線を引きたがりますし、それが無ければ、このような大金をはたいてステータスを得ようとしないのですから。

ベルファシとか、そういったレベルじゃないんです。

金持ちの子供は金持ちの世界で・・・みたいな。

これが、福沢諭吉=フリーメイソン、秘密結社という都市伝説の正体です。


本当のベルファシはこんなところにはいません。


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