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【マハリカ国(フィリピン)の歴史② フィリピンは自分のものだと主張する男】 (02/21)

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名無し先生関係、フィリピンの続き、出てますね。

【マハリカ国(フィリピン)の歴史② フィリピンは自分のものだと主張する男】 (02/21)
http://jfcoach.blog49.fc2.com/blog-entry-299.html

こんにちは、今回は前回の続きになります。

前回を読んでいない読者の方にリンクを貼っておきます。

この文章は、PDFで42ページに及ぶ、結構長いものです。

ご存知の方もいるとは思いますが、1762年にイギリス東インド会社がスペインを破り、1763年末までの約2年間、マニラはイギリスの統治下にありました。

2年間でフィリピンを手放してしまったのです。

その理由は当時のイギリスの忙しさを見れば納得できてしまうのですが、7年戦争で本国はヨーロッパで戦争し、アメリカ大陸でもフランスと戦い、インドでも統治の難しさを経験していた時期でした。

しかし、この文章を読むにあたって注意しなければならないのは、読者が、スペインが悪く、フィリピンが良いと思ってしまってはいけないないということです。

フィリピン、南米で原住民に対して残虐な行為をしたのは本国から送り込まれた犯罪者でした。

そりゃ、そのような犯罪者を送り込んだ当時の政府の責任は免れません。

しかし、それは事情があってのことだったと冷静に判断すべきです。

世界中で戦争をしていて人手不足だったのではないでしょうか。

実際、オーストラリアを開拓したのは、リバプールやマンチェスターの犯罪者だったといいます。

だから、アメリカのアクセントに比べ、非常にイギリスのアクセントに近い話し方をします。

北海道を開拓したのも、犯罪者だったと聞いています。

だから、北海道は方言が無く、標準語に近いアクセントです。

こういった、当時、未開の地に送り込まれた犯罪者が、現地で無法者の行動を起こすわけです。

犯罪者ですから当然です。

フィリピンにおける、残忍で無慈悲な彼らの行動は、スペインが当時、南米で人出不足になり、犯罪者に恩赦を与えてフィリピンに送り込んでいたという史実をこの文章が証明してくれるのではないでしょうか。

日本もまた、ザビエルが来て、イエズス会の酷い行為に耐えかねて、キリシタン禁止令が出ました。

中にはイエズス会と一緒に国民から搾取しようとしたキリシタン大名が存在しました。

そういう意味では信長ではなく、秀吉でもなく、家康が最終的に天下を取った理由もわかってくるのです。

要は、イエズス会にベタベタだった信長、そして、秀吉は違うと思いきや、やはり抱き込まれるわけです。

そこに、違う宗派が入っていきたのをきっかけにバテレン追放令です。

キリシタン(ポルトガル語:Cristão)は、日本の戦国時代から江戸時代、更には明治の初めごろまで使われていた言葉(口語)である。もともとはポルトガル語で「キリスト教徒」という意味であり、英語では「クリスチャン」(Christian)となる。元来はキリスト教徒全般を指すが、実際に使われるこの語は、戦国期以後日本に伝来したキリスト教(カトリック)の信者・伝道者またその働きについてである。たとえば、貿易に関わったオランダ人は、キリスト教徒(プロテスタント)であるが、キリシタンとは捉えられていない。

漢字では“吉利支丹”などと書く。江戸時代以降は禁教令等による弾圧に伴い侮蔑を込めて“切死丹”、“鬼理死丹”という当て字も使われるようになった。5代将軍徳川綱吉の名に含まれる“吉”の字をはばかって、綱吉治世以降は“吉利支丹”という字は公には使われなくなり、“切支丹”という表記が一般となった。

現在では、「キリシタン」という言葉は「キリシタン大名」や「隠れキリシタン」などの歴史的な用語として使う場合がほとんどであり、現代のキリスト教徒のことを指す場合は英語読みの「クリスチャン」を用いることが一般的である。また、カトリック・プロテスタントを問わず日本のキリスト教徒が「キリシタン」と自称することもほとんどない。特に長崎県などでは、かつての禁教・迫害などのつらい歴史を連想させるためか、この呼称を嫌うカトリック信徒も少なくない。

1605年には日本のキリシタンは75万人にもなったといわれている。

織田信長は宣教師たちに対して好意的であった。信長の後を継いだ豊臣秀吉も基本的に信長の政策を継承し、宣教師に対して寛大であった。

しかし、秀吉の天下統一目前の1587年、九州征伐の途上で宣教師やキリシタン大名によって多数の神社や寺が焼かれ、仏教徒が迫害を受けていることを知り、また、日本人がポルトガル商人によって奴隷として海外に売られていたことも理由として九州征伐完了直後、博多にて当時の布教責任者であるガスパール・コエリョを召喚し、バテレン追放令を発布して宣教師の国外退去命令とキリスト教宣教の制限を表明した(この時、秀吉がバテレン追放令を発布した理由については、さまざまな説がある。詳細はバテレン追放令の項を参照)。

これに対してコエリョは、有馬晴信などキリシタン大名に秀吉と敵対するよう要請、さらに武器・弾薬の支援を約束した[7]。しかし有馬晴信は、既に天下人の座をほぼ手中に収めていた秀吉と敵対する気はなく、この要請は実現されなかった。以後、イエズス会は秀吉を刺激するのを恐れ、公の宣教活動をしばらく控えるようになる。

一方、秀吉は追放令を発布こそしたが、以後も実質上キリシタンは黙認したため迫害などはほぼ行われなかった。なぜなら秀吉はポルトガルを通じての南蛮貿易に積極的であったため、追放令の徹底を図らなかったと考えられている。そのため、宣教師たちは立場こそ不安定だったものの、この時点ではまだかなり自由な宣教活動を続けていた。

しかし、豊臣政権の末期になってスペイン領であったフィリピンとのつながりが生まれ、フランシスコ会やドミニコ会などの修道会が来日するようになると事態は複雑化する。彼らは日本宣教において、当時のイエズス会の(社会的に影響力を持つ人々に積極的に宣教していくという)やり方とは異なるアプローチを試み、貧しい人々の中へ入っての直接宣教を試みた。けれども、これらの修道会がイエズス会のように日本文化に適応する政策をとらずに秀吉を刺激した(たとえば日本では服装によって判断されると考えたイエズス会員の方針と異なり、彼らは托鉢修道会としての質素な衣服にこだわった)ことや、イエズス会とこれら後発の修道会の対立が激化したことで、日本での宣教師の立場は徐々に悪化していく。

そして1596年のサン=フェリペ号事件をきっかけに、秀吉はキリスト教への態度を硬化させ、1597年、当時スペインの庇護によって京都で活動していたフランシスコ会系の宣教師たちを捕らえるよう命じた。これが豊臣秀吉の指示による最初のキリスト教への迫害であり、司祭や信徒あわせて26人が長崎で処刑された(日本二十六聖人の殉教)。


家康は、もう、その時、オランダ=ね、そうですよ、新たな時代の勢力と関係を持っていた??

そして、スペイン・ポルトガルによる、つまりイエズス会による世界征服が困難になり、オランダ・イギリスによる、つまりフリーメイソンによる世界征服にシフトしていった近代史の最も重要な部分の詳細を”具体的に知る”上で、この文章は非常に重要です。

そうです、あからさまな支配より、ちょっぴりベルベットな支配になったんです。

その後、2回の世界大戦があり、さらに、もっともっとベルベットになったんです。



それでは、翻訳の続きです・・・



イロコスでは500人以上が死亡し、4000戸の家が焼かれた。

国から修道士に与えられた年間200袋の米以外に毎週、それぞれの世帯は、卵、鶏肉、魚、果物や野菜、森林から薪、ワックスを修道士に捧げた。

四旬節の40日間、修道士は、一日一人あたり1個の卵を毎日要求した。

修道士は、すべての卵を食べられなかったので、あまった卵を逆にフィリピン人に売った。

明らかなイカサマであり、これは修道士の本来の意図だった。

修道院は庶民から皮肉られ「売店」と呼ばれた。

政府は、家族ごとに年一度年の年貢を課した。

さらに、ドクトリナスでは、修道士は、「サポート」という名目で、聖木曜日というコーパスクリスティと守護聖人の主要なお祭りに毎年、年に3回も現金による献金を義務付けられた。

そのお金でプエブロにチャペルが建立され、そこでも献金を義務ずけられた。

1589年には、スペインとメキシコの硬貨が導入され、流通し始めたが、庶民は依然として金を好んだ。

献金に必要な食料や硬貨がなかった場合、彼らの貴重な金(ゴールド)で支払うことを余儀なくされた。

さらに税金を支払うことができなかった場合、妻や娘たちをとられ、競売にかけられた。

しかし、借金は帳消しにはならず、次の徴収金額に加算された。

このようにして、金を体系的に原住民から奪った。

スペイン本国の王は彼のコロニーから徴収されたすべての金の20%を受け取った。

修道士はまた、ローマ教皇に集めた金の一部を送った。

④労働力や女性の活用

労働力も利用された。それは、「ポロのサービス」と呼ばれていた。

「ポロ」はほとんどが造船所で重労働に従事していた。

フィリピン人は深夜午前0時から日没まで非常にわずかな賃金を与えら働かされていた。

多くが疲労、栄養不良と悲惨な生活のため死亡した。

彼らは何ヶ月も造船所で働かされ、彼らの土地の作物ができなかったので家族は餓死した。

1581年、ルバオ、パンパンガでは、何千人ものフィリピン人が餓死した。

もう一つの搾取はタノレスといって、フィリピン人がスペイン人修道士、市長のために無給で給仕するものだった。

スペイン人は、彼らのすべてのニーズに絶え間なく給仕する人間を毎日10から20人必要としていた。

スペイン人は奴隷のように原住民を使い、まるで王様か神様のような暮らしをしていた。

修道士は修道院やその中庭に、見栄を張るために、若くかわいい女性たちを陳列させた。

モルガというスペイン人は、修道士のこのような行為をスペイン本国に報告したレポートの中で次のように表現した。

“これ以上に報告する相手を不快にする事実は存在しない(女の子が陳列されている様子)”

今日でもフィリピンには、男たちが仕事帰りに、単なる性欲のために、多くのかわいい女の子を陳列させ、選び、行為を行うサウナ風呂がある。

修道士は修道院のために家政婦を雇用した。

家政婦は「despensera」と呼ばれていた。

多くの修道士にとって、「despensera」は教区でもっとも美しい少女から選ばれ、司祭の性奴隷だった。

司祭の愛人は、修道院に収容されていたが、それをカモフラージュするために時々、便宜的に「結婚」した。

⑤修道士の腐敗

修道士は無差別に女性と内縁関係を持つ、ヒット・アンド・ラン(やり逃げ)戦術以外にも、不正と制圧でフィリピン人の富を奪うことを欲した。

植民地支配の初期の頃、スペイン総督はすでに修道士のこの商業主義を認知していて、下記のように語った。

「司教から修道士に至るまで、彼らは最も世俗的かつ最も熟練したトレーダーと同じくらい優れた商人である。」

修道士は、常に彼らのサービス(洗礼、結婚式、葬式)のために人々に金を請求した。

例えば教会での懺悔、結婚予告(出版物による発表)と結婚式での祝福を金で請求した。

(cantada)を歌うようなミサや葬式には異なるレートが設定してあった。

追悼式や洗礼では、その時に使われる十字架の種類に応じて異なる料金設定だった。

金属製の十字架を使用して洗礼する場合の手数料は、木製の十字架を使用す場合の手数料よりも高価だった。

埋葬のサービスは、使用する鐘の大小、文章で御経を書くのか、歌で御経を読むのかでも金額は違い、墓地に向かう途中で何回止まって御経を読むのかでも停止回数に応じて、異なるレートが設定されていた(最大で3回まで)。

1758年、スペイン国王あての監査報告書はこうだ。

“略奪は人の死後でさえ、尚も行われている”

(管理人注釈)

日本のクソ坊主も一緒だ・・・

(管理人注釈以上)

修道士はハシエンダ(農園)と広大な土地の所有者となった。

彼らはフィリピン征服に貢献した権利により、マハリカ内のすべての土地は教皇の所有物で、教皇からスペインの王にリースされているのだと考えていた。

その結果、マハリカ内のすべての土地は王の判断でどのようにでもできる領土となった。

征服者はフィリピン人にこれらの土地を分け、彼らの住居を与えてやり、栽培をさせてやっているのだと考えていた。

王はふさわしいスペイン人(役人)に土地を与えたが、修道士には土地を与えたわけではなかった。

しかし、スペインの役人が本国に戻ったり、死んだ場合、修道士にこれらの土地を寄付することが行われ、これが”修道士の土地”という既成事実の始まりだった。

時には、修道士は、役人が栽培のためにフィリピン人に与えた土地を購入した。

彼らはまた、誰もが自由に薪やその他の林産物、釣りや共同農業を収集するための共同の土地を乗っ取り、「カハ·デ·コムニダード」のための資金を調達した。

これらの土地が修道士の所持になった場合、その周辺の土地に境界が拡張し、農民に与えられた周囲の土地を侵略し、文字通り”成長”した。

この現象がミゲル・バナルという、ラジャ・ソリマンの子孫の土地に起こった。

1609年、イエズス会は、キアポのプエブロ周辺農業のための土地を買った。

すぐに彼らは、村人の土地に侵食した。

バナルは訴えたが、武装した暴徒と共にイエズス会の司祭がやってきて、彼の家を燃やし、再度何か建物を建てたら即刻燃やすと脅した。

1688年、これと同じように、シラン、オヤイエ、マリンタの村を修道士と暴徒が襲撃し、同じ理由で村を燃やした。

スペイン語では、イエズス会をJesuitaといい、イエスキリストの社会という宗教的な秩序で修道士に含まれているが、厳密に言えば違う。

バナルやその他の人々が経験したことから新しい単語がタガログ語に加わった。

単語 ‘JESUITA’から’SUITIC’という単語ができた。

今日でも、この言葉は、見て見ぬふりをしたり、狡猾で不正直な人のことを指す。

スペイン統治の時代、中国人はフィリピン人よりも優れた農民だと考えられた。

中国人がこの国に来ること自体は望ましかったが、スペイン政府は、中国移民数の制限をしていた。

これらの中国農民は大きな需要があったので、スペイン入国管理当局は、制限を無視するよう、修道士によって買収された。

1639年には、マハリカには新しく33,000人の中国移民が来た。

キアポでイエズス会は、この中国人の250人を採用。

彼らの農場で働くようにしたが、抑圧的条件を理由に中国人が1603年にイエズス会に対して反乱を起こした。

中国の労働力は非常に非人道的な方法で利用された。

カランバ、ラグナのハシエンダでは、例えば、6,000人の中国農民が用いられた。

しかし、悲惨な労働条件のため、300人が死亡。

その年の間に、スペイン人による非人道的な扱いに対する反乱が数件あり、約22,000または24,000人の中国人が虐殺や病気により、死亡した。

⑥人間のカスとヤクザ達

マハリカに来たこれらのスペイン人領主は誰だったか?

私たちは、レガスピの組織がセブとパナイで行った方法から学んだ。

そして、それから百年後マハリカに来た兵士は最悪だった。

1677年、アメリカ大陸のスペイン政権下のすべての犯罪者に恩赦を与え、彼らは志願兵としてマハリカに来た。

彼らは、社会のカスだった。

彼らは、軍の最高ランクに昇進し、セックスと権力と富に取りつかれた。

権威と剣を手にした野蛮な犯罪者や傭兵はフィリピン人を動物狩りをするように強姦、略奪を楽しんでいた。

宣教修道士は、これらの兵士よりひどかった。

多くは、スペインの低い社会階層から来たものであった。

彼らのプエブロとそのドクトリナスでは、彼らは唯一のスペイン人だった。

彼らの悪い習慣と原住民に対する残虐さのため、1642年と1698年の条例29で、プエブロに居住することが禁止された。

彼らの行動を報告したり、その権限を争う可能性がある修道士の近くには彼らは住まなかった。

彼らの言葉は、法律であり、彼らの気まぐれは、命令だった。

1842年にスペインの王への報告には、修道士のライフスタイルを4つの顕著な言葉で批判した。

恥を知らない内縁関係

飽くことを知らぬ富

傲慢な誇り

そして手に負えない残酷さである。

修道士の定期的な収入は、修道士農園主(ハシエンドロス)のテナントとして多くのフィリピン人が支払う賃料から来ていた。

これらの修道士によって蓄積されたお金は、さらにガレオン貿易に投資された。

この投資のリターンは一往復200%から300%の範囲であった。

何世紀を通じて、修道士の土地は修道院に快適に暮らす太った強欲な地主に莫大な利益をもたらし、拡大した。

一方で、より多くのフィリピン人は、どんどんテナントになり、償還の希望もなく彼らの宗教的な主人からの借金の連鎖という地獄にハマって行った。

これはまた、ラテンアメリカ諸国でも起こった。

また、インド人では常に彼らの貢献の一環として無給で労働を提供した。

これは、教会の建設だけに限らず、土地の教会の偉大なルールとなった。

長期的に、彼ら原住民が完全に極貧になるまで貧困化した主な原因の一つはは教会であった。

植民地時代の終わりまでに、教会はすべてのペルー、コロンビア、パラグアイ、エクアドルそしてすべてのラテンアメリカ諸国全体の富の半分を所有していたと推測されている。

そして残りの半分は、聖職者たちが管理していた原住民への抵当権だった。

スペインのローマカトリック司祭、オリジナルの「suitic」は、植民地時代の333年の間にフィリピン人の奴隷化、抑圧と貧困化の主要なエージェントだった。

⑦アンタッチャブルと強欲修道会

修道士のドクトリナスは彼らの絶対的な拠点となった。

彼らの新しい概念による力を使い、マハリカで最も権威のあるマニラ大司教にさえ従わず、民事および教会によって義務付けられた「面会」を拒否した。

例えば、1697年、ドミニカとフランシスコ会が、大司教が彼らの拠点に入るのを拒否し、マニラ大司教の護衛が門を壊したことに対する仕返しとして、彼らのドクトリナスを放棄し、修道士が決裂した。

修道士が使った強力な武器はストライキで、それは周到に用意され、計画されていたので、大司教が面会を命じても応じなかった。

これは司祭不足のために、大司教にとって大変な脅威であった。

「ヨシュアは自分は羊の世話をする良いシェパードであると言った。だが実は羊のことなど心配していない。金のために働く彼は、群れの中で唯一の人間なので、誰も見ていないから、狼が向かってくるのを見た途端、単に逃げるだろう (JO·12:10-13)」

修道士は、キリストが言ったこの言葉の”金のために働く彼”よりもひどかった。

彼らは大司教(上司)が来るのを見るたびに、大司教の怒りにビクビクし、教区を放棄し逃げ、また集まるのである。

修道士の動機は明らかだった。

ドクトリナスが設立されるとすぐに世俗の修道士(聖職者で無くても良かった)に引き継がれるのである。

だから修道士は、保身に集中し、妾と富と豊かなハシエンダ(農園)での栄光にしがみつき、ドクトリナスを離れなかった。

彼らが専制君主のように支配していた小さな王国から、彼らを排除することはできなかった。

神の使いとして、普通(贅沢ではなく)に生活するのに十分な品々を、善良な人々が年貢と'リモスナス'(贈り物や供物)として修道士に捧げた。

しかし、修道士が手当、取引、ハシエンダのレンタルから手にした金は過剰であり、土地や人々から得ようとする、彼らの飽くなき欲望を満たすためだけに役立った。

修道士は極貧のフィリピン人からも容赦なく奪い、吸い上げた。

本来ならフィリピン人の世話をするはずの立場である。

逆に、修道士は貧困と憤りを引き起こした。

これらの暴君的な司祭は、フィリピン人に向けた思いやりと慈悲を示さなかった。

彼らのトップであり、海外にいて、修道士を送り込んでくるマスターマインドは彼らより更に悪党であった。

⑧インディオは痛みを感じない? ----というでっち上げ

怪我人に侮辱を加える、これらの司祭は、「フィリピン人の、怠惰、低IQは、月から大きな影響受けているからである」と非難した。

1720年に書かれた彼の上司のアウグタ修道士に宛てた手紙には、「すべてのフィリピン人は狂人である」と評価がされていた。

彼らはまた、フィリピン人をインディオと呼び、動物の特性を持つバルバロで、原始的な動物ブルートで、粗野な、病的で未開の無知で無学な生物だと表現した。

1765年に、スペイン財務省、レアンドロ·デ·ビアナは、フィリピン人の怠惰を観察したが、逆にスペイン人を非難した。

彼はスペイン人は、商業以外の活動に従事させるために彼らの尊厳を奪った似非紳士であると語った。

彼らは詐欺と物乞い托鉢(年貢の収集)に従事し...と、全くの怠惰に住んでいる。

彼らはフィリピン人に圧力をかけ、土地を奪い、ほとんどすべてのものを奪い去ったと非難した。

怠惰は悪魔の仕業であることから、これらのスペイン人は悪質な話、中傷や派閥、ナマケモノと放逸、そしてギャンブルに従事し、労働無しで、リッチになったと非難した。

フランス人旅行者のル・ジェンテイルは18世紀後半、フィリピン人とスペイン人の両方を見て怠惰を観察した。

彼は言った。「私はその理由を発見した。フィリピン人はスペイン人から怠惰を得た。ローマの異端審問の閣僚だった修道士の残酷な専制政治にこれが起因している」と。

1782年、ピエール・ソヌラというフランス人は言った。「すべてが...フィリピンでは、彼らのすべての努力を宗教に向けることしか能がない。そして、唯一の目的は改宗者を獲得することだけだ」

一方、フランス人、シュヴァリエ·ド·ページは、サマールの人々の技量と才能を絶賛している。

彼らはやギター、カヌーときれいな織物や(バイオリンに似た楽器)フィドルを作っている。

彼らには優れた造船技術があり、完璧なピッチでロープを結う。

フィリピン人は、怠け者だから貧乏なのではない。彼らは自分の家族も養えないほど、あまりにも多くのものをスペイン人に捧げることを強いられていたため、家族のニーズに応えるだけの十分なエネルギーもイニシアチブも出せないのである。

1860年、スペイン政府は、プエブロ「カハ·デ·コムニダード」の余剰金を管理する金融機関としてモンテ・デ・ピエダスを設立した。

またもや、入植者のための抑圧的なビジネスベンチャーとなった。

フィリピン人は働いて、建物や、学校の維持管理を含め、それぞれのプエブロの「公共事業」に使われる資金のためだと思い貢献した。

しかし、この機関はさらにフィリピン人を疲弊させた。

⑨古代フィリピン人は読み書きができたという事実

マハリカに来た初期のスペイン人は特にルソン島のフィリピン人は、読み書きができたことを証言している。

マハリカの人々は独自の文字を持っていました。

1600年にイエズス会の司祭だったキリノ神父、1603年にはモルガという植民地の総督、1621年にはパルドタベラが、1663年にはコリン、イエズス会司祭が書いた。しかし、これらの権威の証言にもかかわらず、多くの地元の歴史家は、今日でもプレ・ヒスパニック・ネイティブ・フィリピン人は読み書きができなかったと主張している。

スペインの植民地化の初期の頃、フィリピン人はヨーロッパの人々よりも識字率が高かった。

ルソン島のある村に住む少年、少女の誰からも、読み書きする方法を知らない者を見つけることができなかったことが記録されている。

スペイン時代の下では、最長14歳までの少年少女が学校に通った。

授業といえば、ミサ、ロザリオの暗唱を毎日午後、行進を一日二回と多くの歌と祈りだけだった。

ほんの少しの時間、読み書きのために割り当てられた。

1863年12月20日、スペイン王室は地方を含め、学校制度を確立するようマハリカ政府に通達した。

法令が出たのは、マニラでのスペイン語の普及が遅れていることを懸念したためだ。

8年後、1871年に、マハリカの教育システムはさらに悪化した。

多くの地方では、全く校舎は無かった。

デスクも何も無かった。

多くの生徒は地面に座っていた。

ペンや書籍も無く、この状況は、搾取的なモンテ・デ・ピエダスがカハ·デ·コムニダードから多くの資金を借りていたため、資金不足になっていたことに起因した。

フィリピン人のための教育は、修道士の優先事項ではなかった。

以前、1680年に、ドミニカ共和国の大司教は、原住民が神学的かつ道徳的な勉強に対し、非常に小さな興味しか持っていないという手紙をスペインの王に書いた。

しかし、フィリピン人を聖職につけるために勉強させることは支持されなかった。

10、私は来て、私は見た、私は征服した - とローマ教会は述べた。

修道士を含むスペインの征服者は、利他的、精神的な動機を持ってマハリカの海岸に来ていなかった。

彼らは、共有することではなく、ルールを作り、略奪や他の欧州諸国に力をみせつけることだった。

彼らは、パワーと富と喜びのために彼らの飽くなき欲を満たすのが目的であった。

征服者はいつも、雄牛を制圧したボニファティウス8世の二本の剣を使った。

これさえあれば、彼らは失敗しないと考えていた。

兵士の手に持つ魔法の剣は平和を愛する先祖を持つフィリピン人に恐怖を与えた。

それは抵抗した人たちの肉を引き裂いた。

剣は彼らの土地の富を活用できるようにフィリピン人を征服した。

メキシコや他のラテンアメリカ諸国は、彼らヨーロッパの植民による残虐行為と虐殺で荒廃した。

それと同じことがまた、ここで行われた。

彼らは実際には1521にマハリカの海岸に来た人と同じ人種であった。

それがメキシコで恩赦を与えられ兵士となったスペインの犯罪者がマハリカに来たのだと推測するのが妥当だ。

当然のことながら、彼らの職業である、搾取、抑圧と略奪の333年で、この国に対するすべての犯罪はより戦術的になった。

フィリピン人は、征服しながら、精神性、道徳や識字において、彼ら征服者よりも優れた人種だった。

フィリピン人の祖先は、燃やし、盗み、殺すことによって、征服するために来たスペイン人より文明と神を恐れる人種でった。

スペイン修道士が手に持つ魔法の剣は、フィリピン人の心の中に深く、神への恐怖と地獄の恐怖を与えた。

それはと神の代表としての修道士の手に跪き、キスをすることにつながった(ローマカトリックの理解と実践としてひざまずくことは、神への崇拝の行為である)。

ひざまずき、キスをしないことはつまり、神の代表者の神の律法に違反して抵抗した人への罰だったので、修道士は、なおさら地獄の恐怖を教え込んだのだった。

修道士が使った魔法の剣は、フィリピン人に忍耐と長い苦しみがあっても、外国人観光客をおもてなしするという性質を形成した。

そういう意味では、教会や州政府への服従と忠誠さを彼らに教わったフィリピン人は征服者の”偉大な祝福”に深く感謝している。

(管理者注釈)

皮肉たっぷりですが、なるほど・・・

(管理者注釈おわり)

聖職者は、教皇ボニファシウスの二本の剣に抵抗した場合、彼らは神に抵抗し、彼らが煉獄と地獄の火に投げ込まれることをフィリピン人に教え込んだ。

これらの二本の剣を使用して、スペイン人はALEBATA(古代フィリピン語)をやめさせ、アルファベットを教え込んだ。

彼らは、この国の先住民族の文化を捻じ曲げ、その忌まわしい「文明化」の方法と価値を教え込んだ。

彼らは、土着の宗教を消し、ヨーロッパの腐ったバージョンのカトリックに置き換えた。

333年間の征服の結果、フィリピン人の心と魂は矛盾を生み、現在のフィリピンを形成した。

腐った政治、減衰した道徳性、絶望的な貧困とカトリックの迷信に代表される、キリスト教的ではないキリスト教国になった。

11、英国のルール

1761年、プリンス・ラカン・アクーニャ・マクラウド・タリアーノ(マハラジャ・ルソン・タジーンの孫でラジャ・ソリマン・タジーンの息子)はスペインの植民の圧政に対する闘争で英国政府に助けを求めた。

彼はアレクサンダー·ダリンプルという北ボルネオに拠点を置く、イギリス東インド会社の従業員に連絡した。

ダルリンプルは、最初、彼は英国の東インド会社があった島で君主スルタン・バンティランに相談した。

1761年1月にスールーに行き、彼はスペイン人の親権下にあったスルタン・アリムディンの署名を得るために11月にマニラに戻り、サンボアンガに行った。

1762年1月2日にはイギリス軍はスペインとの戦争を宣言した。

1762年8月1日、イギリスのマハリカへの遠征は、インドのマドラスから出発した。

海軍が攻撃し、陸軍が上陸し、ドレイパー将軍とコーニッシュ提督の指揮下で英国艦隊は1762年9月13日、マニラ湾に侵攻、マニラへの侵攻はスペインにとってまったくのに驚きだった。

ドレイパーは降伏するように召喚状を送った。

しかし、スペイン評議会、総督主宰の大司教マヌエルロホ·デ·リオは、戦争を決意。

イギリス軍は攻撃し、スペイン軍を攻略した。

1762年10月6日には英国王室陸軍と海軍がスペインの植民からフィリピン人を解放した。

スペイン人によるフィリピン人の土地の剥奪と残酷な虐待は、スペイン人の植民に対するフィリピンの人々の不満と反乱の根源だった。

マニラにおいてスペインは公式に降伏した後、将軍ドーソンドレイパーが率いる英国政府は、列島全体を征服したと宣言した。

1565年12月7日に父アンドレスウルダネタによって起草されたように、スペイン王フェリペ2世のマハリカの職​所有者証書の取り消しを命じた。

代わりに、ドレイパーはマハリカの統治者をマハラジャ・ルソン・タジーンの孫の正当な後継者としてラジャ・ラカン・マクラウド・タリアーノとする文書を書いた。

イングランドとスペインの戦争が1763年2月10日に終了した時、10月1月4日に、スペインがマハリカを譲渡するという条件が英国政府宛の書簡に加えられた。

1764年1月7日、スペイン人、サイモン·デ·アンダは、スペインが所有していた土地(フィリピンのハシエンダ)の所有権をプリンス・ラカン・アクーニャ・タジーン・タリアーノに譲渡することを英国のOCT 01-4議定書で再確認した。

百年後、1864年、英国のOCT 01-4議定書がアウディエンシアを通して、プリンス・ジュリアン・マクラウド・タリアーノに再発行された。

スペインのエンコミエンダ法に基づいて下された、RD 571の住宅ローン法に基づく権利をタリアーノ一族であるマハリカ諸島が引き継ぐということが書かれていた。

(注釈)

アウディエンシア(Audiencia)はスペイン・カスティーリャ王国にあった最高司法機関である王立の大審問院(「聴訴院」とも訳される)を指し、新大陸のスペイン殖民領においては司法・行政・立法を司った王室機関で、副王と並ぶ重要性を持っていた。

(注釈終わり)

文書は英国のOCT 01-4議定書というタイトルで、”01”はマハリカとして知られていた前ヒスパニック時代の国家を指す。

”4”は、この国の4領域を意味する

1.ルソン

2.ビサヤ

3.ミンダ​​ナオ

4.パラワン

である。

タジーン(今はカラヤンと呼ばれる)島と北ボルネオ(マレーシア連邦が発足した1963年に、名前がサバ州に変更された)について、英国は北ボルネオ、サバは、マハリカ諸島の一部であったという事実を認識した。

英国は、マハリカにおけるスペインによる征服と物理的占領でマハリカがスペイン王の財産となったというスペインの主張を却下。

英国のOCT 01-4議定書は、太古の主張を認めた。

結果的に、この文書は、元の所有者、プリンス、ラカンアクーニャ・タジーンが代表である、タジーン王室に全体列島を変換することが書かれている。

1891年、スペインのロイヤル・アウディエンシアのコピーが英国政府によってプリンス・ラカンアクーニャ・タジーン発行にされた。

1891年、英国のOCT 01-4議定書を確認したのティテゥーロ・デ・プロピエーデ・デ・テレニョスは、勅令OCT 01-4議定書を発行した。

これは後に1902年に土地登記法496によって確認された。



・・・・・・



と、いうわけで、次の章まで訳してしまおうかと思いましたが、土曜の昼下がり、家族サービスに徹します(笑)。

続きは次回ということで、それでは。


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