お昼の①ポイントレッスン、原田説最新、ユダヤ同士の死闘、やっときますかね。
2015年3月3日。「ユダヤ人問題」の決着がつく日 (連載「パックス・ジャポニカへの道」)
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これだけたくさんの公開メディアが存在している我が国。だがそれらの報道、特に「メインストリーム」におけるそれを追って行っても結局、世界では何が起きているのかますます分からなくなることが多い。
実際、我が国の報道現場における状況を知れば知るほど、国際報道に対する取り組みの手薄さに空恐ろしくなる。新聞やテレビにおいて「国際部」「外報部」は事実上の左遷ポストである場合が多い。表向き有名な記者らは数名いるが、その実、これらの部を実質的に支えているのは勤続数十年というベテランの「海外通信社から送られて来るティッカー担当」であることが多い。ノンキャリアである彼女(の場合が多い)たちは何せ数十年もティッカーを読み続けているのだからリテラシーがついている。「これ、重大事件じゃないの?」と読み取ることが出来るわけだ。このレヴェルでは未だ良い。
しかし結局のところ、デスク以上のレヴェルはというと、「我が国のお茶の目目線で見た時にどうか」という極めて低次元の姿勢に終始するのである。すわ邦人誘拐事件ともなると大勢の記者がこれでもかとばかりに現場に押し掛けるが、そのほとんどすべてが何らのバックグラウンドも知らない素人集団である。我が国外務省の在外公館を中心に日本人の現地関係者から情報収集し、後は英字紙を切り貼りした内容をさも独自取材のように報道するだけだ。あるいは積極的に取材するにしても我が国国内の「文脈」をそのまま引っ張って行って現地取材するのでとんでもなくちぐはぐなことになる場合が多い。
読者・視聴者がもはやネット時代にそんなもので満足するはずもなく、結局、どこから連れて来たか分からないが「専門家」なる人物の登場ということになる。妙に詳しい「専門家」氏のコメントで部数がはけた、あるいは視聴率が上がったとなるとその人物にオファーが殺到する。その実、この謎の「専門家」は諸外国の対外情報工作機関が対日世論工作のために送り込んだエージェントかもしれないのに、である。こうして我が国における「国際認識」は一つまた一つと虚像によって固められていくのである。
ちなみに月曜日・木曜日に我が国で発売される主要週刊誌に至ってはもっとお寒いの実情だ。独自取材をするにしても、英語が流暢に話せる記者は1、2名しか編集部にはいない。そのためいわば「一本足打法」でおんぶにだっこなのであり、当該記者はほぼ毎週、何等かの形で世界中を旅してまわっているとも聴く。
前置きが長くなったが、諸民族が未だに素手で殴り合いを続けている大陸からすれば信じられないほど呑気な「国際情勢認識」のままで私たち日本人がいる背景にはGHQという名で対日管理策を徹底して講じた米国勢の戦略が明らかにある。だが、私たち日本人は明らかにそれに自ら悪乗りし、これほどまでに何ともとぼけた情勢認識のままでやり過ごして来たのが実態なのである。
しかし今やこれでは全くもって足りないのである。平均株価が18000円台を超えたといっても、何かが不穏なのである。中東では同胞が(経緯はともあれ)2名も殺害され、東ウクライナでは「停戦合意」といっても戦闘行為が続いているのである。米国は「金利を引き上げる」と言いながら何時までたっても逡巡する一方、欧州ではギリシアを巡り「合意」したと言いつつ、未だ「23日までは分からない」などとも言われている。こんな時には「有事の金(ゴールド)」にでもなりそうなものだが、金価格はというと一時期の暴落ぶりではないものの、停滞した感じを見せている。目を国内に転じると、高級百貨店は中国人観光客に交じって我が国の「富裕層」が買い物に勤しむことで繁盛する一方、いわゆる「デフレ・ビジネス」であった飲食チェーンは軒並み崩落を余儀なくされている。安倍晋三総理大臣は勇ましくイデオロギー的なリーダーシップを語ろうとするが、当の私たち国民はというと明らかに白けているのである。子供たちはもっと顕著であり、ふと見るとスマホをいじり、仮想空間での人生だけで一生を過ごしそうな勢いだ――――。
しかし、ひとたび目を海の向こう側に転じると全く違う光景が広がっているのである。それはいわば「最終決戦」のシーンであり、いよいよ国際社会は最終コーナーにたどり着いたというのが実際なのだ。一体それはどんな”分岐点“なのであろうか。
3月3日(米東部時間)、ネタニヤフ・イスラエル首相が訪米し、米連邦議会で演説を行う見込みである。我が国では大手マスメディアが前面に立ててこのことを報じないため、このことの何が問題点なのか皆目見当がつかないという方も多いのではないかと思う。それもそのはず、我が国では今から20年前である1995年に発生した通称「マルコポーロ事件」をきっかけに、いわゆる「ユダヤ人問題」に触れそうな話題には極力率先してタッチしないという論調が支配的だからだ。つまり「これはユダヤ人を巡る深刻な争い事だ」と感じれば感じるほど、我が国の大手マスメディアは事の真相が距離を置き始める傾向が露骨なのだ。
それではこの「ネタニヤフ3.3演説」の何が問題なのかと言えば、米国勢を率いているはずのオバマ大統領ら民主党のエスタブリッシュメントたちはいずれもはっきりとこの演説実施に対して嫌悪感を表明しているという点である。要するに「ネタニヤフよ、ワシントンD.C.まで来るな」というのである。
ネタニヤフ・イスラエル首相が米連邦議会下院で優勢な共和党所属議員らからの招きを受けてとはいえ、事実上「米国勢に押し掛ける」のには無論理由がある。オバマ米政権がどうやらイラン勢との「核問題」に関する協議を実質的に妥結させたようなのだ。ところが明らかにイスラエル勢はこれまでの「同盟関係」に則り、米国勢より詳細な情報提供を受けているのかというとそうでもないようなのだ。不信を呼ぶ行為であり、表沙汰になっている以上にかなりの激しいぶつかり合いが両者の間で見られているのは明らかなのである。
かつては友好国であったが途中から厳格なイスラムへと立ち返ったイラン勢は、イスラエル勢にとって今や「宿敵」である。他方で1970年代まで米国勢はイスラエル勢を冷遇し、時に「危険な核開発国」として敵視してきた経緯がある。それがニクソン政権(当時)に態度を豹変させ、同盟関係まで結んできたのである。米国勢からの潤沢な軍事支援を受けたイスラエル勢はみるみる内に軍事大国となり、先進国の仲間入りすらした。ところがその米国勢が今度はよりによってまたイラン勢と仲良くしようとしているというわけなのである。何度言っても埒が明かないため、「それでは議会で演説をしてオバマのやり方を徹底的に論難してしまえ」ということになったのである。
何ともこれは乱暴な話である。考えてもみて頂きたい。我が国の隣国である韓国のパク・クネ大統領が我が国の対韓政策が気に入らないといって、民主党の招きで訪日し、しかも国会で反日演説をぶつ、などといったことがあり得るであろうか。およそ「文明国」同士の出来事とは考えられないはずだ。しかしこれが現実に米国勢とイスラエル勢の間において発生していることなのである。これは主権国家としての米国勢にとっての危機であると共に、1970年代から大きく転換し、固定化してきたはずのイスラエル勢を基軸とする米国勢の対中東政策も大転換の時を迎えていることを露骨に示している。
もっともこの出来事を「国民国家」の次元でだけとらえていると明らかにその本質を見失ってしまう。なぜならばこのことの背景にはいわゆる「ユダヤ勢」の中における“見えない争い”としての「セファラディ(Sepharadi)勢」と「アシュケナージ(Ashkenazi)勢」との間における長年にわたる抗争が横たわっているからである。紙幅の都合上、ここでは詳細を述べる余裕が無いが、簡単に言うならばセファラディ勢とは「元来のユダヤ人」たちであり、これに対してトルコ系を中心に多民族が何等かの理由でユダヤ教に改宗し、ユダヤ人を名乗り始めた者たちの末裔がアシュケナージ勢である。だが不思議なことに現在の「ユダヤ人国家」イスラエルではアシュケナージ勢が数の上では少ないものの、支配階級の座にある。一方、セファラディ勢の側はジョージ・ワシントンによる米国勢の「建国」の時からそこには居り、そのため米国勢の根幹を成す勢力になっている。そして厄介なことにこれら両者は長年にわたって己の正統性について争ってきているのだ。
しかし私たち日本勢はそんな事情はついぞ学校において習わないのである。ましてや身の回りにそうした境遇におかれている「ユダヤ勢」も全くいない。そのため、国際情勢というと本当に「国民国家」同士の争いであるとナイーヴに信じ続けており、よもやこうした「ユダヤ人問題」が国家という枠組みを超えて血みどろの抗争まで招いているなどとは想像すらつかないのである。
今、双方が必死なのにはもう一つの理由がある。それは金融資本主義(financial capitalism)がいよいよ終焉の時を迎えるからである。一言でいうと簡単だが、これには大きな痛みが伴う。なぜならば「インフレ拡大」して当然と思っていた世界経済が「デフレ縮小」へと転ずることにより、パイにありつけなくなる者たちが世界中で若者たちを中心にあふれかえるからである。当然、「チーズはどこへ行った」ならぬ「俺のパイはどこへ行った」ということになるわけであり、やり場のない怒りを人々は誰かにぶつけようとするはずだ。するとそこにおあえつらえ向きの一群がいるのである。金融資本主義の権化としてマネーを集積し続けてきた「ユダヤ勢」たちである。ここに反ユダヤ主義(Anti-semitism)の根源がある。
これに先ほど述べたユダヤ勢の「内部抗争」というもう一つの軸が絡んでくるのだ。「静かに正しいことをやる」をモットーに暮らしてきた米国勢のセファラディ・エリートたち(American Sepharadic Elites)からすれば、これ見よがしに儲けてきた(というかあえて「儲けさせてきた」)アシュケナージ勢へとこれら怒りの礫をうまく向けさせることが出来れば、「ユダヤ勢」の正統性を巡る長年にわたる抗争も決着をつけられるのである。この時、アシュケナージ勢が「建国」した人造国家・イスラエルは規模を大幅に縮小させるか、あるいは下手をすると消滅する憂き目にあうことになる。
無論、対抗するアシュケナージ勢からすればそんなことは絶対に許せないのであって、あらかじめ予防線を張るのに躍起になる。「イスラエルとの同盟関係を事実上断ち切ることの非道さ」を米世論、そして国際世論に対して訴え、こうしたセファラディ勢に操られたオバマ米政権の所業こそ間違っていると居丈高に語るのである。もっともセファラディ勢からすれば正にこうした振る舞いこそ「下品」であり、「レヴェルが低い」のであって、静かに怒りの炎を燃えたぎらせることになってしまう。そしてありとあらゆる形で目に見えない人的ネットワークを用いつつ、一つそしてまた一つとイスラエル勢に対する包囲網をとじ始めているというわけなのだ。
この見えない「ユダヤ勢の戦い」は最終的に巨大な発火点をもたらすことはいうまでもない。そしてそれは政治・経済・文化・歴史といったあらゆる局面で着火するのであり、とりわけアシュケナージ勢が圧倒的であったこれまでの「利権構造」が今後、音を立てて崩壊し始めるのである。我が国における「思考停止」したマスメディアが正にその典型なのであって、ここで生じる怒涛の渦の中でこれまで安住して来た拠り所としての「構造」を破壊されることで、急激な方向転換を余儀なくさせるはずだ。その結果、目に見える形としては1970年代、あるいは1990年代からテレビ画面上を牛耳ってきた御仁たちがどういうわけか姿を消し始めることになる。なぜならば彼・彼女らが「数字がとれる」のは単に、こうしたアシュケナージ勢が全世界的に自らの防護網として張り巡らせた「構造」の上に立っていたからであり、これが消失する今、もはや彼・彼女らにも出番はないのである。
いずれにせよ「3月3日(米東部時間)のネタニヤフ演説」、これが世界史の分水嶺なのである。我が国の株価を含めた金融マーケットも何もかも、全てが今やその一点を向き始めている。「血みどろの抗争の中で誰が勝ち残るのか」―――運命の時がいよいよ訪れることになる。そしてそれはある意味、「既に決められた未来がその既定事項を示す(The predetermined future reveals its predeterminedness.)」だけのことなのかもしれない。