怖いね。不気味だね。
日本に戒厳令が敷かれる日 (連載「パックス・ジャポニカへの道」)
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こんな夢を見た。
201X年。春を迎えたある日、たまさか実家に帰り、母とくつろいでいる最中に玄関の呼び鈴が鳴った。
「誰だろう・・・」
訝しそうに年老いた母が玄関に出るとカーキ色の制服を着た若者たちが何人か立っていた。
「昼下がりに申し訳ありません。現在、65歳以上の方々に対して調査を行うことになっています。これは先ほど出されました戒厳令に基づくものです。御同行願います」
「いや、その・・・」
何かを言いそうになった母を男たちは一瞬にして抑え込み、止めてあった群青色のトラックに押し込む。私が気付いた時には、扉は開いたまま。トラックは轟音を立てて走り去った後だった。
私は「これはまずい」と直感した。家を出た瞬間に何をされるか分からないのである。いや、家の中にあっても気配を消しておかなければ当局が何時やって来るか分からないのである。
その瞬間から、私の実家における蟄居生活が始まった。
無論、インターネットは使うことが出来ず、スマホや携帯電話も破壊した。居場所を特定されるからである。
何せ「自由な言論」「本当のことを語る者」ほど事ここに及んで当局が血眼になって追い求めている者はいないからだ。混乱する状況の中で、国民に判断力を持たせてはならない。そのためには判断の材料を提供する自由な思考の持ち主(freier Denker)は淘汰されなければならないからだ。
夕暮れから闇夜になったのを見計らって雨戸を全て閉めた。朝になっても薄暗い室内で電気もつけることが出来ない。何せ外部からそれと分かる「生存反応」を出してしまってはまずいからである。
幸い、用心深い母は大量の保存食を買い込んでいたようだ。しかしそれは当然、自然災害を想定してのことだ。まさか、戒厳令発布を受けて、息子がそれをむさぼり喰うことになるなど、想像だにしなかったに違いない。
窓をほんのわずかだけ開けて外気を入れながら、外の様子をうかがう。不気味なほど全てが静まりかえっている。
その時、だ。再び呼び鈴が鳴った。母が連行されてから何日が経ったのか、緊張の余り覚えていない。
しばらくすると扉のカギを開ける音が聞こえた。可能性は二つ。当局が無理やり押し入って来るか。あるいは子供の頃から「母が留守の時はここにカギを置いておくから」と教え込まれた秘密の場所を知っている者がやってきたか。いずれにせよ、緊張が走る。
「ガタン」
扉を開けて足早に入ってきたのは、背広ではなく、長くつに作業服という格好をした兄だった。どうやら一人でやってきたらしい。
「いるんだろう?タケオ?どこにいる?」
兄が1人でやってきたことを物陰から充分確認した私は、静かにその背後から「ここだよ」と答えた。
「やっぱり。お母さんから突然、手紙が届いたのだよ。出版社のAさんという男性経由で」
「Aさん?」
兄は公務員だ。行政官は「有事」ともなると全員が背広を脱ぎ、作業服を貸与されることになっていると聞いた。
もともと地方自治の現場で自然災害が起きた際の陣頭指揮をとったこともある兄は作業服がなぜか様になっている。しかし今は戒厳令、すなわち「有事」である。公務員とそれ以外の者の間の行動の自由には格段の差がある。
「隣の地区の担当になったんだ。いろんな理由を付けて少しだけ抜けてきた。これを渡しにね」
見ると大きな封筒を手元に持っている。Aが務める出版社のものだ。本当だったらば5月に本を出すことになっていた出版社である。Aからは走り書きで兄に宛てて、別添の手紙を私に手渡して欲しいとだけ書かれた手紙が中に入れられていた。
中には小さな封筒が入っており、そこに見慣れた母の達筆で文字がつづられていた。
「生きているんだ・・・」
思わず涙ぐんでしまう。破けないようにそっと開封すると、行政の現場で使われる質素な便箋に母の走り書きを読み取ることが出来た。
そこにはこんなことが書かれていた。―――あれからトラックに乗せられ、気が付いたらば大きな体育館に老人たちが大勢集められていた。老人たちは最初、口々に不平を言っていたが機関銃を持ち、人相を隠した男たちが建物を取り囲んでいることを知っていから、急に静かになった。
やがて一人、そしてまた一人と名前を呼ばれ、別室に連れていかれた。呼ばれた者たちはその後、待てど暮らせど帰ってこない。徐々に高まる不安の中、ついに母の名前が呼ばれた。
覚悟を決めて、カーキ色の制服を着た無表情な女性に腕をとられながら進むと、別の小部屋がそこにはあった。
「手短に済ませましょう。あなたが持たれている資産を全てここに記して下さい。当局はその権限をもって全ての記載事項を確認します。虚偽の記載をした場合には処分を受けることになりますので注意して下さい。また金融資産や不動産だけではなく、知的財産権について相続したものなどがあれば、全てを記して下さい。書き終わったらばそこにある呼び鈴を押してください」
その場にいた係官はそう言って立ち去り、カメラもなく、机といす、そして便箋と鉛筆だけが置かれた部屋に母は取り残されたようだ。
その時、母は妙に落ち着いていたようだ。書き損じたふりをして余計に書き記し、私に宛てたメモを書いたようだ。そこには「まずは無事であること」「連行されてどうなるか分からないこと」「とにかく気を確かにもってお互い過ごしましょう」といったことが書かれていた。
それにしてもどうやってこれを母はAに渡し、Aはさらにこれを公務員である兄に渡すことが出来たのだろうか。Aの出版社で亡くなった父が出版をしたことがある。それにその出版社はここにきて当局の主張を暗に記した書籍を大ヒットさせていることでも知られていた。
「いろいろな偶然」が重なってこの手紙は私の手元に届いたに違いない。読み終わり、顔を上げると兄が言った。
「もう戻らないと。目立たないようにまた来るよ。とにかく今出るのはまずい。戒厳令が発布されてから5日目だが、何日続くのかは霞が関でも皆目見当がつかないのだよ。とにかく食べ物をもってまた来るから。静かに辛抱しておいてくれ」
そう言って兄は、私が手紙を読んでいる間に亡き父の書斎から1冊とってきた本を抱えて、足早に出ていった。何をしにいったのかと上司や同僚に聴かれたらば、本を取りに帰ったとでも言うのだろう。
「戒厳令という闇・・・。」
私はふとそう呟いた。この闇は何時まで続くのかは分からない。外界から全て遮断された中で、思うのは何にもつながっていないかもしれない将来に対する漠然とした不安だけである。「この日」が来るとはおぼろげながら分かっていたものの、いざ来てしまうと当惑している自分がいる。
ただただ、光の無い闇だけが私を覆っていた。
・・・
「東京に戒厳令発布」―――そんなことはないと私たち日本人は高をくくっている。だが今、インテリジェンス機関の世界で最も危惧されていることの一つが我が国におけるイスラム・テロの発生、とりわけ「まさか」という場所での発生なのである。
戦後、我が国は「米国によって守られている」という漠然とした印象の中、存在し続けている。そうした印象論が全くもって仮想であることを示したいというのであれば「テロリスト」たちはどこを狙うだろうか。
「親密なる日米関係の象徴」であり、同時に「テロの対象とは通常考えられることがない場所」、そして「無垢な日本人たちが大勢集まる場所」がその時、ターゲットとなる。これは妄想などでは決してないし、いかなる意味においても「悪意」があって述べていることではない。現実に今、国内外のインテリジェンス機関における警戒情報のトップ項目の一つに掲げられているとの非公開情報に基づくことなのだ。
もっとも問題は「その後」である。当初、我が国メディアは事実関係を盛んに報じるであろうが、ほんのしばらくすると無言となる可能性がある。なぜならば「体制の側」からその旨指示が出るからだ。ただでさえ「現体制に無批判になりすぎる」との危惧が外国メディアから表明され始めている我が国メディアは、いざそうなれば一斉に「右に倣え」となるはずだ。
一か所だけではなく、二か所同時に、しかも無垢な市民が大勢巻き込まれ、「容疑者」は拘束出来なかったとなると、「体制の側」にとって千載一遇のチャンスが到来する。日本国憲法が想定している事態を越えたと「判断」し、超法規的な措置としての戒厳令を発布することが可能になるからだ。
「日本国憲法下で戒厳令は認められていないのではないか」
そう思われる読者も大勢いるはずだ。確かに2003年に定められた「武力攻撃事態法」によって発することが出来るのは国会による事前承認に基づく「非常事態権」に類似した権限に基づく命令だけである。当然、基本的人権は最大限尊重されるべきことがそこでは謳われており、日本国憲法を超えて良いなどということが普通ならば読み取れるわけもない。
だが、現実にはどうであろうか。目の前で無垢な市民が大勢、テロ攻撃にさらされたとなった時、我が国の立法府が現状の範囲内の授権で足りると判断するとは考えられない。しかも今や連立与党による圧倒的多数というのが我が国国会における実情なのである。機が熟したと判断されれば、現行の法令は全て踰越することなどいくらでも出来るのである。「力(might, Macht)」の世界においては。
無論、その時、「当局の側」が念頭に置いているのは、何もそこで発生することになるイスラム・テロだけではない。我が国において積み重なってきた全ての”矛盾“をそこで一気に解消しようとするのである。その時、我が国における最大の課題とは公的債務残高の異様なまでの累積だ。だが、何のことはない、そうした「有事」となったからには戒厳令をもって国民の財産権を制限してしまえば良いだけなのである。ありとあらゆる財産を徴用することは戒厳令により全くもって可能なのである。
あと1年で「2.26事件」が発生してから丁度80年となる。帝都・東京に戒厳令が敷かれ、重武装した兵士たちがものものしく街中で展開したのは、ついこの間、“オンリー・イエスタディ”のことなのである。そのことを、私たち日本人は今だからこそ、思い出さなければならない。なぜならばその「過去」こそ、程なくして「甦る現実」なのだから。
2015年3月1日 東京・仙石山にて
原田 武夫記す