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2015年 宇宙人への旅立ち EP3 ファントムプーチン

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raptさんの前に、もう1つ、名無し先生のショートコメントの解読作業、第二弾、煩悩くんフルスロットルさん最新も、参考になりますね。

2015年 宇宙人への旅立ち EP3 ファントムプーチン

http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-2900.html

さてさて、『2015年 宇宙人への旅立ち』シリーズもEP3を迎え、内容が更に難解になってきました。

ここから先は欧州の歴史をよく知らねば理解できない領域ですが、西洋史は授業で「世界史」を選択しなかったオイラにとては禁断の領域。西洋人などは鮮人以上に同じ顔に見えてしまうので、まして国名がコロコロ替わり、同じ名を持つ諸侯が登場する為に混乱し、名前と事跡を覚えること自体が大変ななのである(爆)。

今回洞察するのは以下の箇所です。
普通に読んだだけではチンプンカンプンです(滝汗)。

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2)この様に女局攻勢を掛ける常套手段は
オラニエがヘッセン家に対して、
更にヘッセンがロマノフ家に介在した手法。
古くはミタンニがエジプト王朝に介在した歴史が存在する。

3)ヘッセン家は内紛でルター派とカルバン派に分裂し長らく争っていた事実がある。
オラニエが懐柔した方がロマノフ家を潰し、空中分解した。
ロマノフ王朝を実質支えていたタタル系貴族が
ブーチン系ロシア政権を後援していたとしたらどう思われるだろうか?

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このモザイクの掛かったような表現がオイラの血継限界「マン毛狂写輪眼」の洞察眼をえらく刺激するのだす(爆)。

まずは一般的な基礎知識から、、、
(ほとんどがWikipediaだすが、、、)

■ルター派
ドイツ発祥。信仰の改革が主。万人司祭。余分な財産を蓄えることを禁止。主に農民層が支持。

■カルヴァン派
ツウィングリからフランス人のカルヴァンに引き継がれスイス国内で定着。礼拝様式や教会制度の改革が主。選挙等で選ばれた長老支配。キリスト原理主義で急進的だが長老の考え方により教義が異なる。貯金や労働を善とする。主に商人が支持。幸福主義を拒否し現世を神に仕える為の修道院と認識。オランダではゴイセン、フランスではユグノー、イギリスではピューリタン(清教徒)と呼び方が変わる。

ここで更にネーデルラント(ベネルクス3国=ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)の歴史を掻い摘んで説明。

ネーデルラント

1)15世紀、ネーデルラントはブルゴーニュ公国の一部となるが、毛織物生産により経済的先進地となった。

2)1477年、ブルゴーニュのシャルル豪胆公が戦死。一人娘のマリー女公は後の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と結婚。ネーデルラント地域はハプスブルク家の所領化。

3)神聖ローマ皇帝カール5世は、ネーデルラント17州すべての主権者として専制政治を行い、カール5世退位後ハプスブルク領がオーストリア系とスペイン系に分かれると、ネーデルラントはスペインの支配下に入った。

4)名門総督家系のナッサウ家はネーデルラントを含むライン左岸の領地とナッサウ家伝来のライン右岸の領地を兄弟でそれぞれ相続していたが、兄の子はそれに加え母方の叔父の南フランスのオランジュ公領を相続。しかし戦死すた為、弟側のオラニエ公ウィレム1世が相続し、オラニエ=ナッサウ家が興った。これが現在のオランダ王家。
※一旦はナポレオンに追い出されフランスの支配下にあったネーデルランドですが、ナポレオンのエルバ島脱出を機に開かれたウィーン会議(1815年)で、南ネーデルラントを併せたオランダ王国(ネーデルラント連合王国)が成立。かつての総督の子孫は立憲君主国の国王として君臨した。

5)ネーデルラントではプロテスタントのカルヴァン派などが広まっていたが、カトリックのスペイン王フェリペ2世は厳しい異端審問を実施してプロテスタントを弾圧。このためネーデルラント諸州は1568年、亡命中の有力貴族オラニエ公ウィレム1世(1533年 - 1584年)を先頭に祖国ネーデルラントに侵攻した。旧教から拒絶されたイングランド女王エリザベス一世とともに、南ドイツのバイエルンやスペイン=「イエズス会」の旧教体制に対する反乱は初めはスペインに対する単なるレジスタンス運動だったが、やがて独立戦争へと拡大。ユトレヒト同盟が結成され北部7州が加盟し、これが後のオランダとなった。
※イエズス会は1534年8月15日に創設

この戦いが八十年戦争(オランダ独立戦争 1568~1648年)です。

つまり、オレンジ(オラニエ)公ウィリアムはカルヴァン派の頭目の1人であったわけですが、元々はザクセン大公国フリードリッヒ三世、選帝伯ルードヴィッヒ五世、ヘッセン方伯フィリップらの「ドイツ騎士団」末裔がルターの起こした宗教改革の中心にいた。但し、ルターの保守的で妥協的な改革をよしとせず、徹底抗戦的なカルヴァンの登場を機にカルヴァン派に乗り換えて行き、オラニエ公ウィレム1世、エリザベス一世らを巻き込んでいったわけです。

その後、オラニエ公ウィレム3世は名誉革命(1688~1689年)のクーデターでジェームズ2世に勝ち、妻であるジェームズ2世の姉・メアリー2世と共同統治してイングランド王・スコットランド王・アイルランド王の地位を手に入れた。
※ここからグレート・ブリテン帝国が始まるが、アン女王の死でステュアート朝は終焉。その後、ハノーヴァー朝を経て、現在のウィンザー朝(サクス=コバーグ=ゴータ朝)に至る。

このオラニエ=ナッサウがフランスのヘッセンを女局攻撃で懐柔し同族化。これがヘッセン傘下のイエズス会とナッサウ傘下のプロテスタント=メーソンの敵対する2勢力を一元的に握るヘッセン=ナッサウ勢力の誕生です。

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もともとヘッセン=カッセル方伯フリードリッヒ二世(五五歳)は、国教グレイトブリテンのジョージ三世(三七歳)や旧教オーストリアの女帝マリアテレジア(五七歳)と協調し、ルター派とカルヴァン派を繋ぐ新教君主として、ハノーヴァーやプロシア、ザクセン=ヴァイマール、ヴュルテンブルク、バィエルンなどを統一し、ドイツに反動的な絶対王政の「千年王国」を建設することを妄想していました。
(玉川大学 純丘曜彰教授の講義資料「西欧近世文化史 第7章 メイソンリーの理想と現実」からの部分抜粋)

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1777年、ヘッセン=カッセル方伯フリードリッヒ二世らはかつての騎士団を統合した結社「聖堂騎士団」を乗っ取り。「千年王国」の野望を抱いた。この流れが100年後、南軍将軍でメーソン33階級のアルバート・パイクの書簡(1871年)へと繋がっり、メーソンとイエズス会を駆使し世界を「正反合」で揺り動かしWW1、WW2という具体的な動きになった。

今はWW3直前という位置づけの時であるが、彼らが自ら定めた期間内に果たして間に合うのだろうか?

このヘッセン家からの枝分かれがマウントバッテン家。ヘッセン大公国を統治していたヘッセン=ダルムシュタット家のうち、弟アレクサンダー大公子がユリア・テレーザ・ハウケと貴賤結婚して生まれた長男ルイスがイギリスへ渡って家名をバッテンバーグ家、そしてマウントバッテン家と改めた。ルイスの娘アリスの長男はエリザベス2世の王配フィリップですが、子のチャールズ皇太子以降からはマウントバッテン=ウィンザー家と呼ぶようになる。

■ロマノフ朝
1613年から1917年までロシアに君臨した最後の王朝。1613年にロマノフ家のミハイル・ロマノフがロシア・ツァーリ国のツァーリに即位して1721年にピョートル1世がインペラトールを名乗り体制をロシア帝国に改め西欧化を推進し、1917年にロシア革命(二月革命、十月革命)で滅亡。

最後の皇帝ニコライ2世の皇后はヘッセン大公国の大公女アレクサンドラ・フョードロヴナ(通称アリックス)。夫婦の間にはオリガ皇女、タチアナ皇女、マリア皇女、アナスタシア皇女、アレクセイ皇太子の1男4女がいた。

二月革命で臨時政府が出来た際、一家は監禁状態となったが1991年エカテリンブルクの森で両親と3人の大公女、2007年には弟アレクセイと歳の近い姉のマリアもしくはアナスタシアどちらか1人の大公女の遺骨も発見。皇帝一家が全員殺害されており、一人も生存していないことが明らかになった。

ニコライ一家
(皇太子と4公女)

このアレクセイ皇太子の血友病を治して皇后から絶大な信頼を得たのが怪僧ラスプーチン

このラスプーチンと4公女の間の友情は深く、「親愛なる、大切な、唯一の友人」「私はまたあなたに会いたい。今日、夢の中にあなたが出てきました。」と手紙に記している。4公女はラスプーチンの写真に彼の祈りの言葉を添えた魔除けのロケットペンダントを常に首にかけていたという程に宮廷の女性にカリスマと崇められた。敵対する修道士がラスプーチンが皇后や4王女や侍女たちと関係を持っていた卑猥な僧であるというデマを流していたともいわれる。

で、ナニが33センチもあったと云われるが、、、、「33」、、、メーソンナンバーだすな(爆)。

rasputin_bigpenis2.jpg
(ラスプーチンのナニと云われるホルマリン漬けw 多分、異形のナマコだろう)

無類の女好きである点には誰しも異論はなかった。

ラスプーチン

ただ、宮廷におけるラスプーチンの影響力から危機を感じた宮廷貴族&官僚は、ラスプーチンの大好きなお菓子に青酸カリを混ぜて食べさせたがラスプーチンはビクともせず、その後、銃弾を4発受けても無事。焦った彼らは燭台で頭蓋骨が陥没するほど殴り付け、倒れたラスプーチンを絨毯で簀巻きにして氷の張ったネバ川に穴を開け、そこに放り込んで 暗殺した。ただ、ラスプーチンの死因は「溺死」であり、水面下でも生きていたということ。かようにラスプーチンは絶倫的な生命力の持ち主でもあった。

このラスプーチンが亡くなってスグに革命が起こりニコライ一家は監禁。一家は森で銃殺され埋められ伝統あるロマノフ王朝消滅した。実は、このロマノフ朝消滅のことがアルバートパイクの書簡に書かれている。

「第一次世界大戦は、ツァーリズムのロシアを破壊し、広大な地をイルミナティのエージェントの直接の管理下に置くために仕組まれることになる。そして、ロシアはイルミナティの目的を世界に促進させるための“お化け役”として利用されるだろう。」

但し、書簡の現物を誰も見たことがなく、1871年に書かれたはずなのに「当時には存在しない名称・言葉があちこちに出てくる」ため100%「第二次大戦後に捏造された都市伝説的なものである」という意見もある。その通りだすな、、、元々、こういった計画が存在していて、それを予言風に述べ、マッチポンプ的に成就させてカリスマ性を高揚させるよう仕向けたもの。以上から、後年WW1、WW2,の発生した真の理由を述べながら、WW3に向けてのシナリオの開示だとオイラは見ている。

傭兵ビジネスで儲け欧州最大の資産家となったヘッセン家は欧州の多くの王朝に妃を送り込み欧州を裏支配し、互いに反目させ傭兵ビジネスを成立させていたが、フィリップ寛大王の頃から南北の2つ拠点に分かれいる。これは八十年戦争(1568~1648年)でスペイン側(カソリック=イエズス会=神聖ローマ帝国=ハプスブルグ家)に付くかどうで新教側(プロテスタント)と旧教側(カソリック)に分かれて付いたことによる。一見、宗教戦争と捉えられるが、本当のところは「親ハプスブルグ家」か「反ハプスブルグ家」かという区切りでの戦争であった。

この八十年戦争も1621年に一旦停戦するが、この独立戦争はヨーロッパ全体を巻き込み戦域は拡大。これを三十年戦争(1618~1648年)と呼ぶ。三十年戦争末期に元々マールブルグ方伯領を巡る領土問題で揉めていた両家が再び揉め始め、ヘッセン戦争(1645~1648年)というヘッセン家同士の内戦が起きた。

■北部: ヘッセン=カッセル公(ヘッセン選帝侯国)・・・新教側

■南部: ヘッセン=ダルムシュタット公(ヘッセン大公国)・・・旧教側

ヘッセン家系図

確か、ロシア皇帝ニコライ二世の皇后・アリックス(通称)はヘッセン大公国の大公女でしたね。つまり、ロシア革命(1917年)でヘッセン選帝侯国側がヘッセン大公国側を打ち倒した格好になるわけですが、ロシア革命にはヘッセン家の代理戦争という面もあったのです。

これが名無し先生がいう「オラニエ(カルヴァン派)が懐柔した方(新教側=ヘッセン選帝侯国)がロマノフ家(ヘッセン大公国と親戚)を潰し、(ヘッセン家は)空中分解した。」ということ。ヘッセンもまた「正反合」で翻弄され弱体化していったが、その隙を突いて入ってきたのがオレンジ公ウィリアムを輩出したオラニエ=ナッサウ家。ヘッセン家同士の反目もオラニエ=ナッサウ家が仕掛けたといえる。

ヘッセン=カッセル方伯(在位:1670年 - 1730年)はマリア・ルイーゼらをもうけたが、このマリア・ルイーゼがオラニエ公ヨハン・ウィレム・フリーゾ妃。つまり、オラニエ=ナッサウ家(オランダ王家)がヘッセン選帝侯国側と姻戚関係を結び、同族化してヘッセン=ナッサウとなった。これが「正反合」の「合」となるわけです。

ここが現在のマスターマインドだと云われる。
※マスターマインド・・・二人以上の、統一した願望や目標を持った人間の集まりのことであり、また、それらの人々の間で行き交う、波長の合った思考のバイブレーションのこと。

一方、ヘッセン大公国のヘッセン=ダルムシュタット側から貴賎結婚してイギリスに渡ったのがマウントバッテン家でしたね。ヘッセン選帝侯家もヘッセン大公家も現在断絶しており、旧教側のマウントバッテン家とドイツからやって来た新教側のウィンザー家(サクス=コバーグ=ゴータ朝)の婚姻で出来たのがマウントバッテン=ウィンザー家。新教・旧教の融合、つまりメーソンとイエズス会の両刀使いでもあるが、「エッサイの根」でありイエス末裔を自称するフランク王国のメロヴィング朝末裔がヘッセン家でもある。

■蘭ヘッセン=ナッサウ家(ベアトリクス女王)・・・ヘッセン選帝侯国の流れ

■英ウィンザー=マウントバッテン家(チャールズ王太子)・・・ヘッセン大公国の流れ

という2つの流れがある。

初代ロスチャイルド(マイアー・アムシェル・ロートシルト)はヘッセン選帝侯(ヘッセン=カッセル方伯)家の御用商人の銀行家となり、今の栄華を極めたことはよく知られていますね。ヘッセン家の家臣のうち、金融担当がロスチャイルド、軍事担当がサヴォイ家、情報担当がタクシス家という構成。

今までの歴史の流れを見れば、この2つは反目となる筈なのだが、、、ただ、いづれも神聖ローマ帝国のハプスブルグ家を蹴落として君臨したドイツ貴族が出自という点では共通している。
※ヨーロッパの主な国でドイツから君主を迎えたことのない国はフランスなど数える程度しかない。これは国内派閥とは関係ない名門家系がドイツにごろごろ居たことから来る。つまりドイツは名門の宝庫だった。

ちなみに、ダイアナ妃は母(フランシス・シャンド・カイッド、ユダヤ人)とユダヤ名門で富豪ジェームズ・ゴールドスミスとの間の不倫の子であるとの指摘がある。ジェームズ・ゴールドスミスはロスチャイルド家と従兄弟であり、しかも古くからロスチャイルド家とゴールドスミス(ゴールドシュミット)家は婚姻関係を結んでいる。そして、ゴールドスミス疑惑のダイアナとチャールズ皇太子との間の息子であるウィリアム王子の夫人であるキャサリン妃(愛称ケイト)の母キャロル・エリザベスの旧姓がゴールドスミスとなっている。現英国王室は二重にユダヤ色が投影されている。
※ユダヤ人はユダヤの母から生まれた者。

実は、ラスプーチンはユダヤ人の銀行家ルービンシュタインを皇后にパトロンとして紹介していたのですが、ラスプーチンの後ろ盾のルービンシュタイン一族はロスチャイルド一族でもあったことから、ラスプーチンはヘッセン選帝侯側が放ったスパイだったとオイラは睨んでいる(ふふふふ)。

そして、現在のロシア大統領・プーチンのバックはドイツ銀行、ドレスナー銀行(現コメルツ銀行)であり、これらはいづれもロスチャイルド系の銀行。ロシアとドイツ、、、これはラスプーチンの頃と全く同じ構図なのです。

実際、プーチンの祖父の姓は「ラスプーチン」だった。祖父の代に改名。ただプーチンという名はロシアには多いというが、この関係には絶対何かある(ふふふふ)。
※プーチンはラスプーチンとは血縁関係がないと述べるが、祖父がラスプーチンの下で調理人として働いていたことは確かなことである。

さてさて、更に続いて「ロマノフ王朝を実質支えていたタタル系貴族=ブーチン系ロシア政権の後援者」という内容に踏み込んでいかねばならないが、チト洞察疲れしたので、、、

ここで音楽タイム!


(ボニーMの名曲『怪僧ラスプーチン』 後のジンギスカンに多大な影響を与えた)

次回につづく

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