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Channel: 強制介入キボンヌも未知との遭遇までノラリクラリはいつまで?ッテカ。Φ(;´π`)φ
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前半 【絶対王政から民主化への200年、そして、それから200年経った今】 (09/22)

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666秒前に、出た、名無し先生関係、最新、長文2分割。まだ、チェックしてないですが。
宇宙人情報妄信関係各位には、ともかく、山梨八ヶ岳軽井沢結集、世界宗教統一、千年王国、WWⅢハルマゲドン、NWO関係の、背景とか、国際秩序維持派、米南軍vs米北軍の、死闘、ゴシップガールとか、メンタリストとか、カバルに汚染された、3S酒池肉林系ハリウッド黒魔術洗脳映画ドラマばっか観てないで、しっかり、お勉強してくださいね。ッテカ。
Φ(^π^;)φ

【絶対王政から民主化への200年、そして、それから200年経った今】 (09/22)
http://jfcoach.blog49.fc2.com/blog-entry-322.html
mapp.png

上の地図のピンク部分が現在のヘッセン州。オランダ・ハーグとイギリス・ロンドンまでの距離を参考までに。

こんにちは、今回は世界の近代化=民主化について。

ちょっとその前に集団的自衛権が成立しましたので、注意点としてフィリピンの情報を少しだけ。

フィリピンのメジャーな英字紙で、日本の集団的自衛権を大歓迎する記事が一面で掲載されました。

日本は第二次世界大戦以来はじめて、同盟国のために外国で戦闘することが可能になった。

中国の脅威に対し、米国と共に日本も加勢することになった。

フィリピンが中国と戦争になった場合、日本が共に戦うことになった。

こういう感じで新聞紙の一面を飾ってます。

あべ

http://newsinfo.inquirer.net/723553/japan-enhances-militarys-role-as-security-bills-pass

さあ、皆さん、考えてみてください。

中国がフィリピンに下手に手を出せなくなった効果と、逆に日本が巻き込まれるリスクを。

私はこのタイミングで日本はガンガン軍事力を強化すべきだと思います。

中国が日本は巻き込みたく無いと言わせるほど。

あとは燃料電池自動車とゼロエネルギーハウスで電力会社を苦しめてやりましょう(笑)。

残るはTPP・・・

さて本題です。

皆さんもご存知の通り、かつて世界に君主制国家しかなかった時代、それぞれの国家を飛び出し新大陸に移住し、そこに自分たちで自分たちのための自分たちの国家を作ろうとしたアメリカ独立戦争というのが、近代史上、最も重大で重要な出来事だったと思うわけです。

これはキリストの登場以来、迷信で支配してきた教皇派、そして武力で支配してきた皇帝派によって作られた西洋のシステムを根底から覆す出来事であり、現代人がこうしてヴェルヴェットな生活(笑)を送れるようになったのも、アメリカ独立という偉業のおかげです。

そして約220年後の今、私たちはヴェルヴェットの存在さえも把握してしまい、そのヴェルヴェットを剥がそうとしている過程にいるのです。

ヴェルヴェットを剥がされた後に残るのは単なるファシスト達。

彼らを素っ裸の状態にすれば、もう誰一人として彼らをのさばらせておくことはできません。

ただ、最近、私の内部で何か変化が起こっているんですよ。

同情じゃないんですけど、ヴェルファシの言い分もわかる。

要するに、我々に担がれてるお前らが悪いんだよ!!

お前らの無知が招いた結果だろ!!

という声です。

彼らが作ってきたシステムが機能している現在、それをぶっ壊すのは非常に困難に見えます。

ただ、私たちは労働者であり、消費者であるわけです。

これからより一層勉強して、ヴェルファシ企業に対する不労、不買運動を個人レベルで実行するしかないですね。

食品も生産者のはっきりした表示があり、生産者がどのように種を入手しているのか?とか、ちょっと田舎に住んでいれば、農家から直接買えますしね。農協の存在がありますから完全にヴェルファシを排除するのは困難ですが、できる限り。

間違ってもSHEAL’Sのように無知がテレビ出演して赤っ恥をかかないように(笑)。

そういう意味で、近代史におけるアメリカ独立戦争の経緯とその周辺を勉強しておくことが、重要な知識となり、それが勇気に変わり、確信となり、行動につながるのだと私は思うのです。

ところで、アメリカ独立革命の前にイギリス革命が有ったことはあまり自由の象徴として触れられていません。

まずそこから書き始めます。

予想では、私は文才が無いので時代を前後したまとまりの無い記事になること請け合いです(笑)。

さて、イギリスは他のヨーロッパ諸国同様、古くから王政であり、国王無くして成り立たない国でした。

しかし、以前の記事にも書きましたように、絶対王政とは絶対服従ではなく、貴族、ギルドなどの特権階級が協力することによって成立していました。

特にイギリスでは議会制は11世紀のノルマンコンクエスト後、直接受封者を招集したキュリア・レジスを置き、政策の諮問や裁判を行い、その後13世紀ジョン王がマグナカルタを承認、ヘンリ-3世の時代にシモン・ド・モンフォールの議会が行われ、エドワード1世の時代には「模範議会」と呼ばれる、後の議会のモデルとなり、エドワード3世の頃に貴族と平民(騎士と市民)は、別々の場所で会議を開くようになり、後に貴族院と庶民院に分かれ、現代のイギリス議会へ引き継がれることになる。

このように絶対王政の時代にも細々と存続し、現在の議会制度につながったという稀な事例です。

英国議会は国王が掌握する行政府に課税承認権を盾にとって対抗し、行政の恣意を制限しようとした。国王との対立が決定的になると、1649年に清教徒革命が生じ国王を処刑し、1688年の名誉革命で国王を追放した。名誉革命以後の議会は引き続き国王の行政権力を認めたが、しだいに権限を拡大し、18世紀半ばに議院内閣制を実現して行政に対する優位を確立した。現在の歴史学会の通説では、フランスに脅威を感じたオラニエ公(後のウィリアム3世)が英国の動向に目を着け、その大義名分として権利章典の内容をなすビラをばらまいたとされる。

権利の章典とは、イギリスの不成典憲法を構成する法律の1つである。正式名称は「臣民の権利と自由を宣言し、かつ、王位の継承を定める法律」である。

このブログで何回も登場しましたオラニエ公ウィレム3世はヴェルフ=ヘッセン系ですから、うまくヴェルヴェットにくるんでね。

この辺の流れを少し書きます。

まずエリザベス1世は生涯独身で子供を残さず、チューダー朝が断絶します。

そこで遠縁ではありますが、エリザベスの時代から王位を主張し対立していたメアリーの息子、エジンバラで生まれたスチュアート朝のジェームス6世をジェームス1世として国王とし、イングランド+スコットランドの両国は共通の王と独自の政府・議会を持つ同君連合体制「王冠連合」をとりました。

この頃のイギリスは市民階級が台頭し、農村も領主による封建制度から、独立自営農民(ヨーマン)と呼ばれる階層が生まれます。

同時に現れたのが、ジェントリ(ジェントルマンの語源)と呼ばれた新興地主層。

以前の記事にも書きましたように、彼らは金持ちになって来ましたから当然、政治に絡み始めます。

それにうってつけだったのが議会です。

しかし絶対王政を貫きたいジェームズ1世は「王権神授説」=(王は神から権力を与えてもらったのだ)と主張し、さらに、旧大商人を保護したため新興地主層を怒らせます。

さらにカトリックと清教徒(ピューリタン)の両極を排除することを宣言。

当然、彼らも怒らせます。

さらには、妻の浪費や、金権政治で弱体な国家財政の中、議会を通さず国王が勝手に大商人に課税できる法案をごり押しし、議会とも対立。

これらが清教徒革命のきっかけになるのでした。

ちなみに一方では、イングランドとスコットランドを統一するためにグレートブリテン王と自称。

新しい硬貨「ユナイト」を発行してイングランドとスコットランドの両国に通用。

イングランドのセント・ジョージ・クロスとスコットランドのセント・アンドリュー・クロスを重ね合せたユニオン・フラッグを制定。

といったこともやりました。

そして彼はフリーメイソンでした。

ジェームスの後継者であるチャールズ1世も父同様に王権神授説を信奉し、議会と対立。

台頭する議会にブチ切れて議会を解散し、11年間も専制政治を実行。

1640年、スコットランドの反乱鎮圧のための戦費を得る目的で11年ぶりに議会を招集したが、議会は国王批判の場となった(短期議会・長期議会)。

1642年1月、チャールズは反国王派の5人の議員を逮捕しようとして失敗、議会派と王党派の内戦が勃発した(イングランド内戦、ピューリタン革命)。

内戦は当初、互角あるいは王党派が優位であったが、オリヴァー・クロムウェル率いる鉄騎隊の活躍により、王党派が各地で打ち破られた。

1646年5月、チャールズ1世はスコットランド軍に降伏し、囚われの身となった。一旦は脱出したものの、1648年11月に再び議会軍に投降した。

1649年1月27日、裁判によってチャールズの処刑が宣告された。1月30日、自らルーベンスに内装及び天井画を依頼したホワイトホール宮殿のバンケティング・ハウス前で公開処刑され、チャールズは斬首された。

ちなみにここで押さえておくとわかりやすいのが、チャールズ1世の子供達です。

イングランド王チャールズ2世(1646年にフランスに亡命、1648年に義弟のウィレム2世を頼ってオランダ居住)

メアリー・ヘンリエッタ・ステュアート =オラニエ公ウィレム2世(オランダ総督ヴィレム2世=ウィレム3世の親父)と結婚。

イングランド王ジェームズ2世

ヘンリエッタ・アン =オルレアン公フィリップ1世(フランス革命時のオルレアン公ルイ・フィリップ2世の高祖父(こうそふ)。

このように、何故オラニエ公ウィレム3世が名誉革命でイングランドに無血入場できたのかわかります。

とはいえ、ウィレム3世はスコットランド、アイルランドには武力行使したりしたので嫌われていました。

そして後のフランス革命もオルレアン公がイエズス会によって・・・これは後で書きます。

ウィレム3世が乗馬中にもぐらの掘ったにハマり落馬したことが原因で死亡。

ウィレム後継として、メアリ-2世の妹アンが王位を継承。

まず、なんでオランダのウィレム3世がすんなりとイギリス王になれたのか?

当然、抵抗はありました。

しかし、結果的には無血革命でイギリス国王に即位しちゃうんですね。

元々オランダはスペイン・ハプスブルクの属国で、16世紀からオランダ独立戦争を開始し、はじめはホラントを中心とした7州が独立し、その後、三十年戦争の講和条約である1648年のウェストファリア条約によって国際的にネーデルラントとして独立が承認された国です。

だからHolandという国名とNetherlandという国名があるわけです。

オランダ東インド会社は現在のニューヨークを発見し、その後、西インド会社にニューヨークの管理運営を渡します。

フランスから追い出されたユダヤ人やユンカーを受け入れ、宗教にも縛りは無かったオランダです。

彼らユダヤ人、ユンカーは都市に頼らずに外国の商人と自由に取引するようになり、ますます大規模農業生産を行うようになりました。

ユンカーは三十年戦争で荒廃した土地や農民の土地を次々と併合して直営地を増やしていったのです。

余談ですが、後に18世紀のプロイセンの将校・行政府の官僚はユンカーが多かった。

これら優秀な商人が多くいたオランダは鎖国中の日本とも交易を持ち、情報を売っていたし、ダイヤモンドや金といった鉱物で有名な南アフリカも持っていました。

オランダは当然大繁盛です。

これほど繁盛すれば当然周辺諸国、とりわけイギリスとフランスはヤキモチ焼きます。

先ほどピューリタン革命で登場しました、国王を処刑し実権を握っていたクロムウェルはイギリスとその植民地でオランダ商船を入港できなくしました。

そして英蘭戦争が起こります。イギリスはフランスと結んでオランダを攻めますが苦戦。

オランダ戦争ではフランス・ルイ14世が領土拡大を狙う。

フランスと組んでオランダを振り落とすつもりだったイギリスですが、フランスの領土拡大に敏感に反応し、イギリス王室のメアリーをオラニエ・ウィレム3世に嫁がせます。

その頃、次のイギリス国王ジェームスがフランス亡命中にフランスの影響を受けカトリックを国教にしようとしているという情報を得る。

これにはイギリス国民が猛反対。

このチャンスにオランダはすかさずイギリス王家メアリーと結婚したプロテスタントのウィレム3世を次のイギリス国王にいかがでしょうか?と推薦。

もっとも、イングランドとオラニエの関係はこれに始まったわけではありません。

これには長くてデカい家系図を作らなければいけ無いのですが割愛させていただき、ヴェルフ=ヘッセン=ハノーファーのつながりがあります。

以下青字の部分は、関係を詳しく知りたい方のみお読みいただき、話をシンプルに読みたい方は飛ばしてください。

ウィレム3世の父ウィレム2世はイングランド王チャールズ1世の長女メアリー・ヘンリエッタと結婚。

ウィレム3世が死亡した後、オラニエ公ヨハン・ウィレム・フリーゾとヘッセン=カッセル方伯カールの娘マリア・ルイーゼの子供ウィレム4世がイギリス王兼ハノーファー選帝侯ジョージ2世の長女アンと結婚。

オラニエ=ナッサウの地を引くプロイセン王・フリードリヒ1世(ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム6世の娘で従妹に当たるエリーザベト・ヘンリエッテと結婚し、翌1680年にルイーゼ・ドロテーアをもうけたが、エリーザベト・ヘンリエッテは3年後の1683年に亡くなった。1684年にブラウンシュヴァイク=ハノーファー公女ゾフィー・シャルロッテ(ハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストの娘)と再婚)と相続権を争います。

アンの死亡後、ハノーファー選帝侯ゲオルクが王として招かれ、グレートブリテン王兼アイルランド王ジョージ1世となりました。


ほらね、こういう文章を挿入すると話がわかりにくくなっちゃうんです。

オランダ全盛期の17世紀に東インド会社で大儲けをしたオランダでしたが、イギリス革命の一つである名誉革命でウィレム3世がイギリス王になったあとは手を引き、イギリス東インド会社に植民地帝国の座を譲り渡しました。

これは下記のように解釈すべきです。

オラニエ・ナッサウ=ヘッセンはフランスが邪魔するのでオランダを捨ててからイギリスに移住、東インド会社の利権も一緒に持っていき、イギリス東インド会社にビジネスを引き継いだ。

やっぱり、国じゃ無いんですよ、ヴェルファシのスケールは。

そして捨てられたオランダは衰退していくのでした。

その後フランス革命軍にオランダは占領され、バタヴィア共和国が成立。

そしてナポレオンの弟ルイ・ボナパルトを国王とするホラント(オランダ)王国に変えられ、さらにフランスの直轄領として併合。

オランダの海外拠点は併合したフランスではなく、その前にオラニエがイギリスに手渡しちゃってますっていうか、持ち主はオラニエのまま、オランダからイギリスに住む場所を変えただけ。

作戦どうりです(笑)。

これはハプスブルク+ブルボンvsオラニエ+ハノーヴァー(ヴェルフ~ヘッセン)ですよ。

エリザベス亡き後、ジェームス1世(6世)、チャールズ1世の時代にすっかり議会が台頭し、挙げ句の果てに国王が処刑されるというレベルまで王の権限が失墜。

その後のオリヴァー・クロムウェルによる独裁は長くは続かず、息子のリチャード・クロムウェルの時代に王権復古。

王政復古で即位したチャールズ2世やジェームズ2世は、フランスのお世話になっていたので当然、太陽王ルイ14世が支配するフランスの衛星国のような存在になります。

同時にこの2人はオラニエ家にもお世話になってたわけです。

これは後の新興国プロイセンをイギリス側につける策略にも繋がるんです。

オーストリア継承戦争で、反ハプスブルク家のプロイセンをフランスは支援した。

一方、新大陸・インドなどでフランスと対立していたイギリス(イギリス帝国)は、オーストリアを支援する姿勢を見せていた。

従って、イギリスとプロイセンは対立関係にあった。

一方、ドイツ・ハノーファーはプロイセンによる侵攻を恐れていた。

ハノーファー出身のイギリス王ジョージ2世は、1755年のサンクトペテルブルク協約で、プロイセンがハノーファーを攻撃した場合、ロシアがプロイセンを攻撃することを取り決めた。

これを恐れたプロイセンはイギリスに接近し、翌1756年1月16日のウェストミンスター協約でハノーファーを攻撃しないことを約束した。

上記の理由で結果的にフランス(ブルボン家)がオーストリア(ハプスブルク家)に接近するしかなくなった。

それがハプスブルク家を仕切っていたマリア・テレジアの娘、マリー・アントワネットをブルボンのルイ16世に嫁がせることになるのです。

このようにして、後のフランス革命につながる準備が100年以上前、いや、200年前から行われています。

さて、イギリスはグレートブリテンとなり、アンに子供がいなかったため、ハノーファー選帝侯ジョージ1世が後継者となります。

英語も話せないのに・・・

ましてや情勢も知らなかったので、面倒くさいから国王は政治に関与しないと言い出し、議会中心の政治が始まりました。

有名なセリフですが「国王は君臨すれども統治せず」です。

今の日本の天皇陛下と同じスタンスですね。

こうして、イギリスの革命は責任内閣制(議院内閣制)という形に収まりました。

上記の革命が起こる前からアメリカ新大陸でのプリマス会社、バージニア会社等の事業は始まっており、逆に民主主義社会を形成していたインディアンとの戦いを繰り返しこれを破壊し、アフリカからの黒人奴隷を使い、新大陸に昔ながらのヨーロッパの奴隷制を確立するのでした。

1607年、バージニア州(エリザベス1世が未婚だったのにちなんで)に、ジェームスタウン(ジェームス国王にちなんで)という最初の開拓地を建設。

ジェームズタウン自治委員会の3代目の委員長となったジョン・スミス船長は強力な指導者で、軍事力を強化。

地元のインディアンからの食糧援助で冬季の飢餓を凌いだにも拘らず、翌年にはインディアンの村々を襲い、村人を人質にとって食料を強奪して周り、インディアンたちから怨みと憎しみを買った。

この後1620年にやってきたのがピューリタンなのですが、102名のうちピューリタンは35名しかいなかったらしいです。

ピルグリム(邦題:偽牧師)というチャップリンの映画を観た方はいますか?

現代英語ではピルグリムとは巡礼者、放浪者、旅人という意味。ピルグリム・ファーザーズは清教徒団という固有名詞。



どうでもいい話ですが・・・

とにかく、食料もなく飢えていた入植者たちを助けてくれたインディアンに最初は感謝し、初めての収穫にインディアンを招待し「感謝祭」を開いたりしましたが、次第に彼らの土地を侵略するようになり、最後には虐殺しちゃうんです。

これはピューリタンが来る前にジョン・スミスが軍事力を増強し始めたことで、別にピューリタンが始めた話ではありません。

これにピューリタンが同化していった?それとも黙認するしかなかった?なんせ、35人ですし、飢えてましたから。

ジョン・スミスについては、このリンクで読んでください。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョン・スミス_(探検家)

とんでもないやつですから。

こういう奴の話を読むと、白人が大っ嫌いになります。

そして時代は流れ、フレンチ・インディアン戦争の時代。

これが先ほど書いたイギリスvsフランスで、オラニエ+ハノーファーvsブルボン+ハプスブルクの新大陸における戦場なんです。

また、これがカナダにフランス語圏と英語圏がある理由。

先ほどのように、イギリスはインディアンと戦い、新大陸の開拓(制覇)を目指していました。

ですが、同時に特定のインディアンの部族とは同盟を組んでいました。

まあ、のちに裏切るつもりだったのでしょうが。

一方、新大陸制覇を狙う宿敵フランスも多数のインディアン部族と同盟を結んでいました。

だから、フレンチ・インディアン戦争というのは、イギリスの視点から観た、フランス・インディアン同盟に対する戦争名です。

どちらにしても、フランスはイギリスよりも大きな領土を持っていましたから、フランスはインディアンと結託してイギリスを追い出しに出たと一方的に言われる筋合いはありません。

この辺は、やはり戦勝国の立場で歴史は語られるということです。

この戦争が当時のヨーロッパ本土で7年戦争と呼ばれる大戦争のはじまりでした。

7年戦争とはイギリスの財政支援を受けたプロイセンvsオーストリア(ハプスブルク)・ロシア(ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ)・フランス(ブルボン)・スウェーデン(ホルシュタイン=ゴットルプ)・スペイン(ブルボン)及びドイツ諸侯との間で戦い。

プロイセンに味方したのは、ドイツ諸侯の中では、ヘッセンとイギリスと同君連合の関係にあるハノーファーだけ。

ちなみにスウェーデン王家はホルシュタイン=ゴットルプ家の前はヘッセン家の国王でした。

最初はプロイセン、イギリス、ハノーファー、ヘッセン側は負けっぱなし。

Wikipediaってありがたいですよね、先生のおっしゃてることが丸々普通に書かれていますのでコピペで済みます(笑)。

プロイセンに味方したのは、ドイツ諸侯の中では、ヘッセンとイギリスと同君連合の関係にあるハノーファーだけでその軍隊も東進するフランス軍にあっさり敗れて頼りにはならなかった。

プロイセンに味方したイギリスは戦争の準備をしていなかったので初期の段階では苦戦を強いられた。地中海ではミノルカ島をフランスに奪われ北米ではオンタリオ湖畔のオスウェゴ要塞を失った。

しかしデヴォンジャー公内閣で国王ジョージ2世と対立して閣内から去ったウィリアム・ピット(大ピット)がニューカッスル公トマス・ペラム=ホールズと連立内閣を組み、国務大臣として外交の指導・戦争の指揮をとり始めると徐々にイギリスに好転し始めた。

大ピットはインドで財を成したトマス・ピットの孫で植民地の情勢に明るく軍事主計長官の経験もあり、戦争の指導者としては適任者であった。

大ピットは北アメリカ大陸などのフランスの植民地の攻撃に専念してプロイセンの為に大規模な援軍や艦隊を送ることはしなかったが、援助金を与えたのでプロイセンにとっては、これが戦争を続けることができる命綱となった。ラゴスの海戦とキブロン湾の海戦で勝利したイギリスは制海権を握った。

フランスはイギリスに制海権を握られ、植民地に増援部隊を送ることができず、北米やインドでの攻防に大きく影響を及ぼした。その結果、インドでは1757年10月のプラッシーの戦いと1758年からの第3次カーナティック戦争で敗北し、北米では1760年までにイギリスに逆転され、ヌーベルフランスの中心地であるケベックとモントリオールを占領された。

ドイツにジャガイモ栽培を広めたことでも知られる、フリードリヒ大王の活躍とエリザヴェータ女帝の死によるロシアの離反という幸運に恵まれイギリス・プロイセン側が勝利しました。

ちなみにイギリスはこの時代にフィリピン・マニラをスペインから2年間ほど奪ってます。

フランスはインドから撤退し、アメリカでも植民地のほとんどを失いました。

フランスは本当に大打撃を受けたわけです。

また、イギリスは多額の負債にあえぐことになり、アメリカ植民地に増税。

これがアメリカ独立戦争を引き起こすことになります。

まず、アメリカ独立戦争というと、ジョージ・ワシントン、ベンジャミン・フランクリン、トーマス・ジェファーソンが頭に浮かびますが、私の中では何と言ってもラファイエットの存在です。

ラファイエットは、アメリカ独立革命とフランス革命の双方における活躍によって「両大陸の英雄」と呼ばれました。

ラファイエットの存在無しにフランス革命、アメリカ独立の成功はなかったのではないかと思うわけです。

しかし、アメリカ独立戦争後のラファイエットの評価は最低です。

また彼は悪名高き(笑)フリーメイソンですし・・・

話が少しだけ横道に逸れますが、初めてこのブログを読む方のために、フリーメイソンの経緯を説明します。

この時代、いわゆる啓蒙思想の時代、フリーメイソンがその代表だった時代です。

だからイルミナティーは主役になれない。

フリーメイソンが邪魔だった。

で、乗っ取りが画策され、見事、フリーメイソンの乗っ取りが完了しました。

ですので、この頃のフリーメイソンは現在のそれとは異質のもので、現在のフリーメイソンはその一部が変質した結果です。

従って、現代でも真面目に世のために働くフリーメイソンも存在します。



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