【絶対王政から民主化への200年、そして、それから200年経った今】 (09/22)
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さて、啓蒙思想の一つであるフリーメイソン。
現在の資本主義の意味が、資本の運動が社会のあらゆる基本原理となり、利潤や余剰価値を生む体制である、という啓蒙思想の一分野と言う事を踏まえて考えてください。
こういった思想の一つが生まれ、具現化されたのがこの当時のフリーメイソンの偉業です。
この時代のそれは、まさに産業革命であり、科学の発展とそれに伴う教育の普及が世界をガラッと変えた時代でした。
この思想はイギリスでオラニエ公・ウイレム3世による名誉革命直後に活躍した、ジョン・ロックから影響を受けたと言われていますが、真相はさだかではありません。
ロックの社会契約説
人は全て公平に、生命(life)、健康(health)、自由(liberty)、財産(所有-Possessions)の諸権利を有する。誰もが自由であり、誰もが他の者の諸権利に関与する権限はない。しかしそうなってしまうと、今度はこの自然状態が故に不都合が生じてしまう。たとえ犯罪が起きようと、誰もその犯罪者を逮捕、拘束できず、そして裁くこともできない。また、仮にある人間が判事を勤めても、近親者の犯した犯罪の場合、人間がいかに公正無私に判断を下せるか疑問を呈した。つまり、自然状態の不都合により、社会が混沌としてしまうとロックは考えたのである。そのためにロックは我々自身をこの不都合な自然状態から守るために、政府が必要だと考えた。政府は諸国民の「承認」によって設立されるとした。諸国民のこの三権を守るために存在し、この諸国民との契約によってのみ存在する。我々は我々の保有する各個の自然権を一部放棄することで、政府に社会の秩序を守るための力を与えたのである。言い換えれば、政府に我々の自然状態下における諸権利に対する介入を認めたのである。
さらに前の時代にこういった思想として16~17世紀に生きた皮肉にもスペインのイエズス会士フランシスコ・スアレスの説があります。
スアレスの人民主権論は、近代的人民主権論と異なり、神から直接授けられるという点では王権神授説と共通し、契約の内容は服従契約であって、王制を否定するものではなかったが、スアレスの著作『カトリック信仰の擁護論』は、国王の権威を無視するものとして禁書とされ、焼かれた。
もっと古い時代では、古代ギリシャのソクラテス、プラトンにまで溯ることができますが、ここでは割愛。
いずれも、少しずつ違いますが、人民が契約に基づいて法を守るのであれば、人々は自由で平等であるということ。
この考え方が古代から有ったにも関わらず、それぞれの時代で成立し得なかったことが歴史からもわかると思います。
これが18世紀後半に少なくとも、イギリスから始まり、アメリカ、フランスで成立したということなのです。
もちろん、その後はヴェルヴェット支配に移行したということもしっかりと認識しています。
言い換えれば、絶対王政は地下に潜り、奴隷、麻薬、戦争というビジネスは民間企業が担当する分業式になったとでもいいましょうか、日本の天皇陛下を見ればわかりますが「国王は君臨すれども統治せず」です。
このアメリカ独立戦争はチェサピーク湾の海戦でポルトガルから制海権を奪って以来、イギリスが史上初めて敗北するという事件と、ヨークタウンの戦いでのイギリス敗戦という事件がありました。
この二つの戦いに敗戦した結果、イギリスは和平交渉を申し出て、1783年パリ講和条約でイギリスはアメリカの独立を承認し、イギリス軍の大陸からの撤退を約束したのです。
これだけだと、すんなり独立を勝ち得たように聞こえてしまいますが、ちょっと視点を変えて書いてみます。
現実的な考え方でワシントンを分析すると、彼にはアメリカ独立など必要無かったのでは無いか?という疑問が湧いてくるのです。
当時、イギリスとの貿易でアメリカ経済は潤っていました。
世界最強のイギリスです。こんな国と戦ったって勝てる見込みも無い。
勝ったところで大西洋の制海権をイギリスから奪えるわけでもなく、ワシントンにとって、逆に不利益だったはずです。
ましてや先のフレンチインディアン戦争で共に戦ったあと、ワシントンは一旦退役してますからね。
そして農園経営もうまくいっていたのですから、本国に税金を納めて現状を維持することのほうが楽な人生だったことでしょう。
奴隷もいた方が楽だったはずです。
しかし、それでも司令官に選ばれ、独立戦争に参加したフランクリン。
フランスがアメリカ独立戦争に関わるようなったのは、ベンジャミン’フランクリンがフランスに渡り、協力を呼びかけたことに始まります。
いったい、何が彼をそうさせたのでしょうか?
私はこの理由をフリーメイソンに突き止める訳です。
自由、平等、博愛の思想です。
Wikipediaのフリーメイソンの記事にもありますが、特定の宗教を持たずに理性や自由博愛の思想を掲げるヨーロッパ系フリーメイソンリーは、特定の宗教を否定することから、自由思想としてカトリック教会などの宗教権力からは敵視された。
とりわけフランス革命の当事者たちの多くがフリーメイソンであったため、しばしば旧体制側から体制を転覆するための陰謀組織とみなされた。
旧体制を転覆させる陰謀組織・・・
これってどっちが悪いのでしょうか?
旧体制側?フリーメイソン側?
どうみても旧体制側でしょ?
フランス革命が無かったら未だに王政だったし、アメリカ独立戦争でアメリカ・フランス連合軍が勝利していおらず、アメリカが独立できなかったら未だに海賊・グレート・ブリテンの独壇場だったかもしれません。
ワシントンはフリーメイソンの精神に則ってフランスのロビー活動に乗り出したんじゃないか?
いずれにせよ、このワシントンのフランスにおけるロビー活動が功を奏し、多数のフランス貴族が私財を投げ打ってアメリカ独立戦争に参加したのでした。
面白いのは、このフランクリンもワシントンも、その前のフレンチ・インディアン戦争では、イギリスと組んでフランスを打ちのめした人物。
それからたった十数年後、アメリカ独立宣言の起草委員となり、今度はフランスに乗り込んでパリの社交界を中心に活動しセレブ女性の人気を得、欧州諸国との外交交渉に奔走、独立戦争へのフランスの協力・参戦と、他の諸国の中立を成功させるのでした。
おそらくフランス人貴族はフレンチ・インディアン戦争、インドでの戦争、7年戦争で負け続けていたフランス王国に愛想を尽かし、このアメリカ人の肩越しに本気で自由の国を作ろうと思っていたのではないでしょうか。
そして、まるで世界の中心は中国であり、その属国に韓国がいて、日本はそれ以下の存在であるという中華思想と同じく、当時のフランス人はイギリス人を下の下と見ていました。
ちょうど地理的にも日本と中韓の位置関係と似ていて、イギリスなど、ちっぽけな島国で愚民の集まりであり、当時、産業革命で突出した技術力と経済力で世界を制覇していたイギリスを潰したくて仕方が無かった。
そんなイギリスを倒せるのはアメリカを強くするしか無いと思っていたのでしょう。
当時のフランス王国は財政難で大規模な資金力を持ってアメリカに派兵した訳ではなく、個人的な有志貴族がアメリカに渡ったのです。
逆に言えば、国王はフリーメイソンにかぶれた邪魔な貴族を木に登らせたとでもいいましょうか、この時代の啓蒙思想家が主張する自由な社会という、王政の脅威となる連中が、アメリカで戦死して欲しかったのではないでしょうか?
その中にラファイエットがいました。
周囲の反対を押し切って自費を投じて船を購入し、義勇兵としてアメリカへ渡ったのが19歳の時。
ずいぶん若い人が活躍できた時代だったんですね。
1779年フリーメイソンへ加入。参入儀式をジョージ・ワシントンが執り行った。
いったん帰国後、1780年、帆船「エルミオンヌ号」に乗って、再度アメリカに渡った。
そしてアメリカの独立を決定的にした1781年のヨークタウンの戦いに、彼は重要な役割を果たした。
翌年フランスに帰国すると「新大陸の英雄」と称えられ、一躍名声を得た。
しかしその後のラファイエットは鳴かず飛ばずの一発屋。
いったい、どうしてアメリカ独立戦争だけ実績を残すことができたのか?
ここでもやはりフリーメイソン同士の繋がりが原動力となったのか?
そしてフリーメイソンをオカルトで乗っ取っていくイルミナティ側の黒幕ヘッセンもこのアメリカ独立戦争にイギリス側に傭兵を売って大儲けしていました。
イギリス・ジョージ3世がハノーヴァー選帝侯でもあった為、ドイツ諸侯に親族が複数おり、特に義理の叔父であったフリードリヒ2世が治めるヘッセン=カッセル方伯領は、まず12,000名以上の兵士をアメリカで戦うために提供しました。
フリードリヒ2世の長男ヴィルヘルムが治めていたヘッセン=ハーナウは無条件でジョージ3世に1個連隊を提供。
独立戦争の間、ヘッセン=ハーナウは2,422名の兵士を提供し、981名を失った。
その他にも、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公、アンスバッハ=バイロイト辺境伯、ヴァルデック侯、ハノーファー選帝侯、アンハルト=ツェルプスト侯といったドイツ諸侯からも多くの加勢がありました。
イギリス・ドイツvsアメリカ・フランスといった状況です。
フレンチ・インディアン戦争の勝者もイギリス。敗者はフランス。
そして7年戦争で勝利したのはイギリス・プロイセン。敗者はフランス。
アメリカ独立戦争では勝ったのはフランス、負けたのがイギリス。
これ、重大なんです。
イギリスが勝っていたらアメリカは完全にハノーヴァー、オラニエ、ヘッセンの国でした。
一方、フランス(ブルボン)が加担して勝ったのですが、アメリカはフランスが期待したような利益をフランスにもたらしませんでした。
それどころか、フランス革命という名の墓穴を掘る結果になりましたよね。
18世紀のヨーロッパ各国では、自然権や平等主義、社会契約説、人民主権論など理性による人間の解放を唱える啓蒙思想が広まっていた。責任内閣制を成立させ産業革命が起こりつつあったイギリス、自由平等をアメリカ独立宣言で掲げて独立を達成したアメリカ合衆国は、他国に先駆けて近代国家への道を歩んでいた。プロイセンやロシアでも、絶対君主制の枠を超えるものではなかったものの、政治に啓蒙思想を実践しようとした啓蒙専制君主が現れた。アンシャン・レジームに対する批判も、ヴォルテールやルソーといった啓蒙思想家を中心に高まっていた。
しかしフランスでは18世紀後半でも、君主主権が唱えられブルボン朝による絶対君主制の支配(アンシャン・レジーム)が続いていた。アンシャン・レジーム下では、国民は三つの身分に分けられており、第一身分である聖職者が14万人、第二身分である貴族が40万人、第三身分である平民が2600万人いた。第一身分と第二身分には年金支給と免税特権が認められていた。
1783年にアメリカ独立戦争が終結し、たった6年後の1789年にバスティーユ襲撃に始まるフランス革命が口火を切りました。
この主犯格がラファイエットです。
そして、それに続く1791年のヴァレンヌ事件では、ラファイエットは失態を演じます。
集まった群衆を解散させることに失敗し、ルイ16世がマリーアントワネットの故郷、オーストリアに逃亡しようとした時、無駄に長居し時間を稼ぎ、逃亡を失敗させたのではないか?
国王の逃亡という事実を知った国民は、たとえ国王でも裁きを与えるべきだという国民の不満が抑えられなくなった。
ジャコバン・クラブでルイ16世廃位の請願運動が決定され、これに怒った君主主義者たち多数派がジャコバン派から脱退して、翌日、フイヤン派として分離した。
このフイヤン派にラファイエットがいた。
5万人の群衆がシャン・ド・マルスに集まった。
これを予知していたラファイエットは1万人の軍隊でこれに対応。
混乱する中、軍隊が発砲し、12~13名の死者が出る惨事となった。
これでラファイエットは完全に悪者となり、また大衆にはフイヤン派は反革命の王党派であると見なされるようになって結果的に消滅してしまっています。
この一連の出来事を見て、何かひっかかりませんか?
立憲君主制派とは、君主=国王は統治はすれども政治は議会が行うという制度です。
つまり、王は居てもいいということですよね?
この革命後、貴族や特権階級は国外逃亡し、国王までもが脱出を試みました。
結果的に国王は脱出に失敗し、パリに戻されてしまうわけですが、それを監視していたのはラファイエットです。
革命の波及を恐れたオーストリアとプロイセンとがピルニッツ宣言を発表し、ルイ16世の地位を保証しないと戦争をしかけると脅したので、ルイ16世は国王に留まることとなった。
しかし、それまでは比較的多数を占めていた国王擁護の国民からの支持を失う。
この事件、本当に国外逃亡だったんでしょうか?
国王の信用を失わせるための罠だったとしたらどうでしょう?
背後にフリーメイソンがいた。
また、これ以前に起きた首飾り事件はイエズス会の仕業だったというのは以前の記事で書きました。
ちなみにヘッセンの家に居候したサンジェルマン伯爵も絡んでます。
ジャコバン・クラブとイエズス会のマッチポンプは以前も書きました。
ジャコバン・クラブとは、イルミナティー前の破壊工作員たち。
フランス革命を裏で画策したり、ウィーンやその他欧州王家を裏から乗っ取るのに動いた連中です。
フランス革命の黒幕はジャコパン・クラブ=ジャコバン派です。
ジャコバン派は1793年に権力を掌握するわけですが、その前の年1792年から1794年までキリスト教を徹底的に弾圧しています。
ジャコバンとは、国民公会で左の席に座ったことから左翼の語源となり、恐怖政治(仏:La Terreur、英:Reign of Terror)は、テロ、テロリズムの語源となったぐらい、ヘッセン臭いわけです。
また、フランス革命の主導者でオルレアン公・ルイ・フィリップはフランス大東社の中心人物でイエズス会の修道院内を拠点としていました。
この辺がイエズス会もフリーメイソンも同じバックだということを示す証拠です。
1773年7月、クレメンス14世は回勅『ドミヌス・アク・レデンプトール』を発してイエズス会を禁止した。
ただロシアにおいて、イエズス会の貢献を高く評価していたエカテリーナ2世がイエズス会禁止の回勅の発布を拒否し、教皇も「列強の圧力に屈しはしたもののイエズス会を完全につぶすのはしのびない」と思っていたため、イエズス会はロシアにおいて細々と存続しつづけることができた。
また、プロイセン王フリードリヒ2世(ジャガイモ王)も自国へのイエズス会士の亡命を許可し(彼は数年後、「我が国には、イエズス会士以外に学識のあるカトリック教徒はいない」とさえ言うようになる)、カトリック系の学校の教師として歓迎している。
1814年に教皇ピウス7世の小書簡『カトリケ・フィデイ』によってようやくイエズス会の復興が許可された。
復興後のイエズス会は急激な成長を遂げた。そのことは多くの学校が19世紀に設立されたという事実からもわかる。
たとえばアメリカ合衆国にある28のイエズス会大学のうち22はこの時期に創立されたか、あるいは他から引き取ったものである。
弾圧を受けたことで、イエズス会の中で正統な権威というものに対するこだわりが強まったという指摘もある。
もちろんこの指摘に対しては異論もあるが、概してイエズス会員には教皇への忠実という意識が強く存在し、19世紀にウルトラモンタニスム(教皇支持派)と呼ばれた人々の中に名を連ねたものも多く、第1バチカン公会議における教皇不可謬説の宣言の理論的枠組みをつくったものもいた。
スイスでは19世紀に起こったカトリック諸州とプロテスタント諸州の間の紛争の後、1848年憲法によってイエズス会の禁止が決定された。
この禁止令は1973年5月20日に、国民投票によって廃止が決議されるまで存続した。
20世紀はイエズス会にとって発展と衰退の両面を示す世紀となった。
カトリック教会全体の趨勢に従ってイエズス会員の数は1950年代にピークを迎え、以後ゆるやかに減少していった。
会員が減少したにもかかわらず関連施設は増加し、協力者会の会員数も増えた。
第266代ローマ教皇フランシスコは史上初のイエズス会出身のローマ教皇である。
イエズス会は1773年に解散させられていましたから、その残党をフリーメイソンに取り込んだ。
この時点ですでに乗っ取りの種が入れられていたわけです。
そしてイエズス会の手法でフリーメイソンがフランス革命を企てる。
しかし、アメリカ独立に協力したフランスにアメリカはそれほどの恩恵を与えませんでした。
何故なら、この後もジャコバン派の恐怖政治、ナポレオンの独裁を経て、フランスは王政復古したからです。
結果的にフランス・ブルボンが倒されたのが1830年です。
しかも王位についたのは、イエズス会とつながったあのオルレアン公ルイ・フィリップですよ(笑)。
その後、普仏戦争で敗北するまでナポレオン3世が君臨。
ようやくフランス第三共和政になったのが1883年です。
バスティーユから100年近く経っているんです。
それに現在のパリ国際空港の名前にもなっているシャルルドゴールまでもがイエズス会つながり。
これで結果的に王様を地下に潜り込ませ、ヴェルヴェットな社会に変貌していくわけです。
そしてあたかも本当に自由の国フランスが建国されたような錯覚を見せられているのがヨーロッパ。
さて、フランスが手こずったおかげで遅れましたが、ようやくイギリス革命→アメリカ革命→フランス革命が成し遂げられ、ヴェルヴェット化が完了しました。
そういう意味ではフランスは超ヴェルヴェット。
ドイツのヴェルヴェットぶりは、ギリシャの記事に書きましたよね?
だから、これら2国が中心のユーロは、これら2国に有利に作られた。
逆に言えば、それ以外の国は食い物にされるだけ。
イギリスもスイスもユーロは導入しません。
前に書きましたが、ユーロの危険性、独自の金融政策が実施できないというのがありますし、ヘッセンをはじめとした連中は主にスイスに住んでいますし、世界最大の実質タックス・ヘイヴンはシティ・オブ・ロンドン金融特区です。
はい、ここまで、非常に長く、纏まりの無い記事で読みにくかったと思いますが、イギリス革命、アメリカ独立、フランス革命でピューリタン、フリーメイソン、イエズス会について、様々な誤解があったことはご理解いただけたと思います。
一番のポイントは、すべての革命にフリーメイソン、イエズス会が絡んでいたので、結果的にまやかしの自由というまさにヴェルヴェットが敷かれましたという点です。
もう一つ重要なのは、では、フリーメイソン、イエズス会が革命を起こさなくて良かったのか?
絶対王政からヴェルヴェットではありますが、一応民主主義になり、イギリス、フランス、アメリカは共産主義ではなく資本主義です。
何も彼らを肯定しているのではなく、それを隠して地下に潜っている彼らに対する敵意はやはりあります。
でも、絶対王政も嫌です。
それから200年が経過し、私たちはヴェルヴェットを剥がすタイミングに生きているといます。
ネットが無かったらこんなことできませんでしたから。
ネットも出るべくして出現したのでしょう。
新興国、BRICSやら、VIPやら、投資先として新興国が取りざたされていますが、これが当時の植民地ビジネスの形を変えたもので、再び同じ資金が投入されて、一般庶民には大した恩恵をもたらさないということがわかりますでしょうか。
でも、これが無かったら仕事すら無いのですから、スラム街で売春をしたり臓器売買をするしか無い。
庶民は今でも見えない鎖で縛られているということは年に一度、国が決める最低賃金を見れば一目瞭然。
そして、フィリピン人もタイ人もインドネシア人も貧困が原因で結局は教育にお金をかけられ無いから、自分らが何のために生きているのかもわからない。
金持ちになろうと努力もしない。
貧困層には「魚を与えるより釣竿を与えよ」の考えで、すぐに大金は入らないけど、将来まともな給与がもらえるようになる学校もあるのにスルー。
こちらが良い機会を与えてもその意味が理解できないので、楽な方へ走ってしまう。
これが何世代も何世代も続いてしまい、絶望的な貧困層として定着してしまう。
結局は、烏合の衆である人民には、何かしらの指導、監督者がいなければ纏まる事はできなかったということが今回の記事でわかります。
むしろ、彼らは支配される事でしか生きることができない、自らを奴隷とし、誰かに指示を受けることによって生きてきたといえるでしょう。
これは日本人も笑っていられません。
学校、会社、教会、そういったもの無しでは、どこでどう生きればよいのかまったくわからなくなってしまうでしょ?
私たちはこのことを深く理解し、受け止め、反省しなくては次の時代は到来しないのだということです。
自分で言うのもおかしいですが、こういった歴史を幼い頃から勉強しなくてはなりません。
そうすれば、自分の位置と、進む方向が見えてくるのではないでしょうか?
本当の意味で、独立する為の教育に少しでも貢献できればと思い、ブログを書き続けます。
それでは
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後半 【絶対王政から民主化への200年、そして、それから200年経った今】 (09/22)
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