長文の煩悩くん フルスロットルさん最新、更新されてたんですね。名無し先生的考察、参考になりますね。Φ(^π^;)φ
斎院と失われた平家
http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-2825.html
日本の真の構造を知るには、日本の3人の天皇は誰なのか? そして、この3トップを頂点に据える天孫系、地祇系、天神系の外来勢力とは何なのか? また、その間を行き来するカラス(戸籍を持たない外来人)とは何者なのか? そして最後に天皇制システムの根幹を為す斎宮、斎院の「斎王制度」について知らねばならない。
これらが分かれば「扶桑樹」(カバラの生命の木)を模して作られた日本の国体構造が完全に透視出来たも同然ですが、まだまだその全貌がオイラにはハッキリとは見えていないのが非常にもどかしい。
その前に縄文のジイサマに
ついて、あるサイトと引用先を不明瞭にした件に関して、引用先の方が「名無し扱い」されたことについて不満を書かれていました。この件にについての理由は
以下です。オイラは引用先のソース先を示すのが基本姿勢ですが、この時はオイラの洞察内容と真っ向から反対意見となっている為、書かれた方を批判するよう
な形となってしまい引用先を示し難かったというのが大きな理由。特に、ソース先の方が煩フルを読まれていることを知っていたので尚更だった。また興味を
持った人は文章をコピペしてググれば、ソース先は分かるので敢えてソース先は示さなかったわけです。今のところ、オイラの立ち位置は高度自給自足時代様の
コメント欄で管理人氏が「ブルータス、お前もか!(笑) 」(ソース先)
と回答されたのと同じ立場を「今のところ」とっている。まぁ、オイラの場合、確定的証拠...等も知らないので名無し先生の情報を得られた高度自給自足時
代様を信じて洞察(=証拠探し)を進めている状態ですが、、、、。以上から今回引用を名無し扱いしてしまったことに関して、落胆させてしまったことは大変
申し訳なく思っています。m○m
さて今回は、各々の外来勢力の成り立ちの詳細を語り部説を軸にして見ていく。今現在、オイラが分かっていることを全てさらけ出してみるつもりだ。
■地祇系(新羅系)
数
千年前から渡来したオロチョン、ウィルタ(オロッコ)
、ナナイ、エヴェンキ、シボ...等のツングース系狩猟民族も含むが、北イスラエル王国の「失われた十支族」が主体を為す狩猟騎馬民族勢力で一部はエタ、
ヒニンとされた。新羅から渡来した勢力であることから新羅系とも称され、緑のカラスのバックボーン。
この勢力には平氏に対抗して新羅系武士軍団として建てられた源氏や皇道派思想の原動力となった大本も属している。また、五摂家のうち近衛閥(近衛・鷹司)が属し、背後にイエズス会が控えている。
※
天孫系天皇である昭和天皇の「大葬の礼」の時、テレビ東京だけがアニメを流していたことから、テレビ東京は唯一の地祇系キー局と考えられる。実際、テレビ
東京の株主は日本経済新聞社。日本経済新聞社の前身は中外物価新報。中外物価新報の前身は三井物産中外物価新報局。三井財閥=北朝=地祇系です。
一方、九条閥(九
条、一条、二条)は藤原式家=桓武平氏の南朝派閥であり、出自不明の前田、伊達、島津、毛利、黒田、浅野、鍋島、池田、蜂須賀、山内、...等のキリシタ
ン外様大名を擁し、江戸時代の鎖国政策下でも前田-島津-沖縄ラインで密貿易していた。この中継基地になっていたのが黄壁宗・萬福寺で、この設立資金は九
条流二条家の分家・冷泉家が担っていた模様。
※
以前、オイラはここを間違えていた感じだぁ、、、(汗)。キリシタン大名=イエズス会の傀儡であるが、「南朝=メーソン、北朝=イエズス会」という図式か
らは捩れが生じてしまっている(滝汗)。藤原氏自体、百済系大王家(下宮)の天智天皇が実の母親(鏡王女=皇極天皇)を孕ませたのを帰化した半島の百済王
家王子の鎌足に下賜して生まれた不人(人に有らず)が祖。天智天皇は実の妹とも関係している。この天智の奇妙な行動の裏にはなかなか践祚即位出来ない焦り
から、父親の舒明が皇極天皇を中継ぎの巫女として即位したのと同じことを狙った結果なのかもしれない(皇位継承は実は同母兄である大海人皇子【漢皇子】の
方が上だった)。不人は「藤原」の姓を藤原大嶋から譲り受け、更に系図の不足を中臣氏から購入して祖をアマノコヤネに接続している。このように藤原氏はバ
リバリの百済系出自なのだが、ここから百済系勢力と手を結んだ藤原式家に対抗して新羅系勢力と手を結んだのが藤原摂関家(藤原北家)であるが、ここが五摂
家(九条・近衛)の大元。しかしこの藤原北家もメーソン系の九条とイエズス会系の近衛に分かれてしまっている。つまり、メーソン・イエズス会の各派閥の中
にも真逆の対抗勢力が食指を伸ばして浸透している訳だが、このような複雑巧妙な形で各勢力が暴走しないよう離合集散させながら操っているのだろう。
紀元前722年に幾度も行われたアッシリア捕囚を
経て北王国は滅亡した時、タルシン船貸与で付き合いがあったフェニキア人の船に乗りスペインに到達した勢力があった。これらが後に東欧に移住しアシュケナ
ジーユダヤ。一方、アッシリア捕囚からの開放後、東の方へ旅立った勢力もあった。騎馬民族化したがシルクロード商人の大月氏らのソドク人(ペリシテ人)に
導びかれ、秦国、扶余国を建国しながら秦韓(後の新羅)に到達。一部は出雲(須佐)に上陸し出雲神族と合流し都を置いた。これにより半島との交易も活発
化。これがスサノオによる「国引き神話」。
徐福国の扶桑樹神話(東
方の若木=生命の木)に引き寄せられやってきた長江出身の倭人勢力の多産傾向による勢力増大に危機感を覚えた出雲は交流のある元秦韓(辰韓)王家で今は金
官加羅の雇われ王をしていた辰王側に対し、邪馬台国、徐福国討伐と引き換えに領土提供を受けるという約束の下、金首露王(扶余依羅・倭旨)一行を列島に招
聘した。討伐後は邪馬台国を引き継ぎ大倭と名称を変えた。そして、金首露王三男の金末休は新羅を建国している。
これら全てがスサノオと称されるが、それは頭に角のようなもの飾りを付けていることが共通的な特徴であったからだろうか?
(オロチョン族)
■天孫系(百済系)
南ユダ王国のユダ族が
主体を為す勢力。南ユダ国(南王国)紀元前586年にエルサレム神殿破壊と支配階級が連れ去られたバビロン捕囚を経たが、紀元66年のユダヤ戦争、紀元
132年の自称・救世主(メシア)のバル・コクバの乱(第2次ユダヤ戦争)でローマによってイスラエルの地は仇敵ペリシテ人を示す「シリア・パレスティ
ナ」と改名され、ユダヤ人は完全にディアスポラ(撒き散らされたもの)され南ユダ国は滅亡した。
それ以前から神殿破壊され、拠り所を失った南王国の神殿派レビ族は
ローマ帝国中枢部にも入り込んだが、大司祭階級であるアロン末裔のサドク派(サドカイ人)とエッサイの子ダビデに乗り換えたサムエル派の確執からサムエル
派は傘下勢力を引きつれ1世紀にローマを出てアジア南部を転々と移動。同族の新羅から土地を割譲され、4世紀頃に百済を半島に建国。369年には倭国へ七
支刀を献上している。一方、サドク派はキリスト教ローマ教会(バチカン)にも侵食し支配下に置いた。これがコンスタンティヌス帝(母親ヘレナはキリスト教
徒)を使った「ミラノ勅令」(313年)によるローマ帝国のキリスト教公認化に至らせ、380年のテオドシウス1世によってキリスト教がローマ帝国の国教
とされた背景だったろうと睨む。
※百済の支配層は扶余族=徐族。徐福と同じ姓なのは何か関係がありそうだ。ちなみに、ローマ帝国内のサドクとサムエルの内容はオイラの妄想的洞察です(笑)。
7世紀の百済滅亡(660年)でこの百済系が列島に渡来し大量移住。
この時、引き連れてきた百済遺民勢力が後の平氏の
起源であり、桓武帝の御世、列島居住する百済系移民を「武士団」として集結させ、皇族の皇子に「平」姓を与え臣籍降下させて頭領格に据え傘下の勢力とした
わけです。平氏には桓武平氏...等の4つの流れがあるが、これが天孫系の主力構成。特に桓武平氏の中の伊勢平氏のうち平清盛を輩出した家系を「平家」と
呼ぶ。亡国直後、大量渡来が可能だった背景には、既にそういう交易ルートが存在していたことと、日本列島内で「親百済」が大きな政治勢力になっていたこと
に起因する。
だからこそ、百済滅亡の3年後の663年に
唐・新羅連合軍に朝鮮半島で戦いを仕掛けた倭国・百済遺民連合軍の「白村江の戦い」を行ったわけです。この時、天智天皇が政治的主導を発揮して行ったが、
戦争はたった2日で勝負が付き、天智天皇は逃げるように琵琶湖の畔・大津京に遷都してしまった。天智天皇崩御後、国内を二分する「壬申の乱」(672年)
が起きたが、これは百済系(天智天皇=天孫系)と新羅系(天武天皇=地祇系)の戦いでもあった。
ここで百済系がどのように政治力を手に入れ、「白村江の戦い」を起こし得たのかをざっと眺めてみる。
645年、百済系大王家(下宮)の
中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌子(後の藤原鎌足、実は百済の王子)が談山神社の裏山で蘇我入鹿暗殺を密談して、宮中(板蓋宮)で蘇我入鹿を暗殺して
蘇我本宗家を滅ぼす「乙巳の変」が起きている。まぁ、実際は宮中ではなく首塚のある法興寺(飛鳥寺)辺りの辻角で惨殺されたのが真相ですが、、、しかも、
その後の一連の政治改革である「大化の改新」は行われておらず、壬申の乱後に勝った天武天皇が行った大宝律令発布、薄墓令、官位名称変更...等の一連の
政治改革のことだった。百済系が自らの業績にして記したわけです。
※首塚と板蓋宮とは約600m離れているので、ここまで首が飛ぶ筈はない。
この暗殺劇により、新羅系大王家(上宮)の大海人皇子(天武天皇)を立太子に押していた蘇我入鹿(鞍作毛人)がいなくなった為、百済系が政権を握ることが出来た。これ故、百済系のクーデターだと言われているが、このクーデターの真の狙いは百済救済にあった。
この「乙巳の変」の起きた645年当時の半島情勢は以下のようであった。
新羅との戦いで百済聖王が
戦死(550年)。これを転機に、羅済同盟で高句麗対抗という流れから次第に百済と新羅の対立へ大きく変化していったが、この百済と新羅の対立は日本国内
へも波及し、3世紀渡来した金首露王から始まる「新羅系大王家」(上宮)と半島での百済勃興で5世紀にここに婿入りして来た扶余依羅から始まる「百済系大
王家」(下宮)の間にも確執が起き始めた。このように半島と列島では祖を同じくする王家が居る為、昔から海外状況に機敏に日本は反応する。これは今も変わ
らないが、昔から日本国は各アジア民族の利権交差点でもあるのです。
そして、618年、煬帝の暴政に耐えかねた民衆が各地で反乱を起こし、この動きが拡大化して、ついに隋が滅亡。
当時は倭用(用明天皇)-倭聖(高向王、聖徳太子モデル)の新羅系大王家(上
宮)ラインで大王位を継承していたが、百済系の舒明は隋滅亡に対する無策の責任を取らせる形で倭聖を捕らえ毒殺(622年)し、更には倭聖后の宝(佐富)
を取り上げ自らの后にし、皇極天皇として即させ、その後、舒明自らが大王位に就いた。この場合、宝(佐富)は繋ぎの巫女としての役割を担ったわけです。
※隋は高句麗に4度遠征しており、高句麗問題は隋に任せるというのが倭聖の方針だった。
最終的に百済と高句麗は軍事同盟(麗
済同盟 642年)を結び、両国から新羅を攻撃するようになっていった。この両国の攻撃に対し新羅の善徳女王は高句麗の敵である唐に援軍を求めた(643
年)。その条件は女王廃位と属国化だったという。新羅王家の地位はどうしても保持しなくてはならない為、女王はこの条件をそのまま飲むことは無かった。
(新羅初の女王が善徳女王 衣装は歴史検証を全く欠いた創作だが、、、)
しかし、この643年の援軍要請の
動きに慌てたのは舒明-中大兄皇子らの百済系大王家(下宮)。唐が絡んでくると一気に形勢は不利となる為に、早いうちに新羅を併合しておかねばならない状
況に追い込まれた。その為には百済救援の為の援軍派遣が最低限必要であり、それを実現するには一枚岩の強力な政治体制が必要。つまり、中大兄皇子が皇太子
に就き下宮が皇統継承続けていくという誰が見ても確信できるような体制が見えないとならない情勢下だった。ただ問題は中大兄皇子の立太子には継承条件が不
備であるという大きな問題を孕んでおり、これがなかなか立太子出来なかった理由でもある。一方、倭聖と宝の子である大海人皇子(漢皇子)の方は、蘇我入鹿
の押しメンとなったことで立太子には有利な展開をしていた。
こういう背景故に、、、
「どげんとせないかん!」
と下宮側が一気にクーデターに突っ走っちゃったわけです。
一方、新羅では善徳女王の後を継いだ真徳女王の御世になり、唐の新羅に対する援助約定が成立(648年)。その後、唐の衣冠礼服の制度導入(649年)、独自年号の廃止(650年)、唐の官制倣ったものに変更(651年)を経て、新羅は完全に唐の属国となっていった。
※高句麗・新羅・百済の三国の中で女性が王位についたのは三国の中で新羅だけ。新羅の女性は相続権も持っていた。
そして、新羅念願の軍事同盟(唐羅同盟 660年)が成立するや否や唐軍は山東半島から一気に百済を攻め込み、そのまま百済王都まで達して百済を滅亡させてしまったのです。
日本国内に衝撃が走った。
そして、敗けた百済遺民が大挙して日本列島に渡ってきた。
藤原式家凋落の原因となったのが、「藤原薬子の変」(810年)ですが、これは平城上皇と弟の嵯峨天皇の対立。最終的に嵯峨天皇が勝ち、式家出身で平城天皇の愛妾・藤原薬子とその兄で参議・藤原仲成が処罰された為にこの名がある。
**************************************
■藤原薬子の変
806年、桓武天皇が崩御して皇太子・安殿親王(平城天皇)が即位。平城天皇は弟の神野親王(嵯峨天皇)を皇太弟に指名。
809年、平城天皇は発病するが、病を祟りと考えた天皇は譲位を決意。同年、神野親王が即位し嵯峨天皇に、皇太子には平城天皇の三男・高岳親王が立てられた。
810年、平城上皇は旧都である平城京へ移る。平城上皇が天皇のときに設置した観察使の制度廃止を嵯峨天皇が改めようとしたことから「二所朝廷」といわれる対立が起こるが、平城上皇復位をもくろむ藤原薬子と仲成の藤原式家兄妹はこの対立を大いに助長し利用した。
二
所朝廷の対立が深まる中、平城上皇は平安京を廃して平城京遷都の詔勅を発布。嵯峨天皇はひとまず詔勅に従うフリをしたが、最終的には遷都拒否を決断。嵯峨
天皇は使節を発して各地の関を固め逃げれないようにした上で藤原仲成を捕縛し佐渡権守に左遷。そして薬子の官位を剥奪。
嵯峨天皇の動きを
知った平城上皇は激怒し、自ら東国に赴き挙兵することを決断。上皇は薬子とともに輿に乗り東に向かった。嵯峨天皇は坂上田村麻呂に上皇の東向阻止を命じ仲
成を射殺。平城上皇と薬子の一行は大和国添上郡田村まで来たところで、嵯峨天皇側の兵士が守りを固めていることを知り、勝機がないと悟り、平城京へ戻って
剃髮し出家。薬子は毒を仰いで自殺。
**************************************
これにより藤原式家の
勢力が衰え、藤原北家の隆盛した。北家は嵯峨天皇、文徳天皇、清和天皇、朱雀天皇、村上天皇と仕える中で外祖父となり、北家が摂関家独占し磐石な体制が構
築されたが、式家が連れ去ってしまった武士団「平氏」に対抗して北家が立てたのが「源氏」。新羅系移民を終結して天皇皇子に「源」姓を与え臣籍降下させ頭
領格に据えて北家傘下に組み込んでいった。これが嵯峨源氏、文徳源氏、清和源氏、村上源氏の諸流派ですが、北朝派(新羅系=地祇系)勢力の主力です。
※これが北朝の正体。これに連なるのが三井家で三井財閥へと発展。騎馬民族化した北イスラエル族が主体であり、後にイエズス会がこの勢力の背後に付いた。
平氏の
場合は、桓武帝の皇子に「平氏」の姓を与え臣籍降下させて百済系豪族をに婿入りさせ頭領格に据えた勢力。これを式家の傘下勢力に組み込んでいった。式家隆
盛の要因は百済系王族の高野新笠(天智天皇の孫)が生んだ山部王(後の桓武天皇)を擁立し帝位に就けさせたことによるが、この時の原動力が藤原式家の祖・
藤原百川。高野新笠は身分が低く彼女が生んだ皇子らは皇位継承は絶望的だったが、帝を呪詛したかどで后や皇太子を都から追い出し、幽閉先で死去させて、桓
武に皇位継承が回るように仕向けている。これは全ては藤原百川の陰謀だった。
※
平氏には桓武平氏、仁明平氏、文徳平氏、光孝平氏の四流があるが、最大の桓武平氏にも葛原親王、万多親王、仲野親王、賀陽親王の四流があり、またそれぞれ
に分家がある。これが南朝の正体で、これに連なるのが式家が出自の住友家で住友財閥へと発展。海洋民族化した南ユダ族が主体であり、後にメーソンがこの勢
力の背後に付いた。
この平安時代を通じて、平氏、特に伊勢平氏である平家が
隆盛してきたが、「平家にあらずんば人にあらず」と豪語した平家も壇ノ浦の戦いで滅亡したとされる。しかし、不思議なのは平家が負け戦を経て西国に逃げて
いく際、どんどんその兵力が大きくなっていく点です。通常は兵力激減していく筈なのですが、、、、そして壇ノ浦で負けた後、一斉に平家は世間から消えてい
る。世に「平家の落人」伝説があるが、そのほとんどは源氏の隠れ里であり、平氏と名乗って平氏側の追求を逃れてきた場所。鎌倉時代には平氏勢力は霧が晴れ
るかのように消えてしまったのです。この不可思議な手品のタネ明かしは、平氏が雇った中国大陸の漁民らをかき集めた傭兵だったと睨んでいる。
※平氏は逃げる際、西国に逃げ、源氏は逃げる際、東国に逃げる。この傾向から各々の勢力基盤が西国・東国にあることが分かる。
式家、北家とは、729年、長屋王の変で長屋王を
自刃に追い込んで新羅系大王家(上宮)を滅亡させのが不等人の子たちで通称「藤原四兄弟」です。彼らは不思議なことに天然痘で全員が亡くなった。長屋王の
祟りだと噂されたが、これは新羅系の報復であることは間違いない。この四兄弟末裔が南家・式家・北家・京家の四家ですが、初めは南家・式家の隆盛で、北家
は押され気味だったが最も遅い時期に興隆して最後には最も栄えることになったのは先に書いた通りです。
この「薬子の変」で注目すべき箇所は、嵯峨天皇が賀茂大神に戦勝を祈願して、勝った場合、斎院創設を
誓っていた点です。既に伊勢斎宮があるというのに、何故、斎王を新たに作らねばならないのだろうか? 通常、祈願には奉幣という形で金品寄付が通例だが、
斎王という恒常的に支払いの発生する財政負担の掛かるものを作り、更に自らの皇子を斎王として捧げることは、祈願対価としては少し過剰気味だと思えるのだ
が、、、、ここが非常に不思議な点なのです。
(嵐山の斎宮行列)
伊勢斎宮の
設立理由も謎であり、斎宮は天武天皇が壬申の乱に勝って大宝律令を発布した時から始まっている。この壬申の乱は武家同士の戦いではなく、大友皇子(弘文天
皇の称号を追号)という皇族ツートップ同士で戦っており、これは嵯峨天皇と平城上皇と同様な構図なのです。そして、いづれもが百済派vs新羅派の戦いで
あった。
つまり、負けた敵対派への懐柔策、、、 こういうことなのだろう。斎院・斎宮を通じて何らかの援助をしていたのではないのか?
斎院・斎宮に役割について、高度自給自足ブログ様を通じて名無し先生の話では、、、、
■伊勢斎宮
伊勢神宮から20Km離れた斎宮寮(伊勢国多気郡)が生活の場。
総勢120名の大所帯。
天皇に代わって祭祀。天皇の夜の相手。
■賀茂斎院
京都北側の紫野斎院(上京区櫟谷七野神社のあたり)
表に出せない皇統譜や外交文書の記録と保存。皇族の夜の相手。
とある。う~む、ある意味、天皇御在所の内裏や江戸城大奥のような存在ですが、原則として斎宮・斎院の斎王は天皇の代替わりで退下(お役御免)する。
そして、マヨさんブログに怒涛の内容のコメがあった。
内
裏,斎宮寮,「賀茂神社の近くのどこか」,の3カ所がそれぞれ表と裏の合計3人の天皇の生活場所であった.新天皇が即位する度に,新たに相互に配偶者をや
りとりし,継続的な姻戚関係を維持した.表の天皇から裏の天皇へ配偶者を派遣する部分は齊王制度と呼ばれて,その華麗な行列と共に広く知られている.但
し,齊王制度は公開されない実質的部分として,裏の天皇家(あるいはその一族)から表の天皇へ嫁ぐ配偶者を決定する仕組みを含んでいる.ただ,このように
考えると,婚姻家系とされる藤原氏と2名の裏の天皇の関係がどう整合するのかが,新しい問題として生じます.藤原家はどちらかの裏天皇家の一族だと考えれ
ば筋は通りますが,そのようなことは何処にも示唆されていないようです.
そうか、、、そうだったのだ。
斎宮・斎院は3人の天皇のうち御所に
いる表の天皇以外の2人の天皇の内裏(大奥)だったのだ。つまり、裏側に回った天皇たちは当然経済的に困窮するわけでハーレム(大奥)を持つことは不可能
となるが、これでは貴種の血は絶たれてしまう。彼らの血胤を保つ子孫を作るのと彼らの家格を維持しながら支配者層の間を取り持つシステムが斎宮・斎院の斎
王制度だったというわけです。
この制度があるお陰で表の天皇は対立勢力の影に怯えなくて済むというメリットもある。これが京都御所が城壁もお堀もない無防備な形態をしている理由でもあり、こと国内においては天皇は無敵なのである。
明治維新で
は孝明天皇と息子の睦仁親王(京都明治天皇)が斎院側に隠れたのだろう。堀川御所は日蓮宗大本山・本圀寺(ほんこくじ)の境内一角に作られたというが、こ
こが姿を変えた斎院だったのかもしれない。堀川辰吉郎は当然のことだが、「オーナー」と呼ばれた皇族前田家とロス茶のハーフであるオクラデッシュ・ハーマ
ン(前田ゴロウ)もこの姿を変えた斎院の出なのかもしれない。
というのも、斎院という大奥に娘を提供して后や妃と為れるのは「四品」以
上の家系の者だけであるが、次期天皇は母親の家格の上下が考慮されて決まるしきたり。既にここで差が付いてしまうのです。この資格を始めから有せる「初任
四品」の家柄は親王・内親王、つまり皇族だけであったが、江戸時代以降、徳川御三家や生粋の松平家は勿論のこと、松平姓を名乗ることが許された前田、伊
達、島津、毛利、黒田、浅野、鍋島、池田、蜂須賀、山内、...等のキリシタン外様大名も有することになった。これが皇族前田の称号の元なのだろう
(笑)。そして、江戸末期にお隠れになった孝明天皇と前田家の娘が生んだ皇子(堀川辰吉郎)が、ロス茶の娘を孕まして生まれた子が前田ゴロウ翁ということ
なのか?
さて話は戻るが、薬子の変の後、秦氏の「養蚕神社」(蚕
の社・木島坐天照御霊神社)にある「「糾の森」と秦氏祭祀が下鴨神社へ移され、蚕の社は「元糾」となり、三鳥居が作られた。これは外来勢力が仲良く力を合
わせて、この国を運営していく証として建てられたが、この時の現在に繋がる日本の「扶桑樹構造」=新三輪が完成した。
※これ以前には卑弥呼-出雲-徐福国の3つの旧三輪だった。
(イジメ、ダメ、ゼッタイと誓い合う三大渡来勢力)
↧
前半 斎院と失われた平家
↧