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731部隊泥沼化していた東アジア侵略を無視、真珠湾攻撃で米国と戦争を始めたことを無謀だと言う怪説

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raptさんや名無し先生説にダブルところもありますが、参考になりますね。

731部隊・元部隊員の証言 1
https://shanti-phula.net/ja/social/blog/?p=80560

acco☆彡様からの情報です。
 こういった動画を見ると731部隊の存在や、それが石井四郎中将によって作られたのは明らかな事実だと改めて思います。
 “続きはここから”以降に石井四郎中将が細菌兵器に目を付けるきっかけになった欧米の視察旅行(自費)が出てきます。帰国後に石井四郎中将は軍部を説得し“多大な予算を獲得”して細菌兵器を研究するための陸軍軍医学校防疫研究室(現・国立予防衛生研究所展開)を設置しているのですが、そこに裏天皇の援助や根回しがあっても不思議ではないと思いました。
(編集長)
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731部隊・元部隊員の証言 1
  
転載元より文字起こし)
  
 

731部隊に「マルタ」を引き渡したと証言する三尾豊氏 

元関東軍大連憲兵隊 准尉 三尾豊氏:
当時、アジアっていう特急が走ってまして…それにまぁ、乗せていくわけですな。非常にあの厳重な警戒でね、もうトイレに行く時もですね、必ず行ってドアを閉められないように中に入って監視するという、極めて厳重な形でね、送っていくわけですよ。しかもその時間が非常に長いんですね、たぶん16時間くらいかかったと思います。
ハルビンの駅は憲兵の詰所がありまして、そこには駅勤務の憲兵がおります。これらが警戒をしておるところにですね、731部隊から迎えに来て、受領に来ている車があるんですね。それはですね非常にグロテスクな黒い、窓のない大きなワゴン車なんですがね。それに向うから受領に731部隊の専属の憲兵が来て、そして私たちががんじがらめに動けないように縛った錠をほどくとすぐに手錠をかけてね、そして鉄の扉を開いて、もうまるで豚を扱うようにね、その4人の方を蹴りこみました。

(1:27)
ナレーター
中国全土から兵房に送られたマルタたちは、ここで731部隊の医学者たちに引き渡された。そして再び帰る者は、ひとりとしていなかった…

(1:47)
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当時731部隊で労工として働かされていた 
潘 洪生氏
 
私がトラックに木材を積んでいると、別の大型トラックが溝に落ちた。そのトラックには、大きな鉄製のカゴが積んであった。憲兵隊の通訳が私にけん引するように命じた。私がロープを掛けに、トラックに近づくと「こっちの積荷を見るな」と言われた。私はトラックの下にもぐりロープを掛けたその時、カゴの中から中国人の声が聞こえた。
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劉 万会さんが行方不明となり、彼の家族はその後、辛酸をなめることになる。

 
劉万会の息子:劉忠動氏
父が逮捕されてから、私と母と二人の妹の暮らしは食事も満足に出来ない程でした。食べ物がないので、野草を採って食べたり、米ぬかを麺と一緒に混ぜて食べました。粗末な食事だったので二人の妹は大変な便秘になってしまい、死ぬ寸前になりました。貧しさから脱する為、毎日積極的に働きました。共産党に入党し、父の行方を突き止めようと思い入党の申請をしました。しかし、仲間の7人は無事に入党出来たのですが、私一人が入党を却下されました。入党却下の理由は、父親の行方不明だったのです。

劉万会の孫:劉興家氏
祖母が死ぬ寸前、「必ず祖父の行方を突き止めるように」と遺言を残してこの世を去っていった。
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(3:40)

 

生きた人間を使い、人体実験を行うことができる731部隊。医学者の欲望を満たす、最高の医学の実験場となっていったのである(特設監獄跡)。

 

医学者、そして軍人、731部隊長石井四郎
経歴を辿ると彼の野望が浮かび上がってくる。
大正13年、石井は四国・香川で流行した伝染病の調査のため、
京大調査隊のリーダーとして、香川に出向いた。
(続きはここから)

(4:09) 
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神奈川大学教授(科学史)
常石敬一氏

ま、実際どんなことやったかって言うと、患者さんも少なくなっていたんで、死んだ方のお墓まで掘ってですね、その死体を引っ張り出すと…いうことまでしてですね、原因はウイルスであるということを初めて確認したわけです。従来医学の研究っていうのは一人の研究者がやっていたけれども、チームプレイでやる…で、チームプレイでやると、その内科の人、病理の人、細菌の人、小児科の人…みんなが共存意識を持って一生懸命やる。で、またそのお互いの知識の足らない所を補ってね、ウイルスなんてまだ、ウイルス学者っていない時代なんですよね。で、ところがそのウイルスってものを確保したと…。それから多分、僕が思うには石井は、自分の生きる道はこれなんだと、1人ひとりの医学者を集めてね、お互いに競争させる…で目標を与えて一緒にやらせていくと。
===========================
(5:01) 
ナレーター
医学の博士号を取った石井は、昭和3年から2年間、自費でヨーロッパ、アメリカに視察旅行に出かけた。

 

そして石井は、欧米の科学技術や軍事産業に触れ、日本の軍事技術の立ち遅れを痛感するのである。中でもドイツやソ連が細菌兵器の開発に着手していることに彼は注目。
そこに自ら活路を見出していった…

  

(5:37) 
帰国した石井は、「安価で殺傷力は高く、広範囲に感染する細菌兵器は、鉄不足の日本にとって有益な兵器である」と軍部を説得。(石井四郎「細菌兵器について」より)

 

軍務局長・永田鉄山を動かし、多大な予算を獲得していった。

(5:56) 
 

新宿区外山町、現在の国立予防衛生研究所。昭和7年石井はここに、陸軍軍医学校防疫研究室を設置。細菌兵器の研究を推し進めていく。対ソ戦に備え、その防衛のため石井はソビエト国境に近い満州・背陰河に目を付け、そこに基地を作ることを決める。

(6:20)
昭和8年、731部隊の前進となる秘密の細菌部隊は、辺鄙なこの地に最初の足跡をしるした。関東軍でこの部隊を管轄していた陸軍中将・遠藤三郎。
彼は当時こんな日記を残している。
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陸軍中将・遠藤三郎

陸軍中将・遠藤三郎


『遠藤三郎 日記』
午前八時 石井トトモニ 背陰河ノ細菌試験所ヲ視察ス
六百米平方ノ大兵営ニシテ 一見要塞ヲ見ルガ如シ
==========================

(6:58) 
極秘の部隊ゆえに、実験場の周囲には高圧電流が張り巡らされ、隊員は全員偽名を使い、許可なく外出は禁止。内地の家族と直接連絡を取ることも許されなかったという。

(中馬城の跡地は現在小学校になっている)

(中馬城の跡地は現在小学校になっている)


人目に触れぬこの地で、医学者たちは生きた人間を用いて、細菌戦で必要とされる科学的実験を推し進めていた。

文字起こし:acco☆彡



[櫻井ジャーナル]泥沼化していた東アジア侵略を無視、真珠湾攻撃で米国と戦争を始めたことを無謀だと言う怪説
https://shanti-phula.net/ja/social/blog/

竹下雅敏氏からの情報です。
 日本が東アジアを軍事侵略した経緯が、簡潔にまとめられています。文中で南京大虐殺について、“目撃した人々が少なくなると、この虐殺を否定しようと必死な人たちも出てきたようだが、世界では通用しない”とあります。奇しくも本日のイランラジオで、“中国で、「南京大虐殺公文書抜粋」が公開”という記事が出ていました。

 これまで日本が太平洋戦争に突入して行った経緯がよくわからなかったのですが、ようやくその道筋がおぼろげに見えてきました。この記事の最後にある“指揮していたのは…昭和天皇の叔父、朝香宮鳩彦”ですが、彼は堀川辰吉郎に仕えていた人物です。どうやら満州国は2代目裏天皇・堀川辰吉郎の命によって作られた国家のようです。こうした事実を考慮すると、太平洋戦争における最大のA級戦犯は堀川辰吉郎であると断言してよいのではないかと思います。

(竹下雅敏)
――――――――――――――――――――――――
泥沼化していた東アジア侵略を無視、真珠湾攻撃で米国と戦争を始めたことを無謀だと言う怪説
  
転載元)
  
 1941年12月7日午前7時48分(現地時間)にハワイの真珠湾に対する奇襲攻撃を日本軍は開始した。いわゆる偽旗作戦とは違って実際に日本軍が攻撃したのであり、例えばベトナム戦争へ本格的に介入する口実になったトンキン湾事件とは本質的に違う。野村吉三郎駐米大使らがアメリカのコーデル・ハル国務長官に最後通牒を伝えたのは攻撃開始から1時間後のこと。この攻撃で日本はアメリカと戦争を始めたわけだ。

 当時の生産力、科学技術力を比較するだけでも日本がアメリカに正規戦で勝てる可能性はきわめて小さく、無謀な行為だったと日本ではマスコミに登場する「専門家」も口にする。日本はアメリカと戦争するべきでなかったというわけだ。

 この主張を否定するわけではないが、その時点で日本が東アジアを軍事侵略していたことに触れない「専門家」が多い。アメリカと戦争したことは間違いだが、1872年の琉球藩設置に始まる東アジア侵略を肯定している、少なくとも否定していない。侵略戦争が泥沼化、真珠湾攻撃につながったことから目を背けている。

 この辺の流れを振り返ると、1871年7月に廃藩置県、同年10月に宮古島の漁民が難破して台湾に漂着、何人かが殺され、72年に琉球王国を併合して琉球藩を設置したことに行き着く。明治政府の何者かが漁民殺害を口実に台湾を侵略することを思いつき、宮古島を日本領だと主張するために琉球藩をでっち上げたということだろう。

 台湾に軍隊を送り込んだのは1874年、その翌年には李氏朝鮮の首都を守る要衝、江華島へ軍艦を派遣して挑発、紛争化に成功、「日朝修好条規」を結ばせて清(中国)の宗主権を否定させた。1894に朝鮮半島で甲午農民戦争(東学党の乱)が起こると、「邦人保護」を名目にして軍を派遣した。その一方で朝鮮政府の依頼で清も出兵、日清戦争が勃発している。

 1840年から42年にかけてイギリスと戦争、敗北して「半植民地化」していた清との戦争に日本は勝つ。言うまでもなく、清とイギリスとの戦争は貿易で敗れたイギリスが清に麻薬のアヘンを売りつけようとして引き起こされた。資本主義は経済的に優位な仕組みではないということでもある。

 1895年4月に「下関条約」が結ばれて日本は中国大陸での利権を獲得しているが、その半年後に三浦梧楼公使たちは朝鮮王朝の中で「親露派」と見られていた閔妃を暗殺している。そして1910年、日本は韓国を併合した。この年、幸徳秋水を含む社会主義者や無政府主義者が逮捕された。そのうち24名に死刑判決が出され、12名が処刑されている。いわゆる「大逆事件」だが、冤罪だった可能性がきわめて高い。

 事件の翌年、1911年に警視庁は特別高等課を設置、1923年の関東大震災を経て25年5月に普通選挙法を公布されるが、6月には治安維持法が成立、思想統制の仕組みが出来上がる。震災の復興資金の調達を頼った先のJPモルガンはウォール街の巨大金融機関で、それ以降、日本はその強い影響下に入る。

 その後、1927年に第1次山東出兵、翌年に第2次山東出兵、張作霖爆殺、31年には満鉄の線路が爆破された。関東軍参謀の石原莞爾中佐(当時)と板垣征四郎大佐(当時)が立案、今田新太郎大尉が用意した爆弾を河本末守中尉を中心とするグループが仕掛けたと言われている。これを切っ掛けにして「満州事変」が始まり、その翌年に日本の傀儡国家「満州国」の建国が宣言された。

» 続きはこちらから
 その年、アメリカではウォール街を揺るがす事態が生じていた。大統領選挙で巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を拡大、植民地やファシズムに反対するフランクリン・ルーズベルトが当選したのだ。

 この結果を受け、JPモルガンを中心とする巨大資本の一部はファシズム体制の樹立を目指すクーデターを計画している。つまりJPモルガンはファシスト、あるいはそのスポンサーだということ。このクーデター計画は海兵隊のスメドリー・バトラー少将の議会証言などで明るみに出た。ウォール街がナチス時代のドイツへ資金を提供していたことも明らかになっている。

 このJPモルガンと最も緊密な関係にあった政治家と言われているのが「適者生存」を信奉する井上準之助。
親しくなる切っ掛けは1920年に行われた対中国借款の交渉だったという。1929年7月に誕生した浜口雄幸内閣で井上は大蔵大臣に就任した。

 この政権の政策によって日本では庶民が貧困化、欠食児童、争議などが問題になり、東北地方では娘の身売りが増えた。こうした政策に対する不満は高まり、1930年11月に浜口首相が銃撃されて翌年8月に死亡、32年には井上が射殺されている。

 1937年7月には盧溝橋事件が起こり、12月には南京を占領する。攻略戦の過程で日本軍は多くの市民を虐殺しているが、その裏で組織的な財宝略奪もあったと言われている。日本兵として参加、あるいは目撃した人びとが少なくなると、この虐殺を否定しようと必死な人たちもでてきたようだが、世界では通用しない。

 その虐殺について、少なからぬ日本軍将兵が陣中日記の中で軍命によって捕虜を射殺したと記録、支那派遣軍の岡村寧次総司令官は部下からの報告に基づいて「南京攻略時、数万の市民に対する略奪強●等の大暴行があったのは事実」と書き残している。

 また、外務省の石射猪太郎東亜局長は「南京に於ける我軍の暴状」の報告があり、そこには「略奪、●姦目もあてられぬ惨状」と書かれていたと日記に記している。松井石根大将が師団長クラスの退廃ぶりを嘆き、三笠宮崇仁が著書の中で「日本軍の残虐行為」や「毒ガスの生体実験」について触れたことは有名な話だ。

 事件当時、特務機関員として活動中だった中島辰次郎は、南京市内で「虐殺」と呼べる出来事があったことは間違いないと明言、総数については市内をくまなく調べたわけではないのでわからないとしたうえで、死体が山積みになった光景を見たと話していた。

 なお、この攻略戦は形式上、指揮していたのは中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官だった松井石根だが、実際は上海派遣軍の司令官として参加していた昭和天皇の叔父、朝香宮鳩彦だとされている。皇室のメンバーを止めることは大本営でも不可能だ。関東軍が暴走できた理由のひとつはそこにあるのだろう。


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