日本皇室始祖鳥サークル、raptさんの分類だと、ロス茶天皇派、最新、とりあえず、チェックですね。
私たち日本人は何を失って来たのか?何を取り戻すべきなのか?? (連載「パックス・ジャポニカへの道」)
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(Photo by amira_a)
私が本を書き始めてから早いもので12年余りが経つ。それなりに多くの拙著を世に問うてきたが、その中で想ったことが一つある。
かつて山本空外師は概要こんなことを語った。
「一度発した言葉は世界のどこにいようとも必要な人に、必要なタイミングで必ず伝わっていく。」
全くそのとおりなのであって、これまで私は上梓した拙著を通じて様々な方々と出会うことが出来た。その数は実際に御連絡を下さった方の数のみであるので、実際に私の「言葉」が出会った人たちの数は遥かに多いのだと思うと正直わくわくする。
先日、そうしたお一人からお手紙を頂いた。愛知県みよし市にある満福寺(浄土宗西山深草派)の住職・野々山宏全氏からである。お手紙のみならず、寺報「みひかり」に書き綴られている文章をまとめて冊子「日本の使命」までお送り頂いた。まずはこの場を借りて深く御礼申し上げることとしたい。
野々山師は今年(2014年)4月に上梓した拙著「世界史を動かす日本」(徳間書店)をお読み下さったようである。お送り頂いた冊子を一目見て、私は目を奪われた。こんな言葉をその冒頭に見つけたからだ。
「日本には地球人類を精神的に指導する使命があります。現今の地球に蔓延する『力(軍事力と経済力)の強いものが勝ち』という、野蛮な風潮が、地球に平和をもたらすはずがないことは、だれの目にも明らかです。しかし残念なことに、それに代わるものがどこにもありません。まだ時ならず、どこかにひそんで、じっと出番を待っているのです」
「まだ時ならず」―――私も正にそう感じている。「地球人類を精神的に指導する」のであれば、すぐさまその役割を果たせば良いように思えなくもない。だが、これから我が国が行うことは小手先のことではないのである。長年にわたって米欧の統治エリートたちが国際社会全体に刷り込んで来た「枠組み」そのものを入れ替える、大仕事であり、大洗濯をするのである。一撃必打でなければ死人が出、返り血を浴びてしまう。そうではなくて人々が無意識に「それしかない」と思った瞬間に全てを入れ替えるのである。しかも米欧の統治エリートたちのやり方とは全く正反対のやり方で、だ。
野々山師はこう続けている。
「それは、日本の江戸時代の庶民の精神性に一端をかいま見せています。明治政府によって、一旦は抹殺されたかのようでしたが、日本の深い精神風土は、そんなことで消え去るものではありません。・・・(中略)・・・その江戸文化は、ペルー(註:ママ)の来航以降、ひっくり返されてしまいました。西欧人の強大な腕力(兵器、産業)の前に、豊かな精神文化は邪魔者扱いでした。そのまま明治維新から大戦を経て、未だにその価値観が続いています。世情は封建政治を打破した長所に目を奪われて、この大きな欠点に気付いていません。
島国根性とか、辺境人論とか、自虐的、卑屈な日本人観が多々見られますが、それらは、かつての豊かで高貴な日本の霊性を、亡失した故の発想です。西欧的、打算的視点からは、うかがい知ることができないところに、日本の霊性はあります。
一見、消極的であったり、遠慮がちに見えたりしますが、その裏には、深い精神性と、強い粘り腰が潜んでいます。不退転の永続性を秘めています。それも明確にし、再評価し、今後の指針としたい」
正に得心の下りである。例えば今、街角にある書店を覗いて頂きたい。そしてそこに平積みされている山のような書籍の数々を眺めて頂きたい。
読者は必ずやその毒々しさに気圧され、あるいは吐き気すら催すのではないだろうか。なぜならばそれは我らが日本人は如何に劣っているのかということを論ずるか、あるいは己の不遇を他者せいとし、無限の罵詈雑言を投げつける本ばかりだからである。さもなければいたずらに消費文化を扇動するものであり、「世界そのものの把握」とは真逆の極小な私的世界ばかりへと人々を誘うものばかりでもあるのだ。―――先の大戦で「敗戦国」となって以降、私たちの精神空間はいつしか「そうした毒」によって満たされてしまった。
その結果起きたこと。それは私たち日本人の「人間」化である。ここでいう「人間」とは、覚醒し自律的な「ヒト」とは全く異なる存在だ。枠組みを他者に常に求める一方、その他者をなじり、己では行動しない他律的な存在。それが「人間」なのである。いつしか、私たちの国・日本はこの意味での「人間」ばかりの国になってしまった。
だが、大変興味深いのは今、そうではない「ヒト」が一人、そしてまた一人といった形でつながり始めていることである。もっと言えばそれは我が国だけの現象ではない。覚醒し自律的であるという意味での「志」を持った「ヒト」は国境や民族をまたぎ、手と手を取り合い始めている。そして単なる過剰な金融資本主義(excessive capitalism)の延長線上における現象としての「グローバル化(globalization)」とは全く別の、「志の連合(allied ambition)」を形成し始めているのである。そして静かに”その時”が訪れるのを待っている。
「このこと」は余りにも感覚的・精神的な世界における出来事であるため、分からない者には永遠に分からない類のことなのである。human kindは決して平等などではないのである。「ヒト」であるものは既に現状においてこのことを知覚し、動き始めているのである。そしてそのことを察知した米欧の統治エリートとそれにコントロールされた「人間」たちからの圧倒的な抑圧にもかかわらず、一人、そしてまた一人とグローバルなネットワークを創り始めているのだ。米欧の統治エリートは最終的にこれに屈する自分のことを知っている。だからこそまずは自らにとって最も有利な「グローバル化」を強引に推し進めたのだ。それは、師のいう「ペリー来航」という形で我が国にかつて押し寄せた。
しかしそこで現前として発見されたものに驚愕したのは米欧の統治エリートの側だったのである。我が国に帰化した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の言葉を紹介しつつ、野々山師はこう書いている。
「日本の第一印象の多くは、没個性的で表情に乏しいと言われます。しかしハーン氏(註:ラフカディオ・ハーン)は『仏像の夢を見るようなおだやかさ―――あの愛も憎しみもなにも示さず、わずかに心の静謐のみを示す、あの特別なおだやかさ』を感じとりました。
そして、西洋人にとって不可解な『日本人の微笑』も理解します。それは『菩薩の微笑みの観念と同じである。それは自己を抑え、自己を殺すことによって生まれる幸福なのである。』『あの深い、静かな水のように落ち着いた、あの大仏様の表情・・・東洋人が憧れてきた境地は、こうした無限の安らぎ、無限の静寂であった。そして日本人も最高の自己自身の理想としてきたのです。今日の日本は、西洋文明の影響を受けて、表面は波立ち動揺しているが』と。右の2点は日本の霊性の二大特徴といえます。このような古き良き日本を再発掘するべきです。そして、再構築して、世界に発信して行く使命があります」
かつて私は独キール世界経済研究所が主催していたグローバル・エコノミック・シンポジウム(Global Economic Symposium)に参加していたことがあった。一時はかなり熱心に参画していたが、ある瞬間から一気に冷めてしまった。なぜならばこんなことがあったからだ。
あるタイミングからフランス人の「チベット僧」なる人物が主要メンバーとして招かれるようになった。その筋では高名な人物であるそうだが、その説く内容が余りにも稚拙で茫然としてしまったのである。曰く、「これからの世界で必要なのはcompassionである」と。主催者や並み居る米欧からの列席者たちは真剣な眼差しでこのcompassion論を聴き、「瞑想しましょう」という言葉にしばし目をつぶり、黙していた。
私にとってそれは正直、茶番でしかなかった。そして同時に、隣に座る米欧からの出席者たちに対してある種の憐れみを感じざるを得なかったことも吐露しておきたい。なぜならば彼・彼女らは「そうすること」によってだけ、ほんの少しだけ「在るべき姿」「ヒト」に戻ることが出来るからである。だが私たち日本人は違う。何も「compassion」などという単語を取り出さなくとも、他者を慈しむことをベースに生を営むことを生れ出た瞬間からこの国にある精神的風土の中で元来学んできているのだ。そこが・・・彼岸と決定的に違うところなのだ。
「日本的霊性」―――鈴木大拙師が語ったこの言葉を米欧の統治エリートがもっとも脅威に感じたであろうことは、その後の我が国における言説空間における「流行」の創出・演出具合からも分かるのである。この点についても野々山師は実に示唆に富む指摘をされている。
「2000年頃、藤原正彦著『国家の品格』という本が注目をあびていました。現今の国際社会を覆う西欧文化・価値観の、致命的欠点を明晰に指弾して、それを超えたものとして武士道の再評価を、推薦しています。
国際経験豊かな数学者らしい鋭い切り口と、時代劇の中から抜け出した亡霊のようなものとの配置が、ミスマッチでありつつ、絶妙のようでもあります。
藤原正彦さんの武士道は、父から受け継いだ体験を、新渡戸稲造の『武士道』により体系化されたものに見受けます。美点ばかりに注目していますので、武士道の長所を確認するためには良書です。右の書は、武士道の理想像を説いたものです。現実の武士の多くは、この人口に留まっている程度だったようです。
しかし武士道には大きな欠点があります。争い、戦争を前提にしている点です。争いなくしては存在する余地がありません。だからこそ、狂気のごとき一面をそなえています。名誉を極端に重んじ、ささいなことで切腹します。また、いつ戦争で死ぬかもしれないため、心の準備を必要とし、強度の緊張感が心の安定をゆるがせます。その他様々な欠点は、明治維新以後、現在にいたる日本の歴史が如実にしめしています。すべて武士達、またはその余薫を汲んだ者達が指導してきたのです。
どんな長所があったにせよ、武士は戦いを求めるもの、武器をもって威嚇するものです。平和とは正反対のものです。地球人類に平安をもたらすはずはありません。
山本博文氏、武光誠氏はそれぞれ別の視点から、武士道の原点は『和』である、と言っておられます。しかしそれは、現今の警備会社がお得意先を大切にするのと同様の意識作用であり、『和』の精神とは別物です」
そして野々村師は滑稽なまでに我が国でつい先日までもてはやされていた「武士道」と対極にあるものとして「商人道」を置くのである。戦後日本に暮らす私たちは「江戸時代とは士農工商という厳密な社会秩序による、窒息しそうな重苦しい時代」であるかのように学校で学んできている。だが、現実はどうであったのかというと国内での血みどろの争乱は無くなり、対外戦争にも巻き込まれることのない平和な260年余だったのである。そしてそれを実現したのは武士道ではなく、人口の大半を占める人々による「商人道」であり「庶民道」だったのである。そしてそれを通じて出来上がった世の余りの平穏さと充実さを「開国」を力づくで求めてきた米欧人たちは目の当りにし、衝撃を受けるのである。野々村師は謂う。
「商人道の根底には、人間皆平等、互いに助け合い、楽しく、いたわり合って、仲良く暮らしてゆこう、みんな一緒に繁盛しよう、と言う共存共栄の精神、おもいやりと共生の心があります。その一方で各店ごとの創意工夫にはしのぎをけずって競争していたそうです。バランスをうまくとっていたのです。
単なる知識ではなく、生活の中で実践してゆくもの、身に染み付いて癖になっているものだけに、年配であるほど味が深まり、若いものの見本となり、あこがれとなりました。
・・・(中略)・・・
江戸期にくらべて、現代はかなりレベルが低いと言わざるを得ません。大人になってなお幼児のごとき人が多く、精神性の退行を如実に示しています。明治維新期に、幕府と江戸文化を混同して抹殺してしまったところから、この退行が始まり、今に至ったのではないでしょうか。東西の英知を融合すれば良かったのですが、今だから言えることでしょう。
江戸しぐさの理念は『和敬清寂』と同根と思われます。仏道につながっています。謙譲の美徳、忍耐と克己心・セルフコントロールに満ちています。それが商業と一つになっているところが、商人道の最たるところです。
反面、弱肉強食を当然とし、支配者と被支配者の関係で社会を見る、野獣的、西欧的考え方が蔓延してしまった現代からは、ずいぶんなまぬるいものに見えるかもしれません。しかし、本当の強さは、忍耐力と無私にあるのです。
このような天上的社会が、この人間界に存在した時期があった、とういことが重要です。・・・(中略)・・西欧の一部の先哲が理想的社会と、夢見たものでもありました。きっといつかは、地球全土に実現する時がくるでしょう」
以上、野々山師の珠玉の言葉を読み進めてきて、読者の多くは嘆息を禁じ得なかったのではないかと拝察する。なぜならばそこで描かれている「理想像」は余りにも現実とかけ離れており、その間、無尽蔵に失われしものに想いを馳せるならばそうせざるを得なくなるのである。そしてまたその中で惰性と享楽に身をやつし、「ヒト」ではなく「人間」に堕しているこれまた無数の同胞を想う時、「本当に大転換という意味での”その時”は到来するのだろうか」と感じてしまうに違いない。
だが、私自身はあくまでも楽観的である。なぜならばこの「転換」は何も大袈裟な天下国家論から始まるべきことではなく、「日本的霊性」は「商人道・庶民道」、すなわち日々の営みの中における”躾”とそれを尊ぶ心から生じる、「生きること」そのものだからである。したがって覚醒した者は今この瞬間から、すぐその場で始めることが出来るという点で複雑なシステム変更や経典・教義読解を必要とする彼岸のやり方とは大きく異なるのである。そしてまたその意味で私たち日本人全員が当事者であり、プレイヤーであり、変革者でもあることも忘れられないのである。
「混乱の中、未来に向けた答えはすぐそこにある」―――そう思えて仕方がない。そのことを再確認させて頂いた野々山宏全師にこの場を借りて衷心より御礼申し上げたい。誠にありがとうございました。そして拙著がまた一つつなぎあわせてくれたご縁に、そしてその背後にある「無上に尊きもの」に心からの感謝を覚える次第である。
(原田武夫「世界史を動かす日本 これからの5年を迎えるために本当に知るべきこと」(徳間書店))
2014年12月21日 東京・国立市にて
原田武夫記す